2023年7月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記33章19
    エフェソの信徒への手紙6章1〜9
●説教 「かたより見ない神」

 
   人生相談
 
 エフェソ書は、引き続き「仕え合う」ということについての教えです。先週は夫婦に対する教えが語られていました。きょうは「子と親」そして「奴隷と主人」に対する教えとなっています。「奴隷と主人」という関係は現代では見られませんが、職場の上司と部下という関係に置き換えてみますと、これもまたたいへん身近な問題であると言えます。
 私のとっている新聞に人生相談のコーナーがありますが、先週一週間の相談内容を調べてみました。そうすると、親子に関する相談が5件、職場の人間関係に関する相談が2件でした。
 親子関係の相談では、結婚を母に反対されて困っている娘、息子が大学を辞めたいといって悩んでいる父、同居の高齢の両親が心配で結婚をためらう娘からの相談、子育てが思うように行かないことで悩む母親からの相談、父親の介護について母が自分の意見を聞かないので限界を感じているという娘からの相談でした。職場の問題の相談では、職場の飲み会で苦労している人からの相談、そして部下に反発され意思疎通に悩んでいる人からの相談でした。
 この人生相談のコーナーでは、夫婦の問題もよく出てくるのですが、先週はたまたまそういう相談が寄せられていました。これは、本日の聖書箇所で取り上げられている人間関係と重なるように思います。先週の夫婦のことも含め、多くの人がこのような身近な人間関係の問題に悩むだろうと思います。
 ところで、この手紙で教えを述べている使徒パウロはといいますと、パウロは結婚をしておりません。独身です。また子どももいません。親のことは新約聖書のどこにも書いていないので、もう亡くなっているのかも知れません。またパウロは誰かの奴隷でもないし、主人でもありません。そうすると、そのようなパウロになにが分かるのか?この悩み苦しみが分かるのか?と思う向きもあるかもしれません。
 しかしパウロは、伝道者としてこれまで多くの人たちの相談に乗り、また祈ってきたに違いありません。ですから、いかに多くの人々がそれらの問題で悩み苦しむかということを知っていたはずです。そして、キリストを信じる者として、これらの問題をどのように考えるべきかということを、ずっと祈りつつ考えてきたに違いありません。
 
   仕える
 
 振り返りますと、21節に「キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさい」という教えが述べられていました。これは、キリストを信じる者は、互いに仕え合う者だということでもあります。どちらかが一方的に仕えるのではありません。その前の20節には、「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」という教えがありました。すなわち、主に対する感謝をもって仕えるということです。
 パウロ自身は、たしかに妻もおらず、子もおらず、奴隷でも主人でもないわけですが、パウロ自身は教会に仕えています。教会はキリストの体です。ですからパウロはキリストに仕えています。そして、パウロは仕えることによって多くの苦難を経験します。コリントの信徒への第二の手紙11章に書かれている所によると、「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(2コリント11:24〜27)と書かれています。そして、同じ手紙の10章10節で、パウロのことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」と書いています。パウロを批判している人たちがいたのです。
 そのように多くの試練、時には死に直面するような試練に出会いつつも、それでもパウロはいつも神に感謝し、キリストに仕えています。それはパウロは、いつも罪人のかしらである自分を救ってくださった主イエスに対する感謝があったからです。そしてそこに主の奇跡が現れてきました。それでパウロは主に仕えている。自分に仕えてくださったキリストを思いつつ、感謝して仕えています。
 
   子
 
 そして今日の聖書箇所は、子と親についてまず教えられています。親と言ってもここでは特に父親に対して言われています。
 まず子に対して言われます。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」。そしてパウロは、旧約聖書の十戒の掟の項目の一つである「父と母を敬いなさい」を引用しています。父と母を敬え。これも現代ではあまり言われなくなりました。
 しかし、父と母を敬えと言われても、敬いたくなるような父や母ではないという人もいるに違いありません。「親ガチャ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。最近よく見かける言葉です。つまり「子どもは親を選べない」という意味です。中には我が子を虐待するような親もいる。不幸なことです。
 しかしこの十戒の「父と母を敬え」という教えには、十戒の中では二つだけなんですが、約束が付いています。それが「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。つまり神さまの祝福があるということです。そのように神さまが約束してくださっている。信仰による約束です。
 ノンフィクションライターの最相葉月さんのまとめられた『証し』という本についてはすでにご紹介しましたが、その中に、ある日系ブラジル人の方の証しが載っていました。 この方は10人兄弟だそうです。そしてお父さんは行商をしていたそうです。しかしこの方が7歳になった時に、お父さんは教会へ通うのをやめたそうです。お酒を飲み過ぎてアルコール依存症になったのだそうです。それで生活がたいへんになったそうです。この方が16歳になった時、お父さんがひどくなって、兄弟みんなで「もうお父さんの手助けはしません。これからはお母さんだけ面倒見る」と言ったそうです。それでお父さんはびっくりしました。そのとき、お父さんの心に神の御言葉が届いたそうです。それは出エジプト記20章2〜3節、十戒の冒頭の言葉です。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだしたものである。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。お父さんは兄弟に「俺を教会に連れて行ってくれ」と頼んだ。そして教会に連れて行ったそうです。そして1週間でお酒をやめたそうです。お母さんはお父さんに聖書を読んであげ、お父さんは必死でみことばを覚え、仕事に行くようになったそうです。そしてこの方の人生も変わったと証ししておられます。自分の目で、お父さんが変わったのを見たから、神さまに感謝しましたと書いています。
 この方の証しも、決して親の言いなりになったのではありません。お父さんが働かなかった10年間はたいへんだったでしょう。もう限界だというところで見切りをつけようとした。そこに神さまの手が、奇跡が起こったということでした。いずれにしろ、親だけを見るのではなく、主を見上げた時に変わってくるものがあるのだと思います。
 
   親
 
 次に親に対して教えが述べられています。特に父親に対してです。「子供を怒らせてはなりません」という。これは意外な言葉です。子供を怒らせないなんてことがあるでしょうか。例えばおさなごが、ご飯を食べたくない、お菓子を食べたいという。当然それはダメだと言いますね。すると子供が怒って泣く。そんなことはよくあることです。この場合、幼子の要求通りにしなさい、ということなのでしょうか?
 そうではないと思います。ここで言われているのは、そういう幼子ではなく、自立に向かっている思春期のような年齢の子供のことでしょう。もう自分でものごとを考えて行動する年ごろです。そうすると、頭ごなしに理不尽なことを押しつけるのではなく、子供に分かるように教え諭すということになるでしょう。ひとりの人間として見なさいということでもあるかと思います。「主がしつけ諭されるように」とあります。主は私たちの成長を願って、愛をもって導いて下さいます。そのように、ということでしょう。
 
   奴隷と主人
 
 最後に奴隷と主人に対して教えています。「奴隷」というと、「パウロはなぜ奴隷制度を撤廃しろと言っていないのか?」という疑問を持った方もいるかと思います。しかし、この時代は奴隷制度の時代だったわけです。現代が資本主義の時代であり、またサラリーマンの時代であるわけですが、古代は奴隷制社会だったわけです。
 奴隷というと、何か虐待して非人道的に働かせるというイメージがありますが、そうとばかりは言えません。というのは、奴隷はたしかに主人のものであり、給料をもらえませんが、その代わり住むところと食べるものは主人が与えてくれるからです。住む所と食べるところの心配はしなくてよい。ですから、良い主人に当たった奴隷は、非人道的に使われることなく、安心していることができたのです。奴隷という言葉は、他の言葉で訳すと「僕(しもべ)」ですね。私たちが主の僕であると言った場合、それは私たちが主の奴隷という意味ですが、それは決して悪い意味で言っているのではありません。主が私たちの生活、食べること、必要なものをすべて与えてくださるという信頼の言葉です。
 しかし人間の主人の奴隷となったものには、自由がないことには違いありません。中には理不尽な主人もいたことでしょう。しかし、その奴隷の身分の人がキリストを信じてキリスト信徒となった時、それは自由を与えられたのです。ガラテヤの信徒への手紙の5章1節にこう書かれています。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」
 この自由とは、見かけの自由ではなく、本当の自由です。たとえば、奴隷から解放されて自由人になったとして、それで本当に自由になったのでしょうか? 不平不満はなくなるでしょうか? 文句を言わなくなるでしょうか? わたしたちは奴隷ではなく自由人ですが、いつも感謝と喜びで満ちているでしょうか?‥‥そう考えると、聖書の言う自由というものが、単に社会的な地位や境遇の自由ではないことが分かってきます。
 そうすると、キリスト者の自由というものは、相手に従うこともできるという自由です。このところで言えば、キリスト信徒の中で奴隷である人が、その主人に自由な意思を持って従うことのできるという自由です。がまんではありません。自ら主人に仕えるという自由です。
 そう考えると、自分のおかれている境遇を変えることのできない者にとって、たいへん希望となることだと思います。私たちは、変えたくても変えることのできないものを抱えて生きています。たとえば、もっと良い家庭に生まれたかったと思う人もいるでしょう。でもどうもなりません。頭が良い人に生まれたかったと言っても無理です。もっと運動神経の良い人に生まれたかったといってもどうにもなりません。あるいは病を抱え、身体の痛みを抱えて生きている。‥‥ではそれは不自由なことなのでしょうか?
 たしかに見かけは不自由に見えるかも知れない。しかし、イエスさまを信じた時、それはまったく事情が変わるのです。不平不満しか口から出てこないのではない。感謝という言葉が出て来る。神の愛、キリストの愛を知るからです。キリストにあっては、本当の自由です。
 カトリックのシスターだった渡辺和子さんの本に『置かれた場所で咲きなさい』というものがありますね。どんな隅っこにおかれた花も、咲くことができるように、私たちもどんなところに置かれても、キリストを信じるならば咲くことができる。今日の聖書の最後に、私たちの主は「人を分け隔てなさらない」、つまり「人をかたより見ない」方であると書かれています。
 私たちの目には、世の中不公平ばかりだと思える。しかし私たちがキリスト・イエスさまを信じた時、神さまの恵みは全く分け隔てなく与えられるということです。


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