2023年10月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記22章7〜13 (旧31頁)
    ヨハネによる福音書1章29〜34(新164頁)
●説教 「目撃者」

 
   ヨハネの成長
 
 ヨハネによる福音書の連続講解説教を始めて、今日で6回目ですが、今日の箇所でいよいよイエスさまが登場いたします。ただし、イエスさまの言葉がありません。かわりに、洗礼者ヨハネがイエスさまを指していった言葉、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言った言葉が書かれています。
 ここまで読んできまして、洗礼者ヨハネが、このあと来るキリスト(メシア)のことを全力で証ししているように読めます。しかし、それにしても、ヨハネはなぜかくも救世主を熱烈に指し示すようになったのでしょうか?
 洗礼者ヨハネとはどういう人なのか。新約聖書には、ヨハネの出生前のことが書かれています。ルカによる福音書の1章です。イエスさまの誕生のことよりも前に書かれています。そこを読みますと、ヨハネはエルサレム神殿の祭司であるザカリアの子として生まれたことが分かります。ザカリヤの妻はエリサベトで、2人の間には子どもが生まれませんでした。そうして年を取っていました。しかし、神が2人の願いを聞かれ、妻のエリサベトは身ごもります。それがヨハネです。
 そのように、ヨハネは祭司であるザカリヤの子ですから、祭司になるべき人でした。なぜなら旧約聖書の律法によれば、祭司の子は祭司になるからです。しかしヨハネは祭司になりませんでした。前にも申し上げましたように、らくだの毛衣を着、いなごと野蜜を食物としているという、まるで野人のようないでたちでした。そしてヨルダン川にて、人々に悔い改めを説く預言者となっていました。そして悔い改めのしるしとして洗礼を授けていました。
 そういうことがわかるのですが、生まれる前のことは書かれています。そして世に現れて悔い改めを宣べ伝えていることに飛びます。その間のことは何も書かれていません。謎です。その間に何があったのか?
 先週金曜日、富山地区の婦人修養会に講師として奉仕しました。なんの話をしたかと言いますと、講演題を「生けるキリストと共に歩む〜浄土真宗と福音的キリスト教〜」としました。仏教の浄土真宗王国と言われる北陸、富山の地。他力信仰という点では浄土真宗とキリスト教は極めてよく似ているわけですが、違いがどこにあるのか、そして人々に何を強調点として宣べ伝えていくべきかということをお話しいたしました。そしてその中で、富山新庄教会を開拓伝道して建てた亀谷凌雲先生のことも引用いたしました。
 亀谷凌雲先生は、富山市の浄土真宗のお寺の跡取りであり、住職を継ぎました。しかしキリスト者となり、住職を辞めて牧師となった人です。僧侶から牧師になったという人は時々いますが、住職から牧師になった人というのは本当に珍しいと思います。何が亀谷先生をそのようにさせたのか?‥‥それは、本当の救いを求め続ける求道心であると言えるのです。それは住職となっても止むことがなかった。浄土真宗の本尊である阿弥陀如来の姿を求め続けるんです。そしてついに、阿弥陀如来の真の姿はイエス・キリストであったということを悟るのです。そして感激し、喜びに包まれ、回心します。そして、住職という地位を捨てます。
 何が彼をそうさせたか?おそらくまわりの人は理解できなかったでしょう。なんで寺の住職を捨ててまで、ゼロからキリストの教会を始めるのか、そんな苦労をするのか、まわりの人には理解できなかったと思います。その理由は外から見ても分からない。亀谷先生の内面にあるからです。真の救いを求め続ける求道心です。
 また、今回の旅では、わたしが富山にいた時に洗礼を受けた方々が、いま教会奉仕の中心を担って活躍されている姿を目にすることができました。このような方々についても、洗礼を受ける前のことしか知らない人たちが見たとしたら、なぜあの人がこんなにも熱心なキリスト者になっているのかと、ふしぎに思うことでしょう。
 最もそれは私自身についても言えることです。私がクリスチャンではなかった頃のことしか知らない昔の友人たち。彼らは、私が牧師になったと知った時も、「へえー」とか「ふーん」とか言うばかりで、だれも「なんで牧師なんかになったのか?」とまじめに聞いてくる人はほとんどいませんでした。まじめに聞いてきたら、「実はな‥‥」と言って、キリストと出会った証しをしたいところなのですが。
 ヨハネも同じではないかと思います。自動的にキリスト者になる人はいないのと同じように、ヨハネにもさまざまなできごと、そして本人にとっての事件や試練があったに違いありません。そしてなによりも、救いを求める心、求道心があったに違いありません。そして神さまの導きがあったに違いないのです。
 しかし聖書は、それらの経緯を何も書いていません。ただいま、ヨハネがキリストをあかしし、指し示しているということだけを書きます。まるでその人の過去など問題ではないかのようにです。今ヨハネがキリストを証ししている。キリストを指し示している。そのことがたいせつなのだ、といわんばかりです。私たちにとってもそうです。私たちが過去にどんな過ちを犯したかとか、失敗をしたかということは問題ではない。今、私たちがキリストを求め、神を礼拝している。神の言葉に耳を傾けている。このことこそが大切なのだということです。
 
   神の小羊という呼び名
 
 ヨハネはいいました。イエスさまを指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。
 さて、ヨハネによる福音書では、ここに至るまで、イエスさまのことをさまざまな呼び名で呼んでいます。一番最初に出てきたのは、「言」という呼び名でした。宇宙を神と共に造った言です。続いて、「命」、そして「光」、さらに「独り子である神」と呼ばれていました。いずれも、圧倒されるような尊い呼び名です。
 そして今日のところでは、イエスさまは「神の小羊」と呼ばれています。なんだかずいぶんかわいらしい呼び名だな、と思われる方もいるでしょう。小羊というとかわいいというイメージしかないかもしれません。しかし実は、かわいいということで、この言葉が使われているのではありません。
 「アニュスデイ」というラテン語がありますが、音楽好きの方ならば、それがミサ曲の中の楽章の名前を表していると分かるでしょう。それは実は今日の聖書の言葉から来ています。「神の小羊」という意味です。ヨハネが言ったこのところから来ています。「世の罪を取り除く神の小羊」です。「世の罪」というのは、世の中の罪ということで、要するに私たち人間の罪のことです。それをキリストが取り除くという。それを「小羊」と言っているんです。
 
   イサクの奉献物語(創世記22章)
 
 なぜ、世の罪を取り除く神の小羊なのか。そのことを説明するのには、旧約聖書の出エジプト記の「過越の小羊」を用いて説明するというやり方がありますが、きょうは、本日の旧約聖書箇所である創世記22章の物語を見てみましょう。
 それは、アブラハムに対して、子供のイサクをいけにえとしてささげよ、との神の命令があったことから始まっています。「いけにえ」というのは、神を礼拝する時に、羊などの動物を祭壇に焼いてささげたんです。それは罪の赦しを願うために、そして感謝を表すために動物をささげたんです。ところが神は、ある日アブラハムに、あなたの息子イサクをいけにえとしてささげよとおっしゃったのです。
 イサクは、アブラハム夫妻が年を取ってからようやく生まれた約束の子でした。そもそもアブラハムが75歳のときに、子供が与えられることを神さまが約束なさいました。それから25年後、アブラハムが100歳になって妻のサラに生まれたのがイサクです。待ちに待った子、待望の子です。なのに、なぜ神はそのようなことをおっしゃるのか?そんな残酷なことを?
 しかしアブラハムは従っていきました。そして神が指定された山へ、イサクと共に昇って行きました。イサクは何も知りません。それでイサクがアブラハムに尋ねました。(7節)「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」‥‥この言葉は、アブラハムの心を突き刺したことでしょう。しかしアブラハムは答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
 この言葉は、逃げたのではなく、本心でしょう。「神は、我が子イサクを献げさせるようなことをなさるはずがない、きっと代わりの小羊を備えてくださるに違いない。‥‥」アブラハムはそのように信じたのです。
 山の上に着きました。石を積み上げて祭壇を築きました。そしてその上に薪を並べ、ついにイサクをその上に寝かせました。そして屠るためにまさに刀をふりおろそうとした、そのとき!‥‥神の待ったがかかったのです。「アブラハム、アブラハム」、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムが見ると、近くに雄羊がいました。神が代わりにいけにえの羊を備えてくださったのです。つまり、身代わりの羊を備えてくださったのです。こうしてイサクは助かりました。この身代わりの羊がイエス・キリストを指し示しているのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と。イサクの代わりにいけにえとなった羊のように、私たちの罪を取り除く方です。私たちの身代わりとなってです。すなわちこれは、十字架を暗示しているのです。このことを、すでにヨハネは神から示されていたと言えます。
 
   神のへりくだり
 
 先ほど申し上げましたように、ヨハネによる福音書ではイエスさまのことを「言」「命」「光」「独り子である神」と、本当にいと高き神として表現してきました。この圧倒的な存在が、「神の小羊」として、命を献げるというのです。私たちの罪を取り除くために。救うために。私たちの代わりに死なれるという。
 そうすると、前の27節でヨハネがイエスさまのことを「履物のひもを解く資格もない」といいましたが、それはイエスが神と等しい存在だからというほかに、独り子なる神がここまでへりくだって、というその驚くべき謙遜さに対して、わたしはこの方の履物のひもを解く資格もないと言っているのだと思います。神である方が、ここまで低く下って、私たちを救うために仕えてくださる。そのことに対する驚きです。
 すると30節の、ヨハネの「その方はわたしにまさる」という言葉は、イエスさまのそのへりくだり、愛、神への服従において、この人間であるわたしよりもまさると言っていることになります。
 
   聖霊による洗礼
 
 32節で「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方」というのは、神さまのことです。ヨハネは水で洗礼を授けている。しかし 「この方」、すなわちイエスさまは、「聖霊によって洗礼を授ける人」であると言われています。
 「洗礼」という言葉は、ギリシャ語では、名詞では「バプテスマ」であり、動詞では「バプティゾー」となります。それは、「水の中に漬ける」あるいは「水の中に浸す」という意味の言葉です。ですから、言ってみれば、「聖霊の中にどっぷりつける」と言ってもよいでしょう。もう、聖霊の中で浸りながら生きるという感じです。そして聖霊は神さまですから、イエスさまによる洗礼は、神の中で生きるようにするものだということになります。
 この殺伐とした世の中で、このはかない人生の中で、しかしイエスさまは、その私たちを、聖霊に浸してその中で生きることができるようにしてくださる。神の中で生きるようにして下さる。そうすると、この世の中で生きるということも、悪くないことです。それどころか、楽しみとなります。そのために神の小羊としてきてくださったイエスさまです。


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