2023年12月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨハネによる福音書2:1〜11
    ヨエル2:12〜14
●説教 「ぶどう酒となった水」

 
   心筋梗塞で受けた恵み
 
 本日、アドベントを迎えるにあたり、1か月ぶりにこの講壇に立てましたことを、心から主に感謝し、主の御名をほめたたえます。
 私の心筋梗塞での緊急入院につきましては、先週の礼拝の報告のところで申し上げたとおりですし、本日発行しました「逗子教会リバイバル通信」にも書いておきました。11月11日(土)未明、後頭部から首筋、そして左肩甲骨にかけてのものすごい張りと、みぞおちあたりを中心とした身の置き所のないような不快感。そして大量の汗をかいていることに異変を感じ、家内が救急車を呼びました。そしてそのまま横須賀共済病院に搬送され、心筋梗塞との診断のあと、ただちにカテーテルによる手術が始まったわけです。右手首に局所麻酔が打たれ、カテーテルが心臓まで入れられていきました。そのとき私は考えました。「生きるか死ぬか、死んだら天国か。そうか、天国かあ‥‥」と、何かふしぎな平安に包まれてしまって、死への恐れがなかったのです。
 みなさん、これは良い知らせではありませんか? もちろん、私たちイエスさまを信じる者にとってです。私がそう信じた、というのではありません。イエスさまが守り、平安を与えてくださったのです。
 私は今回で病院で命を助けられたのは3回目です。1回目は私が1歳の時、肺炎で死にかけました。だから記憶にはありません。2回目は私が23歳の時、喘息の激しい発作で窒息して死にそうになりました。このときは私が信仰から離れ、神を信じなくなっていた時でした。そしてそのとき、私は死が迫っているのを感じ、恐れました。そして心の中で神さまを思い出し、絶叫していました。そして3回目が今回です。それが今申し上げたように、ふしぎにも恐れというものがなかったんです。これは皆さんにとっても良い知らせではありませんか。また、それらの3回のすべてにおいて、私のために祈ってくれる人がいました。祈りの力も感じました。
 イエスさまはヨハネによる福音書でおっしゃいました。「わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27/口語訳)‥‥このみことばを思い出しました。イエスさまは私たちに平安を与えてくださる方です。主の御名をほめたたえます。
 
   最初のしるし
 
 さて、ヨハネによる福音書を読んでまいりましょう。きょうの聖書箇所は、「カナの婚礼」と呼ばれる箇所です。そして11節「最初のしるし」と書かれているとおり、イエスさまがなさった最初のしるしです。
 「しるし」というのは「奇跡」のことです。しかしそれをヨハネ福音書は「しるし」と読んでいます。つまり、イエスさまの奇跡というものは、単に摩訶不思議なわざというのではない。なにかの「しるし」、サインであるということです。そしてそれがなんの「しるし」であるかといえば、それはイエスさまという方がキリスト、メシア、救世主であるということのしるしであるということなのです。そのイエスさまがなさった最初のしるしが、このカナの婚礼における奇跡であるということです。
 ヨハネによる福音書以外の、他の3つの福音書では、奇跡というと、病気を癒やしたり、体の不自由な人を直す、あるいは悪霊を追い出すというものが多いです。しかしこのヨハネによる福音書が私たちに伝えている最初の奇跡は、婚礼の席で足りなくなったぶどう酒を満たす、という奇跡であるということです! そしてそれが、イエスさまがキリストであることのしるしであるというのです。
 ですから、私たちはきょうの箇所を通して、イエスさまという方がどういう方であるかということが分かります。これはものすごく喜ばしいことだと思います。
 
   カナの婚礼の奇跡
 
 「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。」と書かれています。そしてイエスさまと弟子たちも招かれて、宴席に連なった。「あ〜、イエスさまも婚宴の席に出席なさるんだなあ」と、何かうれしくなります。マリアは、どうやら宴席のお手伝いに来ていたようです。親戚か、あるいは友人の結婚式だったのでしょうか。
 ここでちょっとトラブルが起きました。それは、宴席の客にふるまうぶどう酒がなくなってしまったのでした。それでマリアは、イエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と告げた。するとイエスさまは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えられました。
 このところですが、皆さんお読みになっていて、なにか違和感を感じませんか?なにか昔の武士の家か、上流階級の親子の会話みたいです。イエスさまは大工の子としてお生まれになり、自らも大工さんでした。つまり一般庶民です。「婦人よ」だなんて、標準語ではこのようになるのは仕方ないのかも知れませんが、ガリラヤ地方にはガリラヤの方言というものがあったことが聖書を読むと分かりますから、もっとふだん庶民が話す言葉に置き換えてみると、臨場感があると思います。
 私の場合、神奈川弁や前任地の富山弁は自信がありませんので、出身地の静岡弁で置き換えてみました。だいたい次のようになると思います。
マリア「ぶどう酒がなくなっちゃったよ〜」
イエス「おばちゃん、そりゃあ俺とどういう関係があるだかね?おらん時はまだ来てないだよ」
マリアが召使いに「このお兄さんが言うことは、そのとおりにしてやってや〜」
どうぞ皆さんも神奈川弁とか自分の出身地の方言に置き換えてみてください。よりリアルに感じますよ。
 いずれにしても、ここでマリアは、我が子イエスさまにぶどう酒がなくなったという窮状を訴えた。それに対してイエスさまはマリアのことを、これは「おばちゃん」でも、この聖書の翻訳の通り「婦人よ」でも、どっちでもいいんですが、「母よ」とか「かあちゃん」とか呼んでないんですね。母と子という関係ではなく、今は第三者であるということを強調なさっています。イエスさまが、公に出られて、もう家族だからとかそういうことは断ちきって、だれかれ分け隔てなく働き始められたことを示しています。
 
   水がぶどう酒に
 
 しかしマリアは、息子だからというのではなく、「この人が」と、イエスさまご自身に対する信頼を寄せたのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使いたちに頼んだ。イエスさまにすべてをゆだねてしまったのです。イエスさまを信頼し、すべてをゆだねる。ここにマリアさまの信仰が見えています。我が子だからというのではなく、イエスさまに対する信頼です。
 するとイエスさまは、清めのための水がめ6つに、水をいっぱい入れるようにお命じになりました。清めのための水というのは、外から家に入る時に、身の穢れを洗い流すための水です。ユダヤ人は、宗教上の理由から、家に入る時にはその水を使って手や体を清めたのです。またその水がめは、一つが2〜3メトレテス入りのものと書かれています。これはリットルで直すと、一つがだいたい100リットルということになります。灯油を入れる20リットルのポリタンク5つ分ですね。それが6つ。たいへんな量です。当時の婚宴は、村人が皆集まり、それが何日も続いたといいますから、それぐらい必要だったのでしょう。その水がめに水をいっぱい入れるようにお命じになりました。
 ぶどう酒がなくなったというのに、水で満たせとおっしゃる。なんだかムダなことをしているように思われます。ところが水でいっぱいになった水がめの水が、ぶどう酒に変えられていたという。しかも、良いぶどう酒に変わっていた。これがイエスさまのなさった最初の奇跡です。
 
   召使いたちがいちばん実感
 
 この奇跡は、マリアだけではなく、弟子たちも知っていました。だからどんなに驚いたことでしょうか。しかしもっとも身をもってこの奇跡に驚かされたのは、水を汲んだ召使いたちに違いありません。
 召使いというのは、言われたとおりにいたします。ぶどう酒がなくなったというのに、水を汲んでどうすると思ったかも知れませんが、そう命じられたので、イエスさまに言われたとおりにした。水を汲むといっても、当時は水道の蛇口から水が出てくる、なんてことはありませんから、井戸まで行って、桶に水を汲み、その重い桶を担いで運んでくるわけです。たいへんな重労働です。ところが、その重労働が報われた。水がぶどう酒に変えられた。イエスさまによって。ですから、最も身をもってイエスさまのなさる奇跡を体感したのは、召使いたちに違いありません。
 このことは、私たちに大切なことを教えています。イエスさまのみことばに聞き従った時に、最もすばらしくイエスさまの恵みを体験できるということです。
 
   三日目
 
 ここまでヨハネによる福音書を読んできて、他の福音書にはない特徴がまた一つあります。それはきょうの2章の1節の「三日目に」という言葉です。これまでも、ヨハネ福音書は、一つの出来事のたびに「その翌日」「その翌日」‥‥と書かれていました。それを振り返ってみましょう。そうすると、以下のようになります。
 1日目:洗礼者ヨハネの登場。
 2日目:イエスの登場と洗礼者ヨハネの証し。
 3日目:アンデレと無名の弟子(ヨハネ)、シモン・ペトロがイエスの弟子となる。
 4日目:フィリポとナタナエルが弟子になる。
 5日目:記載なし。
 6日目:(前回から三日目)カナの婚礼。
 これは、創世記の最初の、天地創造の一週間に重ねることもできるように思います。それによると、6日目というのは、神さまによって動物と人間が造られ、万物の創造が完成した日です。神が祝福された日です。創世記1:31にこのように書かれています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
 このことはなにを教えているでしょうか?‥‥イエスさまが、私たちを祝福するために来られたことを証ししているんです。私たちに罰を与えるために来られたのではありません。私たちを不幸にするために来られたのでもありません。イエスさまは、私たちを祝福するために来られたんです。イエスは、私たち人間が罪を犯して、神さまが創造された世界をメチャクチャにしてしまった、その世界と私たちを救うために来られたんです。破滅に向かう人間を救い、神の祝福を取り戻すために来られた。そのことを、きょうの聖書は教えています。そのしるしが、水がぶどう酒に変えられたという奇跡です。
 
   終わりの方が良いものを
 
 宴会の世話役は、イエスさまが水をぶどう酒に変えたことを知りませんでした。そして持って来たぶどう酒を飲んでみて、花婿に言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 私は、ヨブ記の最後のところを思い出します。ヨブは敬虔に神を信じる人でしたが、突然多くの苦しみに遭いました。すべてを失いました。健康も失いました。しかしその苦しみと神への問いの果てに、神さまはヨブをいたわり、祝福してくださいました。そして聖書(口語訳)はこう記しています。(ヨブ記42:12)「主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。」
 私たちは年を取ると、次第に体が衰えていきます。病気もいたします。つらいことに出会うことも多くなります。しかし、主はヨブの終わりを初めよりも多く恵まれました。そして婚宴の世話役は言いました。「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」主は私たちの終わりを、初めよりも多く恵まれる方です。水をぶどう酒に変える奇跡を見せてくださる方です。私たちの人生、主は、良いぶどう酒を取っておいて下さる方です。
 この主を信頼して歩んでまいりたいと思います。


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