2023年12月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント第3主日
●聖書 列王記上18章36〜37
    ヨハネによる福音書2章23〜25
●説教 「信じるということ」

 
   ベツレヘムのクリスマス
 
 先週の新聞に、今年のベツレヘムの聖誕教会でのクリスマスが中止になったとの報道がありました。ベツレヘムはエルサレムのすぐ南側にありますが、パレスチナ自治区の中にあります。そして、このたびのイスラエルとガザのハマスとの戦争で、異例の中止にしたとのことです。
 ベツレヘムの、イエスさまがお生まれになった場所だと言われるところに建つ聖誕教会前の広場には、毎年大きなクリスマスツリーが飾られ、世界中から巡礼者が訪れていました。教会堂の中には、イエスさまがお生まれになった人形が置かれています。しかし今年は、飼い葉桶の中ではなく、がれきの中に置かれたそうです。戦争に対する無言の抗議だとのことです。新聞記事によりますと、牧師が「キリストが今年生まれていたら、こんな光景となる。祝福は中止するが、祈ることはやめない」と語り、一刻も早い戦闘終結を訴えたとのことです。
 私もベツレヘムのその聖誕教会に、今から19年前の2004年に行きました。当時、紛争が終わって間もない頃で、旅行会社による聖地旅行は再開しておらず、宣教師の先生が個人で組んだ旅に同行しました。8月上旬でした。ちょうどバカンスのシーズンですから、ふだんならば聖誕教会は世界中からキリスト者が巡礼に訪れているはずなのですが、紛争終結直後だったので、私たちの他には誰も観光客はいませんでした。ガランとした会堂でした。私は胸が痛みました。2千年前、イエスさまがお生まれになった時、そこに導かれたのは野宿をしていた羊飼い、そして東方の博士だけでした。他には誰も知りませんでした。しかし今は世界中の人がキリストがベツレヘムで生まれたことを知っているのに、紛争のために訪れることができない。人間の罪をあらためて思わされました。
 イスラエルにも、パレスチナにも、少数のキリスト者がいます。私たちはその兄弟姉妹たちの祈りに心を合わせたいと思います。
 話しは変わりますが、私が中学生の時のことです。当時、ベトナム戦争が激しさを増していました。そしてアメリカ軍が、北ベトナムを無差別に爆撃していました。私は、政治に関心のある中学生でした。それで、キリスト教放送局のFEBCラジオに手紙を書きました。「アメリカはキリスト教国なのに、どうしてあのようにベトナムを爆撃しているのですか?」と。するとしばらくしてFEBCの人から返事が来ました。さすがFEBCですね。その返事にはこのようなことが書かれていました。「たしかにアメリカはキリスト教国ですが、本当にイエスさまを信じている人は少ないのです‥‥」。
 私は、それを読んで「ふ〜ん」と思いました。そして「本当にイエスさまを信じるって、どういうことなのかな?」と思った。そのことを思い出します。
 
   信用なさらないイエス
 
 本日のヨハネによる福音書の箇所に入ります。本日の聖書箇所には、ドキッとすることが書かれています。おそらく皆さまも戸惑われたと思います。それは24節です。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」
 イエスさまのなさったしるしを見て多くの人々がイエスさまを信じたけれども、イエスさまは彼らを信用されなかった。その「しるし」というのは、ヨハネによる福音書の書き方で、奇跡のことです。前回、イエスさまはユダヤ人の過越祭のためにエルサレムの神殿に行かれました。そこで神殿の境内で、いけにえの動物を売っている人や両替商を追い出されました。そして、イエスさまはエルサレムにおられる間に、奇跡をなさった。どんな奇跡を行われたかについて、ヨハネによる福音書はまったく書いていませんけれども、これは他の福音書が書いているように、病気の人を癒やされたとか、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたとか、そういうことであったと思います。そういうイエスさまのしるしを見て、多くの人が「イエスの名を信じた」と書かれています。「イエスを信じた」と書かれているのではなく、「イエスの名を信じた」と書かれています。これは、当時は名前というものには力があると信じられていましたので、イエスという方が救い主キリスト、メシアであることを信じたということになります。
 ところがイエスさまのほうは、「彼らを信用されなかった」というのです。人間を信用しない。たいへん疑い深い人のように聞こえます。なにかちょっとイエスさまのイメージダウンのようにも聞こえます。なぜなら、私たちはイエスさまという方は愛の人であり、だまされても私たち人間を信じてくださる人ではないかと思うからです。
 たしかにこの世の中は、信じて裏切られることも多い世の中です。オレオレ詐欺に引っかかって、全財産を取られた人がいます。「大丈夫だから」と言われて保証人になり、その人が逃げてしまい、代わりに多額の借金を負わされる人もいます。仲間だと思って信頼していた人に裏切られることもあります。信じて結婚したはずなのに、裏切られると言うこともあります。‥‥そういう世の中です。だから現代人は、なかなか「信じる」ということが難しくなっています。しかしそういう世の中だからこそ、人を信じるということは美しいことのように思われます。
 しかしここには「イエス御自身は彼らを信用されなかった」と書かれている。たとえだまされても、人を信じるほうが人間として美しいのではないか?
 ただこの「イエス御自身は彼らを信用されなかった」という言葉ですが、口語訳聖書は次のように訳しています。「しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」‥‥これは言ってみれば、イエスさまは彼らを「それで良し」とはされなかった、ということです。つまり、人々はイエスさまのなさる奇跡を見て、イエスさまが救い主キリストであると信じた。しかし人々が「信じた」というそのことを、それで良しとはされなかったということです。
 
   証ししてもらう必要がなかった
 
 なぜイエスさまが彼らの「信じた」ということを「信用」なさらなかったのか、すなわち「それで良し」とはなさらなかったのか?
 その理由について25節に書かれています。「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、なにが人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである。」‥‥人間というものがどんなものか、他の誰かに説明してもらう必要がなかった。なぜなら、なにが人の心の中にあるかを知っておられたからだ、と。そのようにヨハネは書いています。
 このときイエスさまのなさる、病の癒やしであるとか、悪霊追放であるとかのしるし(奇跡)を見て信じた人々。その人々は、奇跡を見て信じたわけです。もちろん、病を得ている人にとって、病がいやされるということはすばらしいことです。しかしそれを見て信じた人々。その信仰とはどういう信仰でしょうか?‥‥それは言ってみれば、ご利益(りやく)信仰であると言ってよいでしょう。すなわち、自分にとって良いことが起きれば信じる。そしてそれは、自分の願いをかなえていただくために信じる、ということにつながります。しかし、自分の願いがかなえられない。あるいは、自分の思い通りにならない。そうなると去っていく。‥‥それがご利益信仰です。
 こんなことを申し上げるのも、かつての私自身がそうであったからです。かつて私は高校3年生の時、自ら熱心に教会の礼拝に通ったと、何度か申し上げました。それは希望する大学に合格させてください、と祈るために通ったのです。そして合格しました。神さますごいと思いました。しかし大学に行って、しばらくして教会から離れました。それは教会の人につまずいたからです。そして「こんなひどい人がいる教会なんて、もう通わない」と決心しました。そして神さまのことまで信じなくなりました。1歳の時に命を助けていただき、そのちょっと前には大学に合格させてもらったと信じていたのにです。
 それは一見、教会の人につまづいたのであって、イエスさまにつまずいたのではないように見えます。しかし実はイエスさまにつまずいたのです。その教会員のような人もご自分の教会に受け入れているイエスさまにつまずいたのです。
 つまり私は、自分にとって都合の善いことをしてくれればイエスさまを信じるけれども、不都合なことがあれば信じるのをやめた。まさにご利益信仰です。‥‥そういう過去があるから、そのように申し上げているのです。
 このときイエスさまを信じた人々もそうでありました。イエスさまこそ救い主キリストであると信じた人々が増えていく。しかしイエスさまの十字架の時には、そのような人々は消え、代わりに、イエスさまを十字架につけろと叫ぶ群衆や、十字架にかかったイエスさまに対して、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」(マタイ27:40)とののしる人々がいました。無力に十字架に張りつけにされたイエスさまの姿を見て、多くの人々がイエスさまを信じるのをやめたのです。
 
   自分のことも信用ならない
 
 イエスさまの弟子たちもそうでした。イエスさまを信じて、イエスさまに従って行ったはずの弟子たち。しかし十字架の前の晩、イエスさまが捕らえられると、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げて行きました。また、使徒ペトロは、イエスさまの仲間だと言われて、「そんな人は知らない」と3度も言って、イエスさまを見捨てました。
 では弟子たちがイエスさまを信じたというのは、うそだったのでしょうか?‥‥うそだったとは思いません。しかし自分の罪というものが分かっていなかった。自分の弱さというものが分かっていなかったんです。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙で、次のように書いています。(ローマ 7:15)"わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。"
 自分で自分のことが信じられない。それが「罪」というものです。それが私たちの中にある。
 「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」(24節)。では、イエスさまは信用できない私たち人間を見捨てられたのでしょうか?‥‥私たちは、ふつう、信用できない人とは付き合いません。距離を置きます。イエスさまは、自分中心で、信用ならない私たち人間をお見捨てになったのでしょうか? 離れて行かれたのでしょうか?
 いいえ、違います。逆です。まったく信用ならない私たち。その私たちを救うために、ご自分の命を捨ててくださったのです。それが十字架です。
 
   神の願い
 
 私たちの願いをかなえてもらう限りにおいて、神を信じる。そのように考える人は多いし、私たちもかつてはそのように考えていました。人間の願いをかなえてくれるのが神さまだと思っている。そしてイエスさまは憐れみ深い方ですから、私たちの願いにも耳を傾けてくださいます。しかしそれだけではないのです。
 私たちは、私たちの願いばかり考えますけれども、神さまの願いについて考えたことがあるでしょうか? イエスさまの願い、イエスさまが私たちに対して願っている願いについて、考えたことがあるでしょうか?
 幼子は、親に対して自分の要求、願いを並べ立てます。しかし親はそれを全部聞き入れてくれるわけではありません。なぜなら、親には親の願いがあるからです。親は、我が子にちゃんと育ってほしいと願っている。けれども幼子にはそれがなかなか分からない。
 神さまも、そしてイエスさまも私たちに対して願いを持っておられます。そのイエスさまの私たちに対する願いを知ろうとしているか。
 神さま、イエスさまの私たちに対する願いは、私たちが神の国にふさわしい人となるように、イエスさまと似た者となるように、という願いです。そして永遠の命を受けるようにと願っておられます。私たちがイエスさまと共に生きて、その平安の中を歩んで行くように。いつも感謝と平安で満たされているようにと。
 まったく信用のならないような私たちをお見捨てにならずに、救うために私たちを受け入れて、歩んでくださいます。そのためには、馬小屋の飼い葉桶に中にでもお生まれになって下さったのです。来週はクリスマスです。どうか主の御心を考えながら、歩んでまいりましょう。


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