2023年8月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記6章4〜9
    エフェソの信徒への手紙6章10〜17
●説教 「霊の武具」

 
   平和を祈る
 
 本日8月6日は、広島の原爆の日です。そして8月の第一聖日は、日本基督教団では「平和聖日」としています。人類史上、初めての核兵器が、多くの人間が生活している都市の上に落とされた。そして多くの人が命を失いました。またそれに至るまでの長い戦争。アジアでもヨーロッパでも、多くの人々が命を失いました。この人類史上、最も多くの人が死んだ戦争の原因については、多くの人々がさまざまな角度から解説しています。しかし私たちは、やはりその根底には人間の罪というものがあると言わなくてはなりません。
 そして原爆の日から78年が経った現在、核兵器の使用をちらつかせる独裁者がいることに、私たちは戦慄を覚えます。これらのことは、人類は進歩などしないことを証明しています。そのままでは人間は進歩しない。それは罪の問題が解決されていないからです。イエス・キリストによって罪の問題が解決されない限り、救いは来ないということをあらためて深く思わされます。
 そして、核兵器の使用をちらつかせる独裁者が、胸の前で十字を切って祈るキリスト教徒であるということ。その場合の、その人にとってのイエス・キリストとは、どういう存在なのだろうかと思わざるをえません。本当にキリストを信じ、キリストに従おうとしているのか。そのように疑問に思わざるをえません。
 ただそのことは、私たち自身の問題でもあります。たしかに洗礼を受けた。しかし形ばかりのキリスト信徒になってしまってはいないだろうか。そのように省みることは、私たち自身にとっても必要なことであろうと思います。
 原爆投下を覚え、先の戦争の悲惨さに心を留め、亡くなった犠牲者たちの冥福を祈り平和を願うこの日に、今日の聖書は「戦い」を奨励する箇所になっています。しかしもちろん、この聖書で言う戦いとは、鉄砲やミサイルによる戦いではありません。ここで言う戦いとは、12節に描かれていますように、「血肉」を相手にするものではありません。「血肉」とは、人間のことです。人間を相手にするものではない。「暗闇の世界の支配者」である「天にいる悪の諸霊」を相手にするものだといいます。すなわち、悪魔を相手にするものであるといいます。
 そして15節に「平和の福音」という言葉があります。すなわち、平和と和解をもたらすものだということです。また「神の武具を身につけなさい」という言葉が出てきますが、これも武具といっても実際の刀や槍のことではなく、霊的な意味での武器のことです。
 
   最後に言う
 
 今日の聖書箇所である10節の冒頭で、「最後に言う」と書かれています。「最後に」というのは、もちろんこのエフェソの教会に宛てて書いている手紙の最後ということでしょう。この礼拝でしばらくご一緒に読み進めてきたこの手紙も、あと残すところ2回で説教は終わります。だからパウロが、手紙の最後に言っておきたいこと、という意味であるでしょう。
 しかしそれだけではないような気がします。というのは、パウロがこの手紙を書いている時は、ローマにて鎖につながれている、すなわち獄中にいる。しかも時は西暦62年頃と推測されます。ローマ皇帝ネロが統治している時代です。そしてパウロは、このネロの迫害によって処刑され、殉教します。そもそも未決の囚人として獄につながれているのですから、いつ裁判が始まるかも分からない。もしかしたら明日、裁判が始まって死刑の判決が出るかも知れません。そういう緊迫したところに置かれています。ですから、この「最後に言う」というのは、文字通り、最後の言葉として、パウロと関係の深かったエフェソの教会の人たちに、最後に語っておくべき言葉として書き綴っているとも考えられます。
 さて、最後にと言うのですから、この手紙の最初はどうだったか、簡単に振りかえてみたいと思います。そうすると、神が驚くべき、深遠なるご計画をもって私たちをお選びになり、あらゆる霊的な祝福で満たして下さったこと、そしてキリストの体なる教会に加えてくださったことが書かれていました。そして2章では、私たちが行いよるのではなく信仰によって救われたことなど。3章では、パウロ自身に現れた神の恵みが語られ、そしてエフェソの信徒が神の満ちあふれる豊かさのすべてに与ることを祈っていました。そして4章からこの前の箇所までは、教えと勧めが語られていました。神の招きによって教会に加えられた者として、その招きにふさわしく生きること。神に倣う者となること。神に感謝し、互いに仕え合うこと、などが語られていました。
 そして今日の教えから、最後の教えということになります。それは、これまで語られてきた神の祝福を妨げる力に対抗することです。それが戦いという形で書かれています。
 
   悪魔の勢力
 
 12節にその戦いについて書かれています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」
 暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする戦いであると言っています。つまりは、悪魔に対する戦いであるということです。悪魔というと、そのようなものが存在するのか?と思われる方もいるでしょうけれども、聖書は悪魔がいることを書いています。しかしそれは何か映画の「エクソシスト」のようなものではありません。それだったらむしろ分かりやすいでしょう。
 そしてメインは悪魔ではありません。人間の罪です。そのことは、創世記3章を読むと分かります。悪魔は、神から人間を引き離そうとします。創世記3章はエデンの園の物語ですが、神さまが決して食べてはならないとお命じになった「善悪の知識の木」の実。ヘビ扮する悪魔は、その木の実を、神に背いて取って食べるように人間をそそのかします。そのように、そそのかす、聖書の言葉で言うと誘惑することが悪魔の働きです。そして実際に神に背くのは人間の罪ですから、人間の罪が問題なわけです。しかし悪魔がそれをそそのかす。あるいは人間が神を信じないように誘導する。つまり、人間の罪が根底にあり、そこに悪魔が働きかけて、人間が神から離れるようにする。
 私たちにも実感があるのではないでしょうか。たとえば、5章20節では、「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」と書かれていました。そしてそのみことば通りにしようとして、しばらくはさまざまなことに感謝して生活することができても、いつのまにかまたそれができなくなって、不平不満や人の悪口を口にするようになり、いろいろなことが心配になってくる。そういうことがないでしょうか。しょっちゅうあると思います。いつの間にか悪の霊が誘導しているのだと思います。
 このことはイエスさまもたとえ話でお話しになっています。マルコによる福音書4章の「種蒔きのたとえ」です。ある人が蒔いた種が道端に落ちて、鳥が来て食べてしまった。それで芽を出すことができなかったということ。これについてイエスさまは、神の言葉が蒔かれても、サタン(悪魔)が来て、蒔かれたみことばを奪い取るのだと言われました。聖書の言葉が長く心にとどまらないのは、そういうわけだったのかと思わされます。
 だから、悪の諸霊、悪魔の働きがあるのだということを前提にして、信仰を失わないように注意していなさいということになります。それが霊の戦いです。
 
   霊の戦い
 
 霊の戦いと言っても、悪魔が勝つかも知れないという話ではありません。なぜなら、1章20節21節に、神はすべての支配、権威、勢力、主権の上に復活のキリストを置いた、と書かれているからです。悪魔が神と並び立っているのではありません。神さま、キリストの方が、圧倒的に上回っています。だから、キリストに依り頼めば必ず勝つという戦いです。
 かつて、キリストを信じない前は、私たちも悪魔悪霊の支配の下にいたということが、すでに2章1節〜2節に書かれていました。しかしキリストによって救われたと。しかし、悪魔、悪霊はいなくなったのではなく、まだ存在し、私たちに働きかけてくる。信仰を挫折させ、神から引き離そうとして。そこに、パウロが言う戦いが必要となるということです。
 11節でパウロは「悪魔の策略」という言葉を使っています。策略というのですから、あからさまではないのです。もっと巧妙に、分からないように誘導していく。それでパウロは10節で、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と教えています。「主に依り頼み」という言葉は直訳すると「主の中で」という意味です。イエスさまの中に入ってしまうんですね。また「強くなりなさい」というのは、本当は「強くされなさい」という受け身形なんです。つまり、自分で強くなるのではない。主の力で強くされなさいということです。主の力に依り頼むんです。自分の力ではない。
 ですから、霊の戦いといっても、自分が戦うのではなく、主の中にいて、イエスさまに戦っていただくんです。
 
   神の武具
 
 戦うためには、武具がいります。それで14節から、その武具の話になります。
 まず「真理を帯として腰に締め」(14節)と言われます。着物は帯がないとばらけてしまいます。その帯に当たるものが「真理」であるという。真理とは、キリストの十字架と復活による救いのことだと言えるでしょう。そのことをしっかりと身につけておきなさいということです。
 次に「正義を胸当てとして着け」と言われます。「正義」というのは「義」ということです。罪人であるわたしたちが、キリストによって義とされたこと。この救いの核心を胸当てとして身を守りなさいということです。「胸当て」というのは、敵の弓矢や刀といった攻撃から守る武具です。「あなたは神に祝福される資格がない」とささやいてくる。しかしそれに対して、「私はキリストによって罪赦され、義とされた」と言うことができるのです。
 そして「平和の福音を告げる準備を履き物としなさい」。「平和」は、ヘブライ語でシャロームです。それは「平安」という意味でもあります。キリストによる平安です。「履き物」は、足で歩き回る準備ということですから、キリストによる平安によって歩むということでしょう。キリストに依り頼んで歩めば、心配ないのです。
 16節「信仰の盾」とあります。「盾」は、敵の火矢から身を守ることができます。「信仰」、もちろんそれはイエスさまを信じることですが、とくにイエスさまの言われた「人にはできないことも神にはできる」(ルカ18:27)という御言葉を思い出します。自分にはできなくても、イエスさま、神さまにはおできになる。そのように信じることができます。17節には「救いを兜としてかぶり」とあります。兜は頭を守る武具です。「わたしは救われている」ということを頭に刻みつけると考えることもできます。
 そして「霊の剣」を取りなさいと言われています。ここで、唯一相手(悪魔)を攻撃する武器について語られています。その剣とは、神の言葉であると語っています。これはイエスさまが、世に出られる前、荒れ野で40日間の断食をなさったことを思い出すことができます。そのときイエスさまは悪魔の試みを受けられました。そしてイエスさまはそれを、聖書の言葉で退けられました。そのように聖書の言葉は神の言葉であり、力があるものなのです。
 こうして、私たちを神さま、イエスさまから引きはなそうとする力を退けて、神の祝福のうちに生きることができると言うことをパウロは教えています。感謝と喜びを失うことなく、仕えていくことができると。
 
   マザー・テレサ
 
 これは渡辺和子さんがおっしゃっていたことなのですが、マザー・テレサが74歳の時、日本に来られた時のことです。マザー・テレサが朝早く東京を発って、広島に行かれ、そこで平和の講演をなさったそうです。それが終わって、夕方に渡辺和子さんのいる岡山へ来てくれた。そして岡山の教会で2回お話しをなさった。そのうち1回は、教会の中で。もう1回は、教会に入りきれないで外にいた人たちにお話しをされたそうです。マザーがその夕方新幹線で岡山に来られた時から、おおぜいのマスコミや一般の方々がマザーを待ち構えて写真のシャッターを切っていたそうです。渡辺さんは、マザーはお疲れでお気の毒だと思うような有様だったそうです。ところがマザーは、疲れているに決まっているのに、カメラフラッシュが焚かれるたびに、笑顔でそちらを向かれるのだそうです。それで渡辺さんは、マザーは愛想の言い方だと思った。そしてマザーを渡辺さんらの修道院におとめするために連れて歩いていたら、マザーは渡辺さんに「シスター、私はね、フラッシュが一つ焚かれるたびに、道端で亡くなろうとしている貧しい人が、主の御手に抱きとられるように、神さま、私は笑顔を見せますからと、お約束してあるんですよ」とおっしゃったのだそうです。
 私はこの話を聞きまして、たいへん感銘を受けました。そして、私が誰かの悪口を言いたくなる、あるいは言ってしまった時に、すぐに心の中で「その人を祝福してください」と祈ることにしたのです。また、不平不満をつぶやきそうになった時には、代わりにその不平不満の原因を祝福する、あるいは感謝することにいたしました。もっとも、これも主のお助けがなければできないことです。しかし主は、十分に必要な助けを与えてくださっていると信じることができます。


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