2023年9月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書9章1
    ヨハネによる福音書1章4〜5
●説教 「闇の中に光あり」

 
   壮大にして深遠な真相
 
 私たちは、この礼拝で、ヨハネによる福音書を通して主のみことばに耳を傾けることを始めています。
 前回は冒頭の1〜3節から恵みを分かち合いました。そこでは、全聖書の最初である旧約聖書の創世記の天地創造のできごとに、重ね合わせるようにして語られていました。それは、この世界に意味を与えるものでした。神が天地宇宙をお造りになった、その創造の初めから、「言」と呼ばれるイエス・キリストが共におられたということでした。神と共に、言なる神キリストが共にこの世界を造られたというのです。
 それはすなわち、この世界は愛によって造られたということです。なぜなら、イエス・キリストは、私たちのために命を投げ出して下さるほどに愛してくださっている方だからです。この一見、無機質に見えるこの宇宙が、何の意思もなく偶然に定まった物理法則によって無機質に動いているように見えるこの世界が、神の愛によって造られたというとき、それは全く違って見えてきます。
 そして、2節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と述べられています。すなわち、この私たちも神によって、キリストが関与して造られたということです。こうして、この世界の意義と目的、そして私たちの存在する意義と目的、そして歩むべき方向が見えてまいります。
 
   言の内に命があった
 
 本日は4節を見てみます。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
 この「言」というのは、イエス・キリストのことであるということは前回申し上げたとおりです。その「言の内に命があった」と書かれているわけですが、これは、イエス・キリストという言が生きていた、ということではありません。
 この「命」という単語ですが、実は新約聖書の中で、ヨハネによる福音書に最もたくさん出て来る単語なんです。ヨハネが命というものに関心を持っていることが分かります。ここで使われている「命」という言葉ですが、これは単に生きている、ということではありません。生きたものにしている根源的なエネルギーのことを言うそうです(織田昭先生)。つまり、生かす力、それがこのギリシャ語の「命」という言葉です。
 たとえば、創世記2章7節にこう書かれています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」‥‥この「命の息」、それがこの命です。したがって、この命は神に由来する命です。何か勝手に命が生まれ、進化していったのではありません。神の持っていたものが与えられたのです。聖書はそのように語ります。だから命は尊いんです。
 そして今日の箇所で言われている「命」とは、そのように人を生きるようにする力、そのものです。
 
   命は人間を照らす光
 
 続いて「命は人間を照らす光であった」と述べています。注意して見ますと、「命を照らす光」と書かれているのではありません。つまり光が命を照らすというのではない。「命が人間を照らす光であった」というのです。何かふしぎな言い方に聞こえます。しかし、この「命」がキリストの命であり、今申し上げたように、人を生かす根源的な力であると知ると、納得できます。
 光が闇を照らすように、真っ暗な夜にローソクの光が私たちを照らすように、この命が私たちを照らす。私たちに命を与える。それは根源的な希望の光に違いありません。
 
   光と闇
 
 そして5節に行きますと、「光は暗闇の中で輝いている」と述べています。ここも創世記第1章のはじめの所を意識しています。創世記1章の1節〜5節を読んでみます。
 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
 神が、闇の中に「光あれ」とおっしゃった。「こうして光があった。」その記述と重なるようにして、「光は暗闇の中で輝いている」とヨハネ福音書は書きます。創世記のほうで書く「闇」は、物理的な意味での闇、つまり本当に光という物がない状態を言っているのでしょうけれども、ヨハネ福音書では、人間の闇というものを念頭に述べています。
 この人間社会の闇。戦争、争い、憎しみ、ねたみ、さげすみ、嫌がらせ、強欲‥‥そしてそこから多くの問題が起きてまいります。私たちから力を奪い、苦しめます。そしてなによりも、そのような悪は、私たち自身の中にもたしかにあります。そういう闇の中で、私たちは光を失ったかのようにして生きてきました。
 いっぽう、光というものは、どこまでも届きます。今年、宇宙空間に浮かんでいるジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡で、最も初期にできたと見られる銀河が見つかったというニュースがありました。その銀河は、宇宙誕生のビッグバンから3億5千万年後のものだそうです。3億5千万年というと、何か気が遠くなるほどの長さですが、それでも宇宙全体の歴史138億年から見たら、ごくごく初期の宇宙の段階だそうです。ですから、今から134億5千万年前からその銀河は存在した。その光をとらえたというのです。つまりその銀河から出た光は、134億5千万年も宇宙を旅して、今私たちの目に届いたというわけですから驚きです。つまり光はどこまでも、永遠の果てまでも進んでいく、そして届くということです。同じように、キリストの命の光も、どんなに遠く離れていても、どこまでも届くということです。
 いっぽう「闇」とはなんでしょうか? 闇というものは、光が届かないから闇なのでしょう。光が障害物によって、さえぎられた状態が闇だと言えるでしょう。たとえば、夜は闇です。なぜ夜は闇であり暗いかと言えば、太陽の光が地球にさえぎられいるからです。日本が夜の時は、太陽の光は地球の反対側のアメリカなどを照らしている。だから地球自身が障害物となって、日本の側は夜になる。
 そのように、闇というものは、光に背を向けているわけです。しかし、地球の自転によって日本の側が太陽の方を向けば、光で照らされる。そのように、光の方を向けば光に照らされます。イエスさまの方を向けば、光が照らす。
 
   光を理解しなかった
 
 5節の後半に進みますと、「暗闇は光を理解しなかった」と述べています。この「理解しなかった」という訳文ですけれども、「あれ?こんな文章だったかな?」と思われた人もいるのではないでしょうか。前の口語訳聖書では「勝たなかった」と訳していました。実はいろいろな聖書を見ると、両方の訳があるんです。「理解しなかった」というたぐいのものと、「勝たなかった」というたぐいの訳の両方がある。これはいったいどうしたことでしょうか?
 実はここで「理解する」という意味のギリシャ語は、もともと「つかまえる」とか「とらえる」という意味の言葉なんです。「とらえる」という言葉は、たとえば「意味をとらえる」というように使うと、「理解する」という意味になります。また、たとえば「敵を捕らえる」というように使うと、「勝つ」という意味になります。そのように、どちらの訳も間違ってはいないということになる。両方の意味がある。
 実は私は、その両方を経験しました。
 まず、「暗闇は光を理解しなかった」のほうの意味です。私は幼子の時に幼児洗礼を受け、高校生になるまでずっと教会に通っていました。しかし大学生になってしばらくしてから教会を離れてしまいました。信仰も失いました。神さまが信じられなくなりました。キリストの十字架の意味が理解できなかったのです。それで、そのあとは神なき世界へとまっしぐらに進んでいきました。罪に罪を重ねました。まさに、「暗闇は光を理解しなかった」のです。
 今度は、「暗闇は光に勝たなかった」のほうです。その後、大学を卒業して社会人となった私でしたが、健康を害しました。持病のぜんそくが悪化していったのです。それでも毎晩飲んだくれていたので、ついに薬も効かなくなって、窒息しそうになり、救急車で病院に運ばれました。血中酸素が不足して、何も見えなくなりました。本当に苦しくてたまりませんでした。死ぬと思いました。そのとき、すべての光が失われて、暗黒の世界の入り口に立ったと思いました。そのとき私は神さまを思い出しました。そして心の中で全力で叫んでいました。「神様、助けて下さい!」と。今思うと、それが暗闇の中に届いた一筋の光だったのです。私はそのまま失神しましたが、助かりました。そしてキリストへの道へ、再び導かれて行きました。
 そういうわけで私は、「暗闇は光を理解しなかった」という翻訳と、「暗闇は光に勝たなかった」の両方を体験しました。そしていずれも本当であるということができるのです。
 
   十字架と復活
 
 「暗闇は光を理解しなかった」。イエスさまという真実の命。人間を照らす光。しかし暗闇に住む人間はそれを理解しなかったことはたしかです。人間を照らす光としてこられたのに、そのイエスさまを十字架にかけてしまった。光を理解しなかった。神の子を十字架につけた人間の暗闇です。
 いっぽう、「暗闇は光に勝たなかった」。十字架にかけられて死なれたイエスさまは、3日目によみがえられました。復活です。復活の命の光です。人間の罪という暗闇は、キリストの光に勝つことはできなかった。人間の罪という暗闇を、はるかに凌駕する光です。暗闇の中に住み人間の所に近づいてくださり、光で照らしてくださる方です。私たちの暗闇も、キリストの命の光に勝てないのです。


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