2023年12月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教/クリスマス礼拝
●聖書 イザヤ書7章14
    ルカによる福音書2章8〜20
●説教 「天使のクワイア」

 
   おとぎ話では?
 
 クリスマスおめでとうございます。
 本日は12月24日でクリスマス・イブの日ですが、ちょうど日曜日となりました。プロテスタント教会では、一般に、12月25日が日曜日ではない場合は、それ以前の直近の日曜日にクリスマス礼拝をする習わしがあります。それで今年はクリスマス礼拝と、クリスマス・イブ礼拝が同じ日に重なるということになりました。
 クリスマス礼拝の説教箇所の聖書と言いますと、たいていマタイによる福音書の東の方からやってきた博士たちの物語か、あるいはルカによる福音書の、野宿をしていた羊飼いの物語のどちらかを選ぶことが多いのですが、今年はこの朝の主日礼拝では、野宿をしていた羊飼いたちのできごとを扱い、イブ礼拝では、東の方からやってきた博士たちのできごとを扱うことにいたしました。
 そしてこの礼拝の説教題は、「天使のクワイア」といたしました。この聖書箇所では、野宿をしていた羊飼いたちの前に天使が登場いたします。しかもおおぜいです。そして賛美の大合唱までいたします。それで「天使のクワイア」といたしました。まさに天使の大軍のショータイムです。
 こういう聖書箇所を読むと、「これは作り話だよね」と思う人が多いのではないでしょうか。天使が出てくる時点で、そう思われます。ですからこの物語も、日本昔話や、アンデルセン童話のような目で見られるのだと思います。たとえば「桃太郎」では、桃から桃太郎が生まれ、やがて犬と猿とキジを従えて鬼を退治に行きますが、だれも「そんなことありえない」とは言いません。皆それが作り話であることを知っていて、その上で楽しんでいるからです。
 聖書もそういうものだろうと、とくにきょうの箇所のような天使のクワイアが書いてあったりすると思うでしょう。これはおとぎ話のたぐいなのだと。しかしそういたしますと、羊飼いたちが天使のメッセージを聞いてベツレヘムに行って、イエスさまのお生まれになった馬小屋に駆けつけ、そこで生まれたばかりのイエスさまにお目にかかるというできごともまた、おとぎ話、または創作童話のたぐいであるということになってしまうでしょう。
 さてそうしてもう一度きょうの聖書箇所を見てみますと、どうやらおとぎ話とはだいぶ様子が違うことが分かります。まず、夜、野宿をしていた羊飼いたちの前に天使が現れたとき、「彼らは非常に恐れた」と書かれています。天使が現れた時に、平然としていたのではありません。驚き恐れたのです。それは極めて自然な反応だと思います。また彼らは、天使のメッセージを聞いて、ベツレヘムに行き、そのとおり飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるわけですが、羊飼いたちの話を聞いた人々は「ふしぎに思った」と書かれています。つまり、誰も本気で信じなかったのです。羊飼いたちはそこで出会った人々に語ったことでしょう。‥‥私たちの所に天使が訪れた、そしてベツレヘムの町に救いぬしが生まれて飼い葉桶の中に寝させられていると告げた、そして次に天使の大軍が現れて賛美の大合唱を始めた‥‥と。しかし聞いた人々は、ふしぎに思った。そんなことあるわけない、と思ったのです。
 おとぎ話では、天使が出てきても驚かないし、信じるでしょう。しかしこの聖書箇所は非常にリアルです。誰も本気で信じない。
 しかしここでただひとり信じた人がいました。それがイエスさまの母マリアです。「しかし、マリアはこれらのできごとをすべて心に納めて、思い巡らしていた」と書かれています。マリアも天使から、受胎告知を受けた経験があるからです。聖霊によって神の子を身ごもったと。そして実際にその通りになった。ですからマリアは、羊飼いたちの言うことを信じて心に留めたのです。そして、宿がなくて馬小屋で出産にいたったけれども、羊飼いたちの言葉を聞いて、たしかに神さまがすべてを守っていてくださっていることを信じることができたでしょう。
 
   なぜこの羊飼いに?
 
 さて、神さまは、なぜこの羊飼いたちに天使を遣わして、イエスさまの誕生を告げられたのでしょうか? この羊飼いたちだけにです。神さまが天使を遣わしたのは、国の王様でも影響力の或る人でもありませんでした。無名の貧しい羊飼いたちでした。この理由について、いろいろなことが推測されています。
 たとえば、神さまは、あえて無名の貧しい、そしてゆっくり寝ている暇もない厳しい労働に従事している羊飼いをお選びになったのだ、という説明があります。また、羊飼いたちは、それこそ安息日のおきてを守ることができませんから、当時は罪人のように扱われていました。しかし、神さまは、あえてこの羊飼いたちをお選びになることによって、この世の権力を握る王様や貴族、あるいは自分たちは正しいと思っているファリサイ派などの宗教家たちに対して、「No」を突きつけられたのだ、断罪されているのだと。そういう説明があります。
 あるいはまた、この羊飼いたちは、旧約の預言者たちが予言していた救い主が来られるのを、ずっと待ち望んでいた。だから神さまは、この人たちの所に天使を遣わしたのだ、という説明があります。たしかに説得力があります。しかし、この羊飼いたちが予言を信じて待ち続けていたということは聖書のどこにも書かれていません。だから、そうかも知れないけれども、本当のところは分からない。
 すなわち、どの説明も、そうかも知れないのですけれども、本当のところは分からないのです。しかし私は、分からなくて良いのだと思います。なぜなら、神さまはご存じだからです。神さまには、この野宿をしていた羊飼いたちに天使を遣わして、キリストの誕生をしらせる理由があったのです。この貧しく、きつい労働に従事し、安息日のおきても守ることができないような羊飼いに、天使を遣わし、生まれたばかりのイエスさまに所に導く理由があったんです。
 同じように、私たちが教会に導かれ、イエスさまのみもとに導かれたこともそうです。私たちがキリストの体である教会に導かれたのは、イエスさまによれば、神さまの導きです。次のようにイエスさまがおっしゃっています。
(ヨハネ 6:44)「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」
 だから、神さまが教会に、そしてキリストのもとに導かれたに違いありません。ならばなぜ神さまは、この私を導かれたのか?‥‥それはまったく分からないのです。私たちには理由が分からない。しかし、神さまには理由があったということです。そしてそれで良いということです。神さまにお任せするだけです。
 
   羊飼いの喜び
 
 羊飼いたちは天使の語ったとおりベツレヘムに行き、馬小屋の飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエスさまにお目にかかり、喜びに満たされました。そして神を崇め、賛美しながら帰っていきました。
 なにか、羊飼い、うらやましいなあ、と思いませんか。でもうらやましがる必要はないんです。なぜなら、イエスさまに出会うことができるのは、羊飼いだけではないからです。聖書では、ある一人に恵みを示して、それが全体に当てはまるということがよく出てきます。つまり、羊飼いに起こったことは、形は変わるかも知れませんが、誰にでも起きることであるということです。イエスさまに出会うということがです。
 すでにご報告しましたように、先月11日に私は心筋梗塞を起こし、救急車で病院に運ばれました。心電図を取ったあと、心筋梗塞を起こしているとの診断がなされ、ただちにカテーテル手術がなされました。局所麻酔です。手術中、自分はどうなるのかと思いました。死ぬかも知れないんだなあ、と思いました。そのときです。ふしぎな平安に包まれました。死の恐れが消えたんです。私が信仰深いということではありません。注射一本嫌いな私が、ふしぎにも天国へ行くのも良いかも、というような平安に包まれたんです。この弱い私がです。
 イエスさまが平安を与えてくださったのです。このことを申し上げるのは、これが私にだけ与えられる平安ではないと思われるからです。キリストを信じる者、だれにでも与えられるものであると思うからです。罪人でも、弱くても、足りないところだらけでも、キリスト共にありたいと思う人すべてに与えられる平安であると思ったのです。これは良い知らせですね。
 
   天使のクワイア
 
 真夜中、野宿をしていた羊飼いたちの前で繰り広げられた天使のクワイア、賛美の大合唱。これは羊飼いたちだけのものではありません。やがて私たちもそれに加わる希望が与えられているのです。どこででしょうか?‥‥天の国においてです。
 昨日、この礼拝堂で、青木英人兄の葬式を執り行いました。そのとき読んだ聖書、ヨハネの黙示録の7章には、天国の光景が書かれています。そこでは、人種、民族を超えた巨万の大群衆が、神と小羊なるイエスさまの前に進み出て、天使たちと共に賛美を歌っています。これが私たちの行くべき究極の世界だと聖書は言っているんです。天上のクワイアです。
 野宿をしていた羊飼いたちの前で展開された光景は、この天国の礼拝賛美の先取りです。予言です。私たちもここに招かれています。


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