2023年9月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教/敬老祝福
●聖書 マラキ書3章23
    ヨハネによる福音書1章6〜13
●説教 「無上の資格」

 
   ヨハネ
 
 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」 6節にそう書かれています。ヨハネによる福音書は、「初めに言があった」という書き出しで始まりました。そして今日の箇所から、いよいよその「言」という存在が、この世に来られたことについて述べていきます。
 しかしきょうのところは、「ヨハネ」という人の名前が出てきます。このヨハネとは、いったい誰のことか? 今日で、ヨハネによる福音書の連続講解説教を始めて3回目となりますが、これまで私は、この福音書の解説めいたことはなにも申し上げてきませんでした。しかし、「ヨハネ」という名前が出てきたので、少し解説をしたいと思います。
 「ヨハネ」という人の名前が誰のことか、ということですが、この福音書が「ヨハネによる福音書」と名付けられていますので、そのヨハネのことかとふつうは思います。しかし、このあとの箇所を読んでいくと、15節には、「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」」と書かれている。ここで、「おや、どこかで聞いたセリフだな」と思われた方もいるでしょう。他の福音書にも、同じような言葉が出て来るからです。そしてさらに19節以降を読みますと、「ああ、このヨハネとは、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)のことなんだ」と分かります。
 そうすると、ヨハネによる福音書以外の3つの福音書がすべて、イエスさまが登場する前に洗礼者ヨハネを登場させているのと同じように、ヨハネによる福音書も洗礼者ヨハネのことから書き始めていることが分かります。しかし6節の所を読むと、そのヨハネが誰のこと何か、はっきりしない。じつはそこに、この福音書を書いたのが誰なのか、ということの鍵が隠されています。
 ヨハネによる福音書を書いたのは誰なのか?‥‥古来、伝統的には、イエスさまの12使徒のうちの一人のヨハネ、つまりゼベダイの子ヨハネであるとされてきました。しかし近代になって聖書批評学というものが発展してくると、それに疑問が呈されるようになりました。そして諸説が出てきました。
 しかし、私が神学生の時の学長であった、新約学の松永希久夫先生は、この福音書を書いたのは使徒ヨハネと考えて差し支えないと、その著書で述べています。その理由ですが、この福音書の最後の所、21章24節に次のように書かれています。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。」 ここで言う「この弟子」というのは、同じ21章20節に「イエスの愛しておられた弟子」という表現があるのですが、その弟子のことです。そしてさかのぼると、この弟子は、最後の晩餐の時にイエスの胸に寄りかかって、誰が裏切ろうとしているのかを尋ねた弟子であり、さらに、十字架にかけられたイエスさまが、そのそばに立っていた母マリアを託した弟子です。そして、この「イエスの愛しておられた弟子」は、名前が記されていません。ただ「イエスの愛しておられた弟子」としか書いていない。そしてこの弟子が、この福音書を書いたと最後に記している。
 つまり、「イエスの愛しておられた弟子」がこの福音書を書き、その名前を出さない。さらに、この福音書の中では、使徒ヨハネの名前が一度も登場しないんです。つまり、あえて名前を伏せているように見える。代わりに、この6節7節で「ヨハネ」という名前を印象づけている。つまり、洗礼者ヨハネの名前も同じヨハネですから、それに自分の名前を重ねるようにしている。そう考えられるというのです。私はこのような推理小説の謎を解くようなやり方が嫌いではありません。そしてそうに違いないと思うに至ったのです。
 そして7節では、「彼は証しをするために来た。また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」と書いています。この彼とは洗礼者ヨハネなんだけれども、この福音書を書いた使徒ヨハネは、自分も「言」であるイエス・キリストを証しするために来た、と言いたいのだと思います。イエスさまを証しするという意味では、自分も洗礼者ヨハネも同じなのだと。
 使徒ヨハネは、12使徒の中でただひとり、高齢になるまで生きた人です。他の11人は、すでにみな殉教しました。そして、この福音書は、他のマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書とは、かなり違った内容になっています。他の福音書にはない奇跡ですとか、イエスさまの言葉が書き記されている。すなわち、使徒ヨハネは、他の3つの福音書の存在を知った上で、それらに書かれていないこと、大切なことを補足していると言えます。
 
   証し
 
 さて、ヨハネ福音書は、そのように、イエスさまの宣教の前に、洗礼者ヨハネのことから書き始めます。これはヨハネ福音書だけではなく、4つの福音書すべてに共通していることです。その理由ですが、それが今日読んだ旧約聖書、マラキ書3:23で言われている預言にあります。「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日の来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」 神さまがそうおっしゃっている。旧約聖書の最後に、神さまが、終わりの時代の前に、旧約聖書の有名な預言者エリヤを、もう一度送ると約束されています。そのエリヤこそ、洗礼者ヨハネであると考えているからです。
 神さまは約束を守られる方です。神さまが言葉によって光を造られ、天地を造られたように、神さまの言葉には力があり、確実なものです。その天地を創造された神は、人間を罪と悪から救われるのです。
 そして7節8節では、洗礼者ヨハネも、この福音書を書いた使徒ヨハネも、「光」ではなく、光を証しするために来たのだというのです。すなわち、光の証し人、証言者であると言っているのです。
 私たちもまた、光の証し人、神とイエスさまの証人、証言者であるということができます。私たちが証人であるというと、何かとてつもなく大ごとのように思われるかも知れません。洗礼者ヨハネや、使徒ヨハネのような大きな証人ではないと思ってしまいます。しかし、たとえば今わたしたちがこのようにして礼拝をしている。これは、立派に神さまとイエスさまを証言していると言うことができるのではないでしょうか。神を忘れ、信仰心を失った現代において、私たちはこのようにして日曜日のたいせつな時間をさいて、教会に集っている。そしてイエスさまの名によって神さまを礼拝している。このこと自体が、神はたしかにおられる、イエスさまはたしかに私たちを救ってくださるということの証人、証言者となっていると言うことができると思います。つまり、礼拝自体が、証しとなっているのです。
 
   光
 
 9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」と書かれています。この「光」について、4節では、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と書いています。すなわち、言といわれるイエス・キリストの内にある命、そのキリストの命が人間を照らす光であったと述べています。キリストのもっておられる命が、私たちの光であると言っています。9節では、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」と言う。
 教会建築の話ですが、教会の建物を建てるとき、昔から光をうまく取り入れることを考えてきました。電気がない時代ですから、光をうまく取り入れようとするのは当たり前かも知れませんが、その光をキリストの光に見立てて、じょうずにそれを表現しようとしてきました。ステンドグラスを用いるのは、その表れです。逗子教会のこの建物にも、この講壇の所にステンドグラスが入っています。ステンドグラスは、建物の中から見ても、その美しさが分かりません。外から太陽の光が差し込んで、はじめてその美しさが表れます。そのようにして、キリストの光を表現しようとしてきました。
 そのキリストの命の光は、9節では「世に来てすべての人を照らす」と言われています。キリストの命の光。それは、この世が決して与えることのできない光です。しかしこの光は、すべての人に届けられていると言います。例外はありません。「わたしの所は照らさない」ということもありません。すべての人を照らしているんです。
 
   神によって生まれる
 
 しかしその「言」、すなわちイエス・キリストが来られたとき、それを受け入れなかった人々がいました。それが「ご自分の民」です。「ご自分の民」とは、ここでは、イスラエルの民、ユダヤの民のことを指しています。つまり、神が選ばれたアブラハムの子孫であり、旧約聖書の民です。それは神の民と呼ばれます。救い主を待っていたはずの民です。しかし、その民がイエス・キリストを受け入れなかったという。そして十字架にかけてしまった。言であるキリストの内にある命の光が照らしたのに、我が身を閉ざしてしまったということです。
 「しかし」と続きます。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)。ここで「信じる」ということは、「受け入れる」ということだと書かれています。そして次の13節では、信じた人々は「神によって生まれた」のだと書かれています。すなわち、「言」であるキリストを信じることによって、神によって生まれる。神によって生まれたのだから、神の子となるという。
 「光」ということで言えば、信じるとは、雨戸を開けて光を家の中に取り入れるというようなことになります。雨戸を開けさせすれば、光が、この私の家の中にも入ってくる。9節に「すべての人を照らす」と言われているからです。
 信じることによって、神によって生まれ、神の子となるという。私たちはすでにこの世の中に生まれています。すでに人間を通して生まれている。そして人生を歩んでいる。しかし、その私たちが、「言」であるイエスさまを信じて受け入れることによって、新たに神によって生まれるということです。神の子として。そして全く新しい、別の歩みが始まる。
 人間の親を通してこの世に生まれた時、そこにはさまざまな不公平があるかもしれません。若い人たちの間で、「親ガチャ」という言葉が流行っている。子どもは親を選べない。たしかに、生まれた時点で、多くの不公平があり、人生が決まってしまうような面があるかもしれない。この人間の世の中では。生まれた家が違う、家柄が違う。外見や容姿によって評価されてしまう。能力が違う。学歴が違う。‥‥そういうさまざまなことによって、優劣をつけられて生きる。個人の努力では、どうにもならない面があります。たしかに不公平です。
 しかし、ここにもう一つの人生がある。それが神によって生まれるという人生です。神によって生まれるのだから、神の子とされる。その神の子の間には、格差はありません。同じ神の子だからです。イエスさまと同じ神の子とされる。同じ恵みが与えられます。全く公平です。この世の物差しとは違う、全く新しい命の歩みです。
 
   今ある奇跡
 
 さて、ヨハネによる福音書の最初の1節から、今日読みました13節までをていねいに見ますと、あることに気がつきます。それは、文法のことになりますが、動詞の過去形と現在形の使われ方です。たとえば最初の1節を見ると、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。‥‥」と、「あった」という過去形になっています。そのあともほとんどが過去形になっています。今日の箇所でも、「神から遣わされた一人の人がいた」という過去形で始まっている。同じ6節の「その名はヨハネである」というのは現在形になっているではないか、と思われるかも知れませんが、これはギリシャ語の訳し方の問題で、本当はそこは単に「その名はヨハネ」で、動詞はないんです。
 さて、そうすると、ほとんどが過去形で書かれている中で、2箇所、現在形で書かれている所があります。それは5節の前半の「光は暗闇の中で輝いている」という所、そして9節の「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」‥‥です。こういう所にも聖書のメッセージがあると思うんです。すなわち、神が天地を創造されたことも、「言」と表現されるキリストによって世界が成ったことも、ヨハネが来たことも、そして「言」であり「光」であるキリストが来たことも、たしかな事実であるけれども、それは過去に起こった出来事に違いない。しかし、その光は、今も暗闇の中で輝いている。そして、その光は今もすべての人を照らしているということ。そのことを強調しているのです。
 そうすると、私たちにとっても、イエス・キリストが来られたことによって、今もその光が暗闇の中で輝いている。そして私たちを照らしている。その光を、そしてその光の持ち主であるイエス・キリストを受け入れるように、信じるように招いている。そのとき、あなたも神によって新しく生まれる。そのように、語りかけています。
 


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