2023年12月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント2
●聖書 出エジプト記25章8
    ヨハネによる福音書2章12〜22
●説教 「聖なる空間」

 
   主を待ち望むアドベント
 
 アドベント(待降節)に入ってから、礼拝開始前に聖歌隊が『讃美歌21』242番を歌う中、アドベントクランツに火をともしていただいています。
 この讃美歌の「主を待ち望む」という歌詞の意味には、2つあります。1つには、今から約2千年前にイエスさまが人の子としてお生まれになった、そのお誕生の日を祝うクリスマスを待ち望む、という意味です。つまり、過去にお出でになったイエスさまに思いを寄せています。そしてもう一つの「待ち望む」という意味は、やがて来られる再臨のキリスト・イエスさまを待ち望む、という意味です。それは私たちの救いの完成する日と呼ばれます。すなわち、未来に目を向けているわけです。
 そして、ヨハネの黙示録1章8節には、次のように書かれています。“神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」”
 イエスさまは、昔おられ、やがて来られるだけではありません。それだけだと、ただ天国へ行くのを待つだけとなってしまいます。しかしイエスさまは、今おられる方でもあるのです。今、生きておられる方です。このことを心に留めたいと思います。
 
   実力行使
 
 本日のヨハネによる福音書の聖書箇所は、一般に「宮清め」と呼ばれる箇所です。宮、つまり神殿とは、神を礼拝する場所です。なぜ人々がエルサレムの神殿に行って礼拝するかと言えば、本日の旧約聖書の出エジプト記25章8節に書かれているように、神さまが「わたしは彼らの中に住むであろう」と言われた場所だからです。神さまに会うために礼拝に行くのです。
 そのエルサレムの神殿で、イエスさまが実力行使をなさったというのがきょうの聖書箇所です。たいへん印象的で、イエスさまがそんなことをなさるとは、意外に思われます。そしてこの出来事は、新約聖書の4つの福音書すべてに書かれています。ただし、時期が違っています。他の3つの福音書では、この出来事はイエスさまの地上での歩みの最後のほう、十字架にかかる最後の一週間である受難週の時の出来事として書いています。ところがこのヨハネによる福音書では、逆にイエスさまの宣教の働きの最初のほうのこととして書かれています。
 いずれにしても、イエスさまが実力行使をなさったというのは、たいへん印象的です。記憶に残ります。するとやはりイエスさまは、とても大切なことを私たちに教えておられるように思います。
 私が小学生の時のことを思い出します。夏休み、子供たちのラジオ体操が、近所の子どもが集まって、私の家の前の道路でなされていました。ある日私は、ふざけてラジオ体操をしたんですね。まじめにやらなかった。そしてラジオ体操が終わって、担当の人からカードにはんこをもらって、家に帰った。すると父親が私にビンタを張ったんです。家の窓から見ていたんですね。このことは忘れられませんでした。ふざけてラジオ体操をしていたことに父は怒ったんです。記憶に残りました。そう言えば父は、よく「下手でもいいから一生懸命やれ」と言っていました。
 口でいうだけではなく、実力行使をされたということは、人々の記憶に強く残ったと思います。もちろん、きょうの出来事でもイエスさまは決して人に危害を加えてはいません。しかしやはり人々の記憶に鮮明に残ったでしょう。すなわち、イエスさまは、このことを通して大切なことを教えようとなさったと思われます。
 
   なにを「否」となさったか?
 
 イエスさまは、ここでなにを「否(いな)」となさったのでしょうか?
 ふつうに読むと、神殿で暴利をむさぼる悪徳商人に対して鉄槌を下す正義のヒーローを演じられたように見えます。そうするとなにか時代劇のようですが、果たしてそういうことでしょうか?
 これは過越祭の時のことだと聖書に書かれています。過越祭というのは、ユダヤ人の3代祝祭日の1つであり、エルサレムの神殿に行ってお参りすることが義務づけられていました。ですから、多くの人々が神殿に礼拝に来ていたはずです。そして、イエスさまが実力行使をなさった対象というのは、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者、そして両替商でした。さてそれはいったいなぜでしょうか?
<理由@>
 なぜ神殿の境内で牛や羊や鳩を売っていたかということです。まず、神殿で礼拝するためには、ふつうは羊をいけにえとしてささげることが必要でした。しかし貧しい人は、鳩をささげれば良かったのでした。ただ、ユダヤ人の律法では、いけにえとしてささげる動物は、傷のない、良いものをささげなくてはなりませんでした。羊や鳩は、ここで買わなくても、自分で持って来てもよかったのですが、傷のない、良い羊や鳩かを調べる人がいて、たいてい「ここに傷がある」というようなことを言われて、結局ここで羊や鳩を売っている人から買わなくてはならなくなったのだそうです。
 また、なぜ両替商がいるかということですが、神殿で神さまにささげる献金は、「聖所のシェケル」と呼ばれる特別のお金でなければならなかったのです。そのため、自分のお金をここで両替することになる。そのときに、手数料を取られるんですね。そういうことで両替商がいた。そして、羊や鳩を売る人たちの利益、そして両替商の利益の一部は、神殿を管理する祭司に渡るようになっていたそうです。もちろんそれは暴利というほどの利益ではなかったかもしれない。しかし、神さまを礼拝するために来た人を相手に、商売をしている。彼らにお金を払わないと神さまを礼拝できないようなシステムになっていた。このことに対してイエスさまは実力行使をしてやめさせた、そう考えることができます。
<理由A>
 もう一つ考えられることは、彼らが商売していた場所は、神殿の境内の「異邦人の庭」と呼ばれる場所でした。それは境内の中のいちばん外側の場所でした。ユダヤ人はもっと聖所と呼ばれる神殿本体の建物の近くまで行くことができたのですが、柵で区切られていて、異邦人(異教徒)は、いちばん外側の区域しか入ることができなかったのです。だから、異邦人はそこで神さまを礼拝した。ところがその場所で、羊や鳩を売る者、そして両替商が商売をしていたんです。おそらく、商売をするやりとりの声が飛び交い、落ち着いて神さまを礼拝するような雰囲気ではなくなっていたことでしょう。
 それに対してイエスさまは、実力行使をなさった。すなわち、異邦人でありながら、真の神さまを求めて来た人が、礼拝することを妨げることへの「否」です。つまり、礼拝というものが、いかに尊いものであるかということを教えておられる。
 
   7番目の日
 
 さて、ヨハネによる福音書は、これまで「その翌日」「その翌日」「その翌日」‥‥というような書き方をして、最初の一週間の出来事を強調しているということは、前回も申し上げました。振り返ってみますと
 1日目:洗礼者ヨハネの登場
 2日目:イエスの登場と洗礼者ヨハネの証し
 3日目:アンデレと無名の弟子(ヨハネ)、シモン・ペトロがイエスの弟子となる
 4日目:フィリポとナタナエルが弟子になる
 5日目:記載なし
 6日目:(前回から三日目)カナの婚礼の奇跡。水をぶどう酒に変える、すなわち、イエスさまは神の祝福を与えるために来られたこと。
 こういう順序となっています。そしてそれは全聖書の一番最初の創世記の天地創造の一週間の出来事と重なっているということを申し上げました。そうすると、6日目は万物の創造が完成した日であり、神さまが祝福された日です。
 そしてきょうの出来事は、カナの婚礼からしばらくたってからのことだと思いますので、7日目のできごとではありません。しかし、7番目の出来事という形で、ヨハネによる福音書はここにきょうのできごとを載せていることはまちがいありません。そうすると創世記の天地創造では、どうなるでしょうか?‥‥7日目は、神さまが天地創造のわざを休まれた日です。そしてこれが安息日の由来となりました。つまり人間が仕事を休む日です。そして安息日は、ただ仕事を休むだけではありません。神さまを礼拝する日、聖会の日です(レビ記23:3)。それは仕事を休むことだけが安息ではなく、神さまを礼拝して、はじめて本当の安息となることを教えているのです。
 
   もっとも尊い行為=礼拝
 
 こうして今日のイエスさまの実力行使のできごとは、イエスさまが、神を礼拝するということが、たいへん尊いことであることを身をもって教えておられるということが見えてまいります。人間が神を求める。それは、人間にとってもっとも尊いことのひとつだということです。誰も妨げてはならないということです。
 世の中の多くの人々は、神を礼拝するというのは、自分の願いをかなえるための手段だと思っています。たとえば神社を参拝する人の多くは、合格を祈願したり、商売繁盛を祈ったりするために参拝します。これは、神を礼拝することは自分の願いをかなえるための手段であるということになります。
 かくいう私も高校生の時はそうでした。高校三年生の時には、ほとんど休まず教会の礼拝に通いました。それは希望する大学に合格させてくださいと、イエスさまにお願いするために礼拝に通ったのでした。この場合も、礼拝は、自分の目的をかなえてもらうための手段であったことになります。
 しかし聖書をよく読むと、それは逆であることが分かります。すなわち、礼拝は手段ではなく、目的であるということです。つまり、神さまを礼拝すること自体が私たちの目的であるということです。その証拠に、天国では礼拝がなされているということです。お葬式の時によく読みますヨハネの黙示録7章9節の所から、天国の礼拝の様子が書かれています。あらゆる人種、民族を超えた多くの人々が、父なる神さまとイエスさまの前に集まって、御使いたちと共に礼拝をしている光景です。これは、私たちの究極の姿が、真の神を礼拝することにあることを示しています。
 今回私は心筋梗塞で入院してみまして、あらためてそのことを思いました。心筋梗塞で救急車で病院に搬送されたのが土曜日の未明でした。そしてその日は、ベッドの上で仰向けに寝て、体を動かしてはならないと言われました。翌日は日曜日でした。この日は、体を動かしたり、起き上がることも許されましたが、ベッドから降りることは許されませんでした。スマホは持っていましたが、病院に患者の使えるWi-Fiがありませんでしたから、逗子教会のYouTube配信を見ることもできませんでした。ですからスマホに入っている聖書を読んで、それについて黙想することしかできませんでした。こんなことは、私がクリスチャンになってから初めてのことでした。しかしその時思ったのは、逗子教会で皆さんが集まって礼拝をしているということでした。なんと尊いことなんだろうと思いました。たしかに逗子教会で、皆さんが集まって礼拝をしている。ものすごい励ましとなりました。そして神さまを礼拝する、ということが、非常に尊いことであることが、ヒシヒシと伝わってきたのです。これも今回の入院で与えられた恵みでした。まことに感謝でした。
 
   イエスが神殿
 
 きょうの聖書の最後のほうで、イエスさまが「この神殿を壊して見よ。3日で建て直す」とおっしゃったと書かれています。そして、「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことであったのである」と書かれています。イエスさまが神殿であると。これはどういうことでしょうか?
 神殿とは、神さまを礼拝する場所です。なぜ神殿が神さまを礼拝する場所かといえば、最初に申し上げたように、そこに神さまがおられるからです。そうすると、イエスさまが神殿であるというのは、イエスさまと共に神さまがおられるということになります。だからイエスさまが神殿であると言われるのです。
 ですから、きょうのできごとは、もはやエルサレムの神殿は必要ないのだとイエスさまが宣言しておられるようにも見えるのです。イエスさまが共におられる。そのとき私たちは、神さまを礼拝できるのです。お会いすることができるのです。そしてイエスさまは、求める人誰のところにでも近づいてくださる方です。


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