2023年9月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書9章5〜6
    ヨハネによる福音書1章14〜18
●説教 「神はいずこに」小宮山剛牧師

 
   ヨハネ福音書のクリスマス
 
 新約聖書の4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書には、イエスさまの誕生の時のことが書き記されています。ルカ福音書では、マリア様への受胎告知、そしてベツレヘムの馬小屋での誕生、野宿していた羊飼いたちに天使の大軍が表れて御子イエスさまの誕生を告げる、ということなどが書かれています。また、マタイ福音書では、ヨセフへのマリアの受胎告知、そして東方の博士たちがやってくるという出来事が記録されています。
 ヨハネ福音書はどうでしょうか? 何も書かれていないようにも見えますが、実は今日の14節に書かれています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
 この福音書を書いた使徒ヨハネは、すでに他の3つの福音書のことを知っていました。それでヨハネは、イエスさまが生まれた時どうだったかという経緯を書くのではなく、イエスさまという方がお生まれになった、その意味を書いているのです。ベツレヘムの馬小屋に起こった出来事の驚くべき意味をです。
 
   私たちを照らす光
 
 ヨハネ福音書は、この宇宙、天地の成り立ちから説き明かしました。この宇宙が無機質に誕生したのではないということ。また、神が造られたことを明らかにしますが、神は造りっぱなしで放置しておられるのでもないこと。初めに神と共にあった「言」という存在が、その天地創造に関与していたということ。その「言」はイエス・キリストのことをいっているわけですが、それゆえにこの世界は愛によって造られたことを示します。
 4節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれていました。そして5節に「光が暗闇の中で輝いている」と書かれていました。暗闇の中から生まれ、ふたたび暗闇の中に帰って行くかのように思われる私たちです。しかしそこに命の光が照らしている。「言」という存在によって。その「言」という存在が、イエス・キリストです。そのことを明らかにしています。
 
   言は肉となってわたしたちの間に宿られた
 
 そして今日は14節からです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
 言が肉となる。肉というのは肉体です。肉の身体をもったということです。すなわち人間の身体を持たれた。このことは、具体的な出来事でいえば、母マリアの胎内に宿った受胎告知の場面、そしてベツレヘムの馬小屋の降誕の出来事ということになります。それは、天地創造に携わった「言」なる存在が、人間の肉体を持たれたということなのだ、と。その意味を記しています。
 人間の肉体をもたれたということは、この世の時間、空間、そして物質的な制約を受ける存在になったということです。つまりこの世の中に生まれ、成長し、やがて衰え、死を迎える。誰もそこから逃れることができないように、この私たちがそうであるように、その私たちと同じようになられたということです。私たちが、この地球という小さな星の中で、その中の特定の場所にしばられ、人生という長さの決まった時間の中を生きているのと、同じになられたということです。
 実際に人の子として生きられたイエスさまは、この日本の四国よりも小さな面積の中で生きられました。また年齢でいえば、30歳少ししか生きておられません。それが肉の身体としてのイエスさま、人の子としてのイエスさまです。まさに私たちの間に、私たちのような肉を生きられた。
 そしてヨハネは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書きます。「宿られた」という言葉ですけれども、これは天幕、すなわちテントを張ってそこに住んだという意味の言葉です。そのことで思い出すのは、旧約聖書の出エジプト記から記されている、荒れ野の旅のことです。神さまの奇跡によってエジプトを出たイスラエルの民は、モーセを指導者としてシナイ半島に渡り、その荒れ野の中を旅し、生活しました。約束の地を目指して移動しますから、人々はテントに住みました。そしてそのイスラエル民の真ん中に、「神の幕屋」というものがありました。これは分かりやすくいえば、移動式の神殿ですね。大きな天幕で作られた礼拝所です。その幕屋の中には、「十戒」が刻まれた石の板が入っている契約の箱というものがありました。そしてその幕屋は、神さまがそこにいて下さるという、神の臨在のしるしでした。神さまが、その中で人間とお会いになるとおっしゃった場所。それが神の幕屋でした。
 イスラエルの人々は、移動しながら生活しましたが、神の臨在のしるしであるその幕屋も、他端では組み立てるということを繰り返して、人々といっしょに移動しました。砂漠と言ってもよい荒れ野の中の厳しい生活の中で、時には絶望的になることもありましたが、幕屋がそこにあった。神さまがそこにいてくださるという幕屋があった。このことは、人々にとってどんなに励ましであり、また力となったことでしょうか。
 「宿られた」というのはそういうことです。移動しても私たちと共にいて下さる。どこに行っても共にいて下さる。そういう意味をこめています。ですから、私たちは、神さまによって造られっぱなしなのではありません。放置されているのでもありません。言なる神、イエスさまが、宿られた。そこに来ていてくださる。
 
   洗礼者ヨハネ
 
 15節に行きましょう。"ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」"
 洗礼者ヨハネが4福音書で必ず出て来るのは、マラキ書の予言が成就したことを明らかにするためであった、ということは前回申し上げました。それともう一つは、当時ヨハネが有名な預言者と人々から思われていて、「もしかしたらこの人が『メシア』ではないか?」と思う人たちがかなりいたから、ということもあったのです。
 しかし、洗礼者ヨハネは声を張り上げて言いました。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。」 すなわち、「わたしではない。わたしがメシア、キリストなのではない。わたしの後から来られる方なのだ」。そのようにヨハネは強調しているのです。そして、その「わたしの後から来られる方」というのは、イエスさまのことを指しているのです。
 そして続けて「わたしよりも先におられたからである」と言っている。ここで、「おや?」と思われた方もいるでしょう。なぜなら、ルカによる福音書を見ると、イエスさまより洗礼者ヨハネの方が先に生まれたからです。なのにここで洗礼者ヨハネは、イエスさまのほうが「わたしよりも先におられた」と言っている。なぜだろう?と。
 そこで私たちは、気がつくことになります。ここで洗礼者ヨハネが「わたしよりも先におられた」と言っているのは、この世に生まれた順序のことを言っているのではなく、天地創造の初めからおられたということを言っているのだということに気がつくわけです。するとヨハネは、そのような驚くべき存在である方、そのイエスという方について証しをするのだと。
 
   独り子である神
 
 14節に「父の独り子」という表現があります。また18節に「父のふところにいる独り子である神」という表現がされています。この独り子とは、イエスさまのことを指しています。しかし、もうすでに私は、「言」というのがイエス・キリストのことであり、「光」も「この方」というのも、みなイエス・キリストのことを言っているのだと申し上げていますが、実はヨハネ福音書は、17節になるまで「イエス・キリスト」の名前は出していません。「言」「光」「この方」「父の独り子」‥‥という言い方をして、それはいったい誰?と注目を集めるようにして、そして満を持して、17節で「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と書く。つまりここで、それはイエス・キリストである!と明かす。そういう書き方をしています。
 つまり、それほどとてつもないことなのだ、驚くべき方なのだ、独り子なる神なのだ、その方が本当にこの世に来られて、天幕を張って住まわれたのだ、私たちの間に!と、もうありったけの言葉をもって表そうとしていると言えます。
 そのイエスさまが、「父の独り子」であり「独り子である神」と述べる。注目したいのは、これは「父なる神のふところにいる独り子である神」という言い方です。つまり、イエスさまは神であると言っています。イエスさまが神であると、直接記している聖書箇所は多くありません。「神の子」という言い方はありますが、ここでは「独り子である神」と、神であることを強調しています。
 ここだけ見たら、あまり驚かないかも知れません。なぜなら、この日本では八百万の神々がおり、なんでも神になりうるからです。神として祀られている人間も多くいます。また現代でも「わたしが神」という教祖もいたりします。
 しかしここでヨハネが言っている、「独り子である神」というのは、そのような神々とは比較にならないのだというのです。父なる神の「ふところにいる」独り子なる神、その父なる神とは天地の創造主であり、独り子である神もまた、この世界を父と共に造られたという、その圧倒的な存在、万物の根源である方という意味での「独り子である神」ということなのです。
 そして、このヨハネによる福音書では、イエスさまのことを神と呼ぶ箇所が、もう一箇所あります。それはこの福音書の最後のほうの所になります。20章28節です。それは十字架で死なれたイエスさまが、復活して弟子たちのところに現れた時のことです。弟子の一人のトマスが、そのイエスさまを見て、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。それがも一つの箇所です。
 ここまで使徒ヨハネは、この福音書で最初の1章1節から、結論のようなことを述べてきました。‥‥イエスが天地創造に加わっており、人間を照らす命の光であり、イエスを信じたものは神の子となる‥‥そして独り子なる神であると。そして、そのことをこれから書き記していく。そしてトマスの言葉を通して、まことにイエスというお方が神の独り子であるという告白に至るのです。
 
   恵みと真理
 
 14節に「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書かれています。この表現について、織田昭先生は、旧約に出て来る「慈しみと真実」をギリシャ語にしたものだろう、とおっしゃいます。そして「慈しみ」とは、どんな情けない者をも捨てないやさしさのことであると述べておられます。そして「真実」とは、すべてをかけて信頼して行ってもガッチリ受け止めてくださる、絶対間違いのない確かさのことだと述べておられます。
 なんだかとても恵みと真理に満ちているように思われます。うれしくなります。私も情けない者であるからです。そんな私のような者でも、捨てないでくださる。16節には、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と書かれています。「恵みの上に、さらに恵みを受けた」。どんな情けない者をも捨てない優しさで、さらにその上に輪をかけて、こんな情けない者も見捨てない優しさを加えてくださる。そしてがっちり受け止めてくださる。そのイエスさまを受け入れるならば、もう救いから漏れようがないと思われます。感謝の上に感謝を述べたくなります。


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