2023年10月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書40章3〜5
    ヨハネによる福音書1章19〜28
●説教「まっすぐな道」

 
   世界宣教の日・世界聖餐日
 
 本日は10月の第1主日で、「世界聖餐日」でありまた「世界宣教の日」です。「世界聖餐日」というのは、第2次世界大戦後、世界基督教連合会の呼びかけで始まりました。それは、共にこの日に聖餐にあずかることで、世界の教会がひとつであることを確認しようというものです。
 また、日本基督教団では同じく10月第1主日を「世界宣教の日」と定めています。日本は世界でもキリスト信徒の割合が少ない国ですから、外国から宣教師が来ることはあっても、日本から外国に宣教師を送っているのか?と思いますが、実は日本基督教団でも世界に宣教師を送っています。現在は、アジア、アメリカ、ヨーロッパ、南米などにだいたい10名ほど送っています。その人たちは、現地の方々に伝道すると共に、日本語礼拝を行って、現地に滞在する日本人への伝道をしています。
 世界の人々が主なる神を信じて、一つとなることをわたしたちも祈り願いたいと思います。
 
   あなたは何者か
 
 ヨハネによる福音書は、ここまで、イエス・キリストがどういうお方であるかということを述べてきました。そのプロローグ(序章)が終わって、場面はこの世界の中に移ります。場所は、アジアの西のはずれ、現在はパレスチナと呼ばれる地のヨルダン川付近です。そこに洗礼者ヨハネが登場いたします。「洗礼者」ヨハネと言いましたのは、この福音書を書いた人もヨハネなので、混同しないように「洗礼者ヨハネ」と申しました。
 話は、その洗礼者ヨハネの所に、何やら友好的ではない人たちがやってくるところから始まります。ヨハネによる福音書は、ここで「ユダヤ人」という言葉を使っています。しかしヨハネ福音書が言う「ユダヤ人」というのは、ユダヤ人全体のことではなくて、ユダヤ人の指導者というような意味で使っています。ユダヤ人の指導者というのは、大祭司であり、サンヘドリンと呼ばれる議会の議員であり、祭司長やファリサイ派のおもだった人たちのことを指します。
 その人たちが、祭司やレビ人を遣わして、ヨハネに尋ねました。「あなたはどなたですか?」‥‥これは要するに「あなたは何者か?」と問うているわけです。まるで尋問のようであります。
 当時、洗礼者ヨハネは有名になっていました。マタイによる福音書の3章のほうを見ると、ヨハネは人々に向かって、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語りました。そして彼は、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたと、他の福音書に書かれています。そして、エルサレムとユダヤ全土、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けました(マタイ3:6)。
 そして、人々の中には、ヨハネが「メシア」ではないかと言う人々もいたようです。メシアというのはギリシャ語では「キリスト」です。それは、旧約聖書で、神がやがてこの世に送ることを約束された救い主、救世主です。
 こういうことになってきましたので、ユダヤ人の指導者としても、放っておくわけにもいかない。自分たちの手の中にはない人物が現れたことヘの警戒感です。自分たちのコントロールがきかない人物というのはおもしろくないわけです。またそこには、洗礼者ヨハネ人気に対するねたみもあったのだろうと思います。
 
   荒れ野で叫ぶ声
 
 それで彼らは、まず「あなたはどなたですか?」とヨハネに尋ねました。その質問は、言い換えれば、「あなたはメシアなのか?」ということです。もしヨハネがメシアであるならば、人々に洗礼を授ける資格もある。
 さて、その洗礼ですが、旧約聖書の律法の中に洗礼が書かれているわけではありません。洗礼は水を使うわけですが、水で洗うのは、旧約聖書の律法では、穢れを清めるために水で洗いました。たとえば、死体に触れると穢れたとされ、そして水で洗うと穢れが清められることになっていました。のちに、異教徒がユダヤ教に回心した時に洗礼を授けるようになった。それは異教徒は穢れていると見なされていたからです。それを清めるために、洗礼を授けたのです。穢れからの清めということで言うと、日本で言う「みそぎ」と同じような感じです。
 しかし、ユダヤ人、イスラエル人が洗礼を受けることはありませんでした。自分たちは穢れていない思っていた。神によって選ばれた民だから、ということです。自分たちはアブラハムの子孫であり、異邦人とは違う。そう思っていました。
 しかし、ヨハネは、そんな自負はなんの役にも立たないと言いました。神は石ころからでもアブラハムの子を造り出すことができる、と言ったんです。そして、神さまに対する罪を告白して、悔い改めることを求めました。それを聞いた人々は、心を打たれて、ヨルダン川のヨハネのもとにやってきました。その人々にヨハネは洗礼を授けていました。
 しかし、ヨハネがメシアであるならば、さすがに洗礼を授ける資格があるが、とユダヤ人の指導者たちは思いました。メシアであるならば、それは神さまが遣わしたに決まっているからです。
 しかし、ヨハネの返事は、「わたしはメシアではない」というものでした。
 すると次に彼らは、「あなたはエリヤか?」と問いました。エリヤというのは、旧約・列王記に出てくる預言者です。偶像礼拝をするアハブ王と対決をしました。そして最後は、天に昇っていきました。そして、前回も申し上げましたように、旧約聖書の最後の書物である預言書、マラキ書3:23で、終わりの日の来る前に預言者エリヤを遣わすとの神さまの約束がありました。洗礼者ヨハネがエリヤの再来ならば、洗礼を授けているのも仕方がないということになります。なぜなら、エリヤも今申し上げたように、主なる神さまが送ると約束しておられた預言者だからです。
 ところがヨハネはそれに対しても、「違う」と答えました。さてこの答えですが、私も前回、ヨハネはマラキ書が預言しているエリヤの再来だと申し上げました。なぜなら、他の福音書では、洗礼者ヨハネは約束のエリヤだと言っているからです。たとえば、(マタイ 11:14)「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」‥‥と、イエスさまが洗礼者ヨハネは約束の預言者エリヤなのだとおっしゃっています。
 しかしこれは、ヨハネ自身は自分がエリヤの再来だとは思っていないということでしょう。自分は、エリヤのような大預言者などではないと思っている。あくまでもヨハネという人は謙虚なんです。
 すると彼らは、今度は「あなたは、あの預言者なのか?」と問いました。「あの預言者」というのは、旧約聖書の申命記18:15〜18に書かれている預言ですが、のちにモーセのような預言者を立てられるという主の約束のことです。神の約束の預言者なら、洗礼を授けているのも致し方ないというわけです。しかしヨハネは、「そうではない」と答えました。
 それで彼らは、「じゃあ何者なんだ?」と問うた。するとヨハネは、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」と答えました。それは、イザヤ40:3を引用して言ったのです。わたしは「声」だと。声ですから、姿ではない。姿を見れば、洗礼者ヨハネを信じる人々は、英雄視し、賞賛の対象としてしまうでしょう。しかし「声」ですから、形がない。その人を持ち上げようもない。すなわちヨハネは、自分自身には何の価値も値打ちもない、と言っているのです。ただ主の言葉を取り次ぐのみだと。その言葉にこそ耳を傾けてほしいと、ヨハネは願っている。
 「主の道をまっすぐにせよ」と言うイザヤ書の預言は、主なる神が来られる道を作れということです。そしてその道とは、悔い改めであり、主の前にへりくだれということです。
 
   キリストを証し
 
 彼らは引き続き問いただしました。「じゃあなぜ洗礼を授けているのか?」と。するとヨハネは、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と答えました。直接問いには答えていません。代わりに、「わたしの後から来られる方」を証ししているんです。
 「わたしはその履物のひもを解く値打ちもない。」履物のひもを解くというのは、奴隷の仕事でした。その奴隷の仕事をすることすら、おこがましいと。つまりは、ヨハネは徹頭徹尾、へりくだってキリストを証ししているんです。彼らの問いに対する答えもそうです。すべてはキリストを証ししている。
 洗礼者ヨハネという人は、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたと、他の福音書に書かれています。「いなごと野蜜」です!「いなご」は分かりますね。「野蜜」ですが、わたしは昔これは蜂蜜のことだと思っていました。そしたら、前回イスラエルに行った時に、ガイドさんが、「野蜜とはナツメヤシの実のことだ」と言ったんです。ナツメヤシの実を干すんですね。日本の干し柿のような感じです。しかし、らくだの毛衣が服で、いなごと野蜜が食べ物!‥‥もう自分の着るもの、食べるものなどどうでもよいという感じです。寸暇を惜しんで、人々に悔い改めを説き、洗礼を授ける。とにかくキリストをお迎えするために。「主の道をまっすぐに」するために。
 もう少し後の方の箇所になりますが、35節からのところで、自分の弟子がイエスの弟子となることをむしろ奨励しているかのようです。ふつうは、弟子をとられた、なんていう人が多いのではないかと思いますが、そんなことはヨハネは全然思わない。むしろ、イエスさまがキリストなら、そっちの方へ案内する。そのように、すべてがキリストをお迎えするため、証しするために全力を傾けているヨハネの姿が浮かび上がってきます。
 先の説教で、私は、新約聖書の4つの福音書すべてが、イエスさまの働きの前に洗礼者ヨハネのことを必ず書いていると申し上げました。そしてその理由は、マラキ書3章に書かれているように、ヨハネこそ神さまが送ると約束された再来のエリヤだからだとも申し上げました。しかしもう一つ理由があると思います。それは、このヨハネという人が、自分のすべてを賭けて、イエスさまをあかしし、指し示しているという点です。その情熱です。自分のことなどどうでもよい。とにかく、人々にキリストを指し示している。この熱烈な姿勢を書かずにはおれなかったのだと思います。
 私が若き日、長く離れていた教会に戻ってまもなくであった宣教師の先生のことは時々お話ししてきました。アメリカからご家族で日本の田舎町に来て、そこの使われていない工場を借りて教会にして伝道していました。ご夫妻と、4人のお子さんがいました。私は、日本キリスト教団の島田教会に通っていましたが、時々日曜日の午後に、先生の教会の集会にも出かけたりしました。あるとき、その教会員の話を聞きました。その教会員が、ある日先生に用事があって、牧師館に行ったそうです。すると先生ご一家がパンの耳を食べていたというのです。私はそれを聞いて、とても心が打たれました。先生はアメリカのどこかの教団のバックアップがあるわけではない、単立の教会を日本の田舎町で開かれた。そしていつも喜んで伝道しておられました。しかしその生活はそういう状態であった。私は、イエスさまの福音というものは、そこまでして宣べ伝える価値のあるものだということを知ったのです。
 ヨハネは、自分のすべてを、これから現れる方、イエスさまを証しするためにささげている。そこまで尊いお方がイエスさまであるということを、ヨハネ自身の存在が証ししています。
 
   荒れ野の中に、あなたの隣に
 
 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の流れる荒れ野の中で活動しました。この私たちの社会はどうでしょうか?日本は、雨も降るし緑豊かな土地です。しかし、人々の心はどうでしょうか?この社会はどうでしょうか? 身も心もカラカラとなるほど渇く、荒れ野そのものかも知れません。
 しかしヨハネは言いました、26節「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。‥‥「あなたがたの中には」と言っています。「あなたがたの知らない方が」。私たちの間に、私たちのすぐそばに、私たちが知らない、気がつかないけれども、その方がおられる。すなわち、イエスさまが来ておいでになる。その方を受け入れるように、ヨハネは指し示しています。


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