2023年8月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記17章11〜12
    エフェソの信徒への手紙6章18〜20
●説教 「祈りの援軍」

 
   逗子教会創立記念日
 
 逗子教会の創立記念日は8月15日ですが、きょうはそのことを覚えて礼拝しています。1948年8月15日(日)、日本の無条件降伏から3年目の終戦記念日、米軍払い下げのコンセットハット(かまぼこ型兵舎)にて、逗子教会は第一回目の礼拝を持ちました。司式は、初代牧師の宮崎繁一先生。聴衆は5名であったと記録されています。
 敗戦後の復興ヘと日本が歩み始めた中で、当教会は希望の福音を宣べ伝え始めたのです。私たちは、この志を受け継ぐ者でありたいと思います。
 
   霊の戦いは祈りへ向かう
 
 本日の聖書箇所も、引き続きエフェソの信徒への手紙です。しかしこの個所が創立記念礼拝の箇所となったことにも、主の導きがあると思います。
 この手紙での教えも最後のところとなっています。前回は、霊の戦いについて教えられていました。霊の戦いといっても、それは人間に対する戦いではありません。私たちの信仰を挫折させるために働く悪魔という存在がいるということであり、その働きに対する戦いです。悪魔の働きというのは、私たちが神を信じないように、神の愛を信じないように巧みに誘導するというものです。ですから、そのままなにもしないでいると、やがて信仰を失ってしまうのです。つまり、また元の不安と不平不満の世界へ戻ってしまいます。つまり悪魔の働きとは、私たちを絶望へ導こうとするものです。そこに、霊の戦いの必要性が生じるわけです。
 悪魔の働きが、私たちを絶望に導こうとするものであるのに対して、私たちの主イエス・キリストは、希望を与えてくださいます。
 終戦後、教会に人々が集まったのは希望が示されたからだと思います。日本の歴史上、多くの人々が教会に集まってきた時代がありました。一つは戦国時代です。もう一つは太平洋戦争が終わった後です。そのときのことを、よく「キリスト教ブーム」という言い方があります。しかし、あるとき、もう亡くなられた井上良彦先生(元北陸学院長・元活水学院長)が言いました。「『キリスト教ブーム』という言い方は間違っている。我々はブームで教会に行ったわけではない。日本が戦争で負けて、どうしたらよいのか、本当に心が飢え渇いていた。そうして救いを求めて教会へ導かれたのだ」と。そうだろうと思います。絶望的状況の中で、教会にはイエスさまの希望があったのです。
 現代はどうでしょうか? 日本財団がコロナ禍前の2019年におこなった17歳〜19歳の若者の意識調査があります。それはアジアと欧米のおもな国9カ国でおこなったものです。それによりますと、「自分の国の将来についてどう思っていますか?」という質問に対して、日本では「良くなる」と答えた若者が、ダントツの最下位の9.6%だったとのことです。また、「将来の夢を持っている」も最下位の60.1%。「自分で国や社会を変えられると思う」も、圧倒的最下位の18.3%だったということです。つまり、日本の十代後半の若者の多くは、夢も希望も失っているということです。この結果を見て、何としてもイエスさまのもとにある希望の福音を知ってほしいと思いました。
 しかし、私たちも、うかうかしていると夢も希望も喜びも失ってしまうということです。それは、奪おうとする者がいるからです。そこに霊の戦いが必要となるということです。そして前回は、神の武具を身につけるように書かれていました。それは、神さま、イエスさまの用意してくださっているものでした。そして今日の箇所で、あらためて、私たちが自分の力ではなくて、主の力によることを教えられます。それが祈りです。
 私たちは、自分の力によって悪魔の誘惑や試練を乗り越えることは難しいのです。それゆえイエスさまも、主の祈りで教えておられます。主の祈りの第6の祈願です。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。この「悪より救い出したまえ」というのは、悪魔・悪霊の力から救い出してくださることを願っている祈りです。
 
   祈りと願いの違い
 
 さて、祈りですが、聖書における祈りというのは、他の宗教のように、お願いすることだけではありません。18節の所で「祈り、願い求め」とありますが、「祈り」と「願い求める」ことが区別されています。このうちの「祈り」と訳されている言葉はギリシャ語では、「礼拝」の意味も含まれている言葉です。ですからそこには、神への賛美、感謝が含まれます。そして御言葉を聞くことも含まれます。そして「願い求め」のほうは、いわゆる祈り、祈願です。神さまにお願いする、助けを求めるのです。
 「どのような時にも」と言われています。良い時も、悪い時も、試練の時も、平凡なときも、どのようなときも、主を賛美し、主に感謝し、聖書のみことばに耳を傾け、願いをするのです。
 
   聖霊に助けられて祈る
 
 祈りというと、どう祈ればよいのか分からない、という人がいます。心配はいりません。聖書に次のように書かれています。(ローマ 8:26)「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
 日本人は、どうしても形式にとらわれやすい傾向があります。祈りの作法を考えます。作法を間違えてしまうと神さまを怒らせるのではないか、と心配します。しかしそのような心配はいりません。イエス・キリストの名によって祈れば、イエスさまがとりなしてくださるからです。そのような作法よりも、神さまの前に進み出たい、そしてお願いしたいという気持ちのほうが大切です。言葉はつたなくても良い。聖霊がとりなしてくださるのです。どんなつたない祈りでも、聖霊が助けて下さる。だから心配いりません。
 
   教会のために祈る
 
 ここでパウロは、何を祈りなさいと言っているかというと、「すべての聖なる者たちのために」耐えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい、と言っています。「聖なる者たち」というのは、何か特別な聖人たちということではありません。キリストによって聖とされた者ということです。すなわち、キリスト信徒全員のことです。言い換えれば、教会の兄弟姉妹たちということです。お互いに祈り合おうということです。それも一つの教会を越えて、です。
 一度信仰を捨てた私が、再び主のもとに、教会に戻ってくることができたのも、この祈りによってでした。それは教会に戻ってみて分かりました。両親が祈っていてくれた。そして教会が、教会を離れてしまった人のために祈っていた。それを知って、私は「ああ、これらの人々の祈りがあって、それを神が聞いてくださって、導かれたのだ」と信じることができました。
 きょうの旧約聖書は、出エジプト記17章11〜12節を読みました。これは、荒れ野を旅していたイスラエルの民に、アマレク人が戦いを仕掛けてきたときのことです。モーセが手を挙げている間、イスラエルが優勢となり、モーセが手を下ろすとアマレクが優勢となったと書かれています。この、手を挙げるというのは、祈りです。イスラエルの民は祈る時に両手を挙げて祈ったからです。モーセはできるだけ手を挙げていた。しかし疲れて手が重くなったので、アロンとフルがモーセの手を支えたと書かれています。それで祈りの手を挙げ続けることができて、イスラエルが勝った。すなわち、祈っている間、優勢になったのです。
 さらにパウロは、「わたしのためにも祈ってください」と言っています。パウロ先生が、信徒に向かって「祈ってください」とお願いしている。多くの宗教では、宗教家や祈祷師が人々のために祈るものですが、ここでは先生であるパウロが、「わたしのためにも祈ってください」とお願いしています。
 何を祈ってくれというのでしょうか? ここを読むと、要するにパウロが神の言葉をちゃんと語ることができるように、祈ってくれと言っているんです。伝道者であるパウロが、人々にちゃんと間違いなく、しかも大胆にみことばを語ることができるようにと。「福音の神秘を大胆に示すことができるように」と言っています。この「神秘」という言葉は、「奥義」という意味の言葉です。神秘であり、奥義ですから、それがどういうものであるか説明が必要となります。そこに説教が必要となります。
 たとえば福音書には、イエスさまが十字架にかかって死なれたことが書いてあります。ではなぜイエスさまは十字架にかかられたのか? また、なぜ十字架が私たちの救いなのか?‥‥そういったことは、説教をしなければなりません。だから、ちゃんと説教できるように祈ってほしいと言っているのです。
 20節には「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが」と書かれています。パウロはこのとき、ローマの都で鎖につながれた囚人でした。だから伝道に出かけて行くことができません。しかしそれでも福音を語ることができるように祈ってほしいと呼びかけているのです。
 実際、パウロはこれまで機会さえあればキリストの福音を語ってきました。たとえば使徒言行録25章に書かれていることです。パウロがエルサレムで捕らえられて、それからカイサリアという地中海岸の港町に移されました。そしてローマに護送される前、ローマ帝国の総督であるフェストゥスと、ユダヤの王であったアグリッパの前で、弁明の機会を与えられました。それでパウロは口を開いて語り始めました。しかしパウロが語ったことは、弁明ではなく、かつてはキリスト教会を迫害していた自分が、いかにしてキリスト信徒となったかということを語りました。キリストが天から現れて自分に声をかけたことも語りました。そしてイエス・キリストのことを語りました。
 それを聞いていた総督フェストゥスは、パウロの話を遮りました。そしてアグリッパ王は、こう言いました。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と。おそらく2人は、パウロの説教を聞いていて、これ以上聞いていると自分たちがイエス・キリストを信じてしまうと思ったに違いありません。それで話を中断させたのだと思います。
 そのように、パウロは弁明の機会を与えられても、自分を助けるための弁明をしていません。それどころか、キリストが旧約聖書で予言されたメシアであることを大胆に語ったのです。そのように、パウロは自分が福音を語れるように、エフェソの信徒たちにお願いしているのです。祈りのサポートをお願いしているのです。
 
   祈り合う
 
 私もみなさんに祈られています。もちろん、私が物質的な幸福にあずかるためではなく、神の言葉を語ることができるように祈ってくださっています。私もみなさんのために祈っています。そして今日の聖書の言葉は、お互いのために祈り合いなさいと命じています。こうして教会が、キリストの体として生きているものとなります。
 逗子教会も、祈られています。週報の牧師の予定のところに、ときどき「牧師有志祈り会」というのがあることにお気づきかと思います。これは、牧師の有志がインターネット上で集まって、といっても今のところ少人数ですが、お互いのため、そしてお互いの教会のために祈り合っているのです。
 創立記念礼拝の今日、当教会が主から与えられた使命を果たしていくことができるように祈り続ける。そのことを主から示されたと思います。


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