2023年11月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
■聖書 サムエル記上9章15〜16
    ヨハネによる福音書1章43〜51
■説教「知っておられる方」

 
   一日百回の感謝
 
 はじめに、キリスト教雑誌『百万人の福音』11月号の読者からの短歌の投稿コーナーに掲載されていた短歌をご紹介したいと思います。
 "できること一日百回「ありがとう」すべてのことがうれしくなった"
 栃木県の女性の方の短歌です。一日に百個の恵みを数えて神さまに感謝するということは、以前私もご紹介いたしました。一日百回、神さまに「ありがとうございます」と感謝を述べるには、私たちがふだん当たり前に思っていることも、当たり前ではないのだと気がつくことによってできることです。朝目が覚めたら、目が覚めたことに感謝。手が動くことに感謝。顔を洗えることに感謝‥‥という具合に、当たり前のように思っていることも当たり前なのではなく、神さまのおかげであると感謝する。またつらいことがあった時には、「このつらいことを、イエスさまに助けてくださいと祈ることができることを感謝します」と言うことができます。
 しかし、そのように自分についてだけ感謝をするのでは、たぶん百回まで行かないのではないかと思います。感謝の祈りはもう少し広げることもできます。たとえば、電車の中で、席を高齢者にゆずった時には「神さま、席をゆずることができました。ありがとうございます」と祈ることができます。つまり人様のお役に立てたことを感謝する。あるいは、誰かのために祈った時には、「神さま、あの人のために祈ることができたことを感謝します」と祈ることができます。そんなことを思いました。
 
   弟子になったいきさつの違い
 
 さて、ヨハネによる福音書ですが、前回までのところで、3人の人がイエスさまの弟子となりました。そして今日のところでは、新たに2人の人がイエスさまに従っていきます。「従う」というギリシャ語の言葉は、「ついていく」という意味です。つまりイエスさまについていく、それがイエスさまの弟子となるということです。
 ここまでを振り返りますと、それぞれイエスさまについて行ったいきさつが違っていることが分かります。最初に弟子となったアンデレともう一人の名前が書かれていない人(この名前が書かれていない人は、この福音書を書いた使徒ヨハネだと思われます)は、共に師である洗礼者ヨハネのがイエスさまを指して言った言葉、すなわち「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉を信じてイエスさまについて行きました。
 シモン・ペトロは、兄弟のアンデレに連れられてイエスさまに会って弟子となりました。本日のフィリポは、イエスさまから「わたしに従いなさい」と言われてついて行きました。ナタナエルは、フィリポに「来て見なさい」と言われてイエスさまと会って、イエスさまを信じました。そのように、みなそれぞれ違う形で、イエスさまの弟子となっています。
 これは私たちも同じです。みな違う形で、イエスさまの所に導かれています。たとえば私は、クリスチャンの両親に元で生まれ育ちましたが、教会を離れました。そのあと、一度死にかけるという危機を通して、ふしぎな出会いが連続してあって、再びキリストのもとに導かれました。キリストの荒療治とも言うべきものでした。それに対して妻は、キリスト教とは無関係の家に生まれ育ちましたが、教会付属の保育園に勤めたことから、その主任である牧師夫人に誘われて礼拝に出るようになり、そのまま導かれました。
 そのように私たちはみな違う形でイエスさまの所に導かれました。しかしいきさつは違っても、イエスさまの所に導かれた、ということが大切です。そこからが始まりだからです。
 
   ナタナエルとイエス
 
 さて、きょう新たにイエスさまに従うことになるナタナエルという人です。このナタナエルという人は、他の3つの福音書の12使徒のリストには名前がありません。では12使徒の一人ではないのか?と思う人もいますが、おそらくナタナエルは他の福音書で出て来るバルトロマイと同一人物であると思われます。なぜなら、バルトロマイというのは、日本語に訳すと「トロマイの子」という意味であり、名前ではないと思われるからです。つまりバルトロマイの名前がナタナエルです。
 ナタナエルは、友人のフィリポが「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言った時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えました。フィリポが言った「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」というのは、要するにメシア、キリストという意味です。それがナザレの人イエスだとフィリポが言ったのです。
 それに対してナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えた。これは、一見ナザレという小さな村をバカにして言っているように聞こえるかも知れませんが、ナタナエルはナザレをバカにしたわけではなさそうです。このあとのやりとりから考えますと、ナタナエルは、私たちの言うところの旧約聖書(ユダヤ人にとっては旧約聖書が聖書であるわけですが)には、ナザレという町の名前が出てこない。だから、そこから預言者やメシアが出て来るはずがないと言ったのです。すなわち、ナタナエルという人は聖書に精通している、聖書をよく読み学んでいる人であることがここで分かります。
 そう言われてフィリポはどうしたかと言えば、「来て見なさい」とナタナエルに言っています。聖書に精通しているナタナエルと議論してもムダだと思ったのでしょう。とにかく、百聞は一見にしかずというわけで、「来て見なさい」と言ってナタナエルとイエスさまのところに引っ張っていった。
 するとイエスさまはナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃった。それに対してナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と答えています。このやりとりについてですが、イエスさまがナタナエルを見て「見なさい。まことのイスラエル人だ」とおっしゃったのは、ナタナエルの血統のことを言ってるのだと思う人がいるかも知れません。つまり、ナタナエルは、イスラエル人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの純粋な子孫である、と。しかしそうだとすると、イエスさまがおっしゃった「この人には偽りがない」という言葉の説明がつかなくなります。ですから血統のことではありません。
 このことについては、創世記のヤコブの物語がイエスさまの念頭にあると思います。創世記に出て来るヤコブという人は、アブラハムの子のイサクの子です。アブラハム、イサクと共に「族長」と呼ばれます。そしてこのヤコブからイスラエルの12部族が誕生しました。そしてヤコブという名前の意味は、「かかと」という意味なのですが、もう一つ「だます」という意味にもなるんです。それは、ヤコブが双子の兄であるエサウをだまして、エサウから長子の権利を奪ったという、創世記では有名な出来事があるのですが、まさに兄のエサウに対して「偽り」をしたわけです。そのヤコブは、兄エサウの怒りを恐れて遠く親戚の所に逃げて行くのですが、年月が経ち、やがてヤコブがエサウのいるところに戻って行く途中に、天使と格闘する(すもうをとる)という場面があります。そしてそのときに天使から、つまり神さまから「イスラエル」という名前をいただく。‥‥そういうヤコブの物語を念頭に置いて、イエスさまがおっしゃっているのだと思います。つまり旧約聖書のヤコブ(イスラエル)は、偽ったけれども、ナタナエルには偽りがない。まことに神と格闘している、真剣に道を求めている。イエスさまはそのようにおっしゃったのです。
 すなわち、ナタナエルが真剣に神と格闘し、道を求めていることをイエスさまはご存じであった。だからナタナエルはイエスさまに対して、「どうしてわたしを知っておられるのですか?」と答えたのです。
 するとイエスさまはおっしゃいました。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。これはイエスさまが見えないところまで見通せる、いわゆる千里眼を持っておられるということですが、それだけではありません。というのは、「いちじくの木の下」というのは、熱心な人々が、その下に座って聖書を読み、黙想するという習慣が当時あったからです。すなわち、ナタナエルが真剣に神を求め、メシア、救い主(ぬし)を求めていた。その心をイエスさまが知っておられた。
 そのことに驚いたナタナエルは、感激して、イエスさまに対して「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言いました。
 
   知っておられるイエス
 
 このことを通して教えられることは、まずイエスさまが私たちのことを知っておられるということです。私たちの心の中にあることも知っておられる。
 しかし、私のことをなんでも知っておられる、心の中にあることまで知っておられるということになりますと、なんだかドキッとしないでしょうか。たとえば、逆に私が相手の心の中まで分かるとすると、恐ろしいことになるのではないかと思います。相手が笑顔で私に接しているけれども、心の中では私のことを「イヤなやつだ」と思っていることが分かるとしたら、もう人間不信になります。
 イエスさまが私たちのことを心の中まで知っておられるとなると、私たちが悪いことを考えたり、人をけなしたり、バカにしたり、くだらないことを考えることまでご存じであるということになります。そうするとなんだか、イエスさまから見放されるのではないかと思われます。
 しかしそうではない。なぜなら、今わたしたちは教会につながっているからです。教会はキリストの体です。そこに招かれている。すなわち、イエスさまは、私たちの本当の姿をご存じの上で、私たちを招き、受け入れてくださっているのです。
 
   もっと偉大なことを
 
 イエスさまはナタナエルに言いました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」そして更に言われました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
 「人の子」というのはイエスさまがご自分のことを指して言う言葉です。「神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」‥‥ここでも先ほどのヤコブの逸話が念頭に置かれています。創世記28章12節です。兄のエサウの怒りを避けて、親戚の所に逃げて行くヤコブが、ベテルという場所で石を枕にして野宿しました。その夜、ヤコブは夢を見ました。その夢は、天と地をつなぐ階段を天使が上り下りしている夢でした。‥‥イエスさまは、そのことを念頭に置いて、おっしゃっているのです。天が開けて、イエスさまの上に天使たちが昇り降りするのを見ることになると。イエスさまを通して、天国への道が開けるのを見ることになると。
 イエスさまに従って行くと、もっともっとすばらしいことを見たり、経験したりすることになるのだと言われるのです。
 先日、娘が孫を連れて我が家に遊びに来ました。孫は今3歳になりました。私はシャボン玉を用意していました。というのは、半年以上前に遊びに来た時に、孫はシャボン玉に夢中になって、それこそ2時間もシャボン玉で遊んでいたからです。さらに次の日も長い間シャボン玉に夢中になっていました。それで今回も、2時間ほどになるのを覚悟して孫に与えました。すると孫は、今回は15分ほど遊んだあと、「もうしまおう」と言って片付けてしまったのです。私は拍子抜けしましたが、「ああ、卒業したんだなあ」と思いました。
 私たちはいろいろなことを卒業します。ことによったら、人間社会も卒業したくなったりします。人生を重ねると、もう人間のことは、だいたいパターンが見えてしまうからです。しかしイエスさまはそうではありません。知れば知るほどふしぎであり、また喜びが与えられていきます。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」これは信仰生活の楽しみでもあります。希望です。今週、新しい主の恵みを見いだすことができる日々でありますように!


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