2023年9月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教(ヨハネ第1回)
●聖書 創世記1章1〜3
    ヨハネによる福音書1章1〜3
●説教 「初めの真相」

 
   ヨハネによる福音書
 
 「初めに言があった」。このように書いて、ヨハネによる福音書は始まります。本日から、ヨハネによる福音書の連続講解説教を始めます。ヨハネによる福音書の連続講解説教は、コロナ禍前に夕礼拝でいたしました。しかし今回、あらためて新しい気持ちで最初から祈り、黙想し、この福音書から神の言葉を聞きとってまいりたいと思います。
 
   初めに言があった
 
 ヨハネ福音書は「初めに言があった」と書き始めています。この「初めに」とは、時間の最初であり、万物の根源という意味です。その初めに言があったという。
 この「初めに」という書き出し方は、創世記第1章1節を念頭に置いていることは間違いないでしょう。全聖書の最初、創世記1章1節は「初めに、神は天地を創造された」という言葉で始まっています。ですから、ヨハネ福音書は、そのところに解説を加えているということができます。別の言い方をすれば、その天地創造の秘密、真相を明らかにしているということになります。
 
   天地創造
 
 創世記の1章1節の「初めに」という言葉は、この世界、この宇宙に初めというものがあったことを告げています。今では、宇宙に初めがあったことは誰でも知っています。20世紀になって、「ビッグバン宇宙論」というのが登場して、今ではそれが学説となっています。
 ビッグバン宇宙論では、この大宇宙は、今から約138億年前に誕生したというものです。そのとき宇宙はずっと小さく、針の先よりも小さな点、大きさのない点から始まったというのです。その点に、この大宇宙にある千億という銀河、星々のすべてのもとが詰め込まれていた。ではビッグバンが起こった、その前はどうだったのか?‥‥なにも分かっていません。私たちは宇宙の中にいるので、宇宙の中のことしか分からないからです。ビッグバンによって宇宙が始まる前はどうだったのか?‥‥それは神が存在したということは私たちは知っています。しかし科学では、神が造ったとは言わない。
 宇宙の謎というのはいろいろあるのですが、その謎の中にこういうものがあるそうです。それは、「この宇宙は私たちにとって都合よくできすぎている」という謎だそうです。現在の宇宙は、さまざまな物理法則によって成り立ち、天体が動いているわけですが、その物理定数というものが少しでも変わったら、私たちは存在しなくなるのだそうです。たとえば、万有引力の法則。重力があってこの宇宙は成り立っているわけですが、その万有引力定数というものが、現在の定数よりも強くても、弱くても、宇宙の様相は今とは全く異なったものとなってしまい、私たちのような生命体は存在することが難しくなるのだそうです。また、電磁気力というものが少しでも変わったとすると、物質の化学的な性質が異なってしまい、生命活動が維持できなくなるのだそうです。
 そのように、この宇宙の物理定数は生命を誕生させるように微調整されているかのように見える。つまり、この宇宙は我々にとって都合よくできすぎているという問題だそうです。
 これを説明する最も簡単なものは、神さまがそう造られたということです。しかし科学はそうは言わない。謎だと言っている。人々は、広大な宇宙が大きさのない点から始まったという科学者の説明は信じても、神がお造りになったという説明はなかなか信じない。私たちに言わせれば、こっちの方が謎ですが。最も自然な説明は、神が造られたからということに違いありません。現在では古代よりも、もっとそのように言う他ないことが分かってきていると思います。そして、創世記は神が造られたと書かれています。
 
   言とはだれのことか?
 
 さて、創世記は「初めに神は天地を創造された」と書き始めます。そして、ヨハネ福音書は、それに並行するように「初めに言があった」と書き始めます。
 この「言」とはなんでしょうか? 創世記1:3で神さまがおっしゃった「光あれ」という言葉のことでしょうか? そうではありません。なぜなら、次を読むと、「言は神と共にあった」と書かれているからです。神が発せられた言葉ではなく、神と共にある別の存在としての言なのです。しかも続けて「言は神であった」と書かれている。すなわち、神と別の存在である神だということになる。ではこの「言」とは何か?と、読者に思いを巡らすように仕向けているのです。
 さらに11節には、「言は、自分の民のところへ来たが、世は言を認めなかった」と書かれている。すなわち、この言とは人格を持った存在だということが分かります。さらに14節では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記す。
 ここにいたって、ヨハネの書く「言」とは、イエス・キリストのことだったのだ!と、目が開かれていくように進んでいきます。
 
   「言」という字
 
 さて、ここで「ことば」という字のことです。「言葉」ではなく「言」という字が使われています。ふつうは「言葉」と書くのでしょうけれども、葉という字のない一文字の「言」となっている。ギリシャ語では「ロゴス」という言葉が使われていて、これはふつうの言葉という言葉です。区別していない。しかし日本語の新共同訳聖書、口語訳聖書では、一般的な言葉という字と区別しています。英語の聖書の多くは、「the Word」と大文字になっています。やはり区別をしている。しかし、この言が、イエス・キリストのことを言っていると分かって、半分納得いたします。それは特別な言葉なのだと。
 しかしそうするとまた別の疑問が出てきます。それは、なぜイエスさまのことを「言」と表しているのか?ということです。
 これはたいへん興味深いことなのですが、日本語の「言」という書き方にも本質に通じるものがあるのです。「言葉」の語源は、「言」(こと)+「端」(は)だそうです。そして、もともとは「言」という一文字だったそうです。この「言」は、出来事の事という字、「事」と同じ意味があって、「言」は事実を表したそうです。これは旧約聖書のヘブライ語と共通点があります。ヘブライ語でも、言というものは現代人が考える以上に重いものです。しかしその後、事実を伴わない口先だけの意味をもたせるために、「は」を加えて「言葉」と表記するようになったのだそうです。
 この日本語の言葉について考える時、真実の言葉、事実である言葉という意味で「言」と訳したのは、まさに名訳と言わなければならないでしょう。
 そして、言葉は相手に出来事や意思を伝えるためにあるものです。すなわちメッセージです。ヨハネ福音書が言う「言」とは、イエス・キリストは真実のメッセージであるということ、神の実行力ある真実の言葉であるということをあらわしているのです。
 
   「あった」と「成った」
 
 ヨハネ福音書の1節から3節を見ますと、「あった」という表現と、「成った」という表現があることに気がつかれることでしょう。「あった」のほうは、「初めに言があった」「言は神であった」「この言葉は初めに神と共にあった」となっています。それに対して、「成った」のほうは、「万物は言によって成った」。
 いうまでもなく、「あった」というのは、成ったとか、生まれたとか、造られたというのではなく、初めから存在していたということです。もうすでに「あった」のです。それに対して、「成った」のほうは、あとから造られたということになります。こうして、創造された神と、造られた世界と私たちという関係がはっきりと分けられています。神と、神と共にいます言である方イエスさまが初めからあった、存在していたのであり、私たちはその方によって成った、造られたということです。私たちのルーツがはっきりさせられています。
 
   創造の真相
 
 旧約聖書の創世記では、神が万物を造られたという事実を書きます。しかしここ、ヨハネ福音書では、父なる神が、「言」といわれるイエス・キリストと共に万物を造られたことを明らかにしています。
 創世記のほうで、「神」という字ですが、これはヘブライ語のエロヒームという言葉です。エロヒームとは複数形なのですね。ですから本来は「神々」と訳す言葉です。そして、「創造する」のほうは単数形です。これについてヘブライ語では、神は畏れ多い存在なので、そのようなときにはひとりでも複数形を使うのだと説明されます。だから、真の神はお一人で、畏れ多いのでエロヒームという複数形になっているのだと言います。しかしこれは、今日のヨハネ福音書が明らかにしているように、「言」といわれるイエス・キリストが、創造主なる神と共にすべてのものを造られたということになります。ですから、神という言葉が複数形になっているのは、父・子・聖霊なる三位一体の神が一つとなって天地を創造されたと考えた方が、すなおだと思います。
 ここに、最初の天地創造のメッセージが浮かび上がってきます。すべてのものが言であるイエスさまによって成った。そのとき、愛というメッセージがあざやかに出てきます。なぜならそのキリストは、私たちを救うために十字架にかかって、命を投げ出してくださったキリストだからです。そうすると、神がなぜ世界をお造りになったかということも分かってきます。それも「愛」です。神は愛をもって、そして愛するためにこの世界をお造りになった。そして私たちをお造りになったということです。
 
   賛歌
 
 ヨハネ福音書の最初の1節から18節までは、たいへん美しい、リズムのあるギリシャ語で書かれているとのことです。韻文になっています。つまり詩の形、歌の形になっている。それで、このところは教会で歌われた、口ずさんだと考える人もいます。
 初めに言があったなんて、どうして分かったのか?ヨハネが考え出したのか?‥‥などと考える人もいます。しかし、このように詩の形になっている所というのは、旧約聖書の詩編や、預言者の書がそうですね。今水曜日の聖書を学び祈る会で、イザヤ書を読んでいますけれども、預言が詩の形になっています。神さまの言葉が詩の形になって書かれています。それは預言なんです。ですから、「初めに言があった」というこのくだりも、ヨハネという個人が考え出したものではありません。神さまの啓示であると考えるべきです。
 このヨハネ福音書は、1世紀末の迫害の時代に書かれたと言われています。そういう迫害とか、危機の時に、神さまは特別の恵みも与えてくださいます。迫害の時代に、ヨハネは神さまからこれらのことを示された。そして、この賛歌を人々が口ずさんだ。そして神さま、イエスさまを賛美して歩んだ。そう考えることができます。それはどれほどの希望と力となったことでしょう。
 私たちも、このヨハネ福音書の最初のほうの言葉を、ご自宅に帰ってから、また繰り返し読んでいただいたら良いと思います。どうか主の恵みが、皆さまと共にありますように。


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