2023年7月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記2章18〜24
    エフェソの信徒への手紙5章22〜33
●説教 「現実と神秘」

 
   夫婦に対する教え
 
 本日読みましたエフェソ書の聖書の言葉は、日本基督教団の式文の結婚式の中の「夫婦に対する教え」で読まれる聖書箇所です。しかし、新しい式文、それはまだ「試用版」という名前がついていますが、その新しい式文の結婚式の所では、この聖書箇所がありません。どうしてこの聖書箇所を読まないようになってしまったのかということですが、聞くところによると、妻にだけ「仕える」ことを求めているように見えることが評判がよくなかったとのことです。
 評判がよくなかったとのことで聖書の言葉を載せるのをやめたというのはいかがなことかと思います。そもそも「仕える」という言葉に、一方的に妻に対して夫に服従を強いているのだと考えるなら、それはまちがっています。さらにこの手紙は、エフェソの町にある教会に宛てて書かれた手紙ですから、エフェソの教会の人たちが抱えている特有の問題があったのかもしれないのです。
 
   互いに仕え合う
 
 まず「仕える」ということですが、これは妻だけが夫に仕えるということではありません。それは、前回21節のみを取り上げて説教をしたのを思いだしていただければ分かります。21節では「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と語られていました。そしてそのとき、この21節の言葉は、22節の妻に対する教えだけではなく、そのあとの6章9節までの全体にかかっていると申し上げました。すなわち、妻と夫、子と親、奴隷と主人のすべてに対して、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言われているのです。
 そしてそれらは、一つの家、家族について語っているのです。奴隷というのは、使用人と言ってもいいのですが、使用人を置ける家というのは裕福な家に違いありませんが、そこに書かれているのは、みな一つの家の中のことについて言っていると言っていいのです。家族、そして家の中にいる人、それは最も身近な隣人です。イエスさまは、『隣人を自分のように愛しなさい』という律法について教えられましたが、その最も身近な隣人です。
 その最も身近な隣人である家族、そして家の中の人に対して、お互いに仕え合うということ、そして愛し合うという中で、今日の教えは語られています。
 ではなぜお互いに仕えあう必要があるのかと言えば、それは前回学びましたように、まずキリストが私たちに仕えてくださったということ、それによって私たちが救われたからだということがありました。そしてそのキリスト・イエスさまが、互いに足を洗い合いなさいとおっしゃったこと、すなわち互いに仕え合うことを教えられたからです。
 そして、他にもギリシャ語には「仕える」という意味の言葉がいくつかある中で、この個所で遣われている「仕える」という言葉は、「下に置く」「低くする」という意味の言葉が使われているということも申し上げました。すなわち、これは聖書の最高の徳目の一つである「謙遜」ということを言っているわけです。だから尊い教えであるということができます。
 
   キリストと教会を指して
 
 そして、今日の教えは、いわゆる人生訓や処世訓というような教えではないということです。つまり、妻は夫に仕え、夫は妻を愛する‥‥それが夫婦円満の秘訣、ということを言いたいのではないということです。32節に「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」と、使徒パウロは書いています。この「キリストと教会について述べている」という言い方は、「キリストと教会を目指している」と言ってもいいでしょう。つまり、パウロは信仰のことを言いたいのです。
 
   夫に仕える
 
 パウロには、旧約聖書の創世記が念頭にあったことでしょう。本日の旧約聖書は、創世記2章19〜25を読んでいただきましたが、そこは、神が人間を男と女に分けて造られた理由を説明している箇所です。とくに、神が男のあばら骨をとって女をつくられたという話は有名ですね。もちろん、これが科学的にどうこう言っても始まりません。なぜ男と女に造られたかということを、このような形で説明しているわけです。
 18節ではこう書かれています。‥‥"主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」"
 ここで「良くない」というのは、どういうことなのか?‥‥聖書で最も良くないことは、神を信じないことであります。つまりここでは、人がひとりでは神を信じ続けることが難しいということを述べているのだと思います。そして神は、「彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃった。ですから、この「助ける者」というのは、炊事や洗濯をすることを言っているのではありません。相手が神への信仰に立ち続けることができるように、助けるというのが第一のことにほかなりません。
 エフェソ書の方に戻りまして言いますと、自らを低くして、夫がイエスさまへの信仰に立ち続けることができるように仕えるということになります。また、夫が未信者であれば、信仰に導かれることを祈り願うということになります。
 ですから、それは何か相手の言いなりになる、ということとは違います。私の前任地での最初の受洗者は、奥さんの家に婿養子として入った男性でした。ですからその人は妻ではなく夫であるわけですが、むかしはその家に婿養子として入るというのは、嫁として家に入る以上に肩身の狭さがあったようです。そしてその人が婿養子に入った家は、ある新興宗教に家族で入っている家でした。だから教会に来るのも、家の者がいない時とか、なにか他の用事で出かけることを口実に来るという具合でした。そしてしばらく礼拝に見えないと、教会から週報などを郵便物で送るのですが、そうするとその人が来た時に、「すみません、送らないでください」と言うんですね。教会から郵便物が送られてくると、妻や家の者から「まだそんな所に行っているのか」と言って怒られるからということでした。しかしこの場合は、教会に行くなと言われても行く。そこは配偶者の言いなりになるのではない。かえって、教会に来て、妻や家族が救われることを祈るのです。
 ですから、なにが自分を低くすることなのか、すなわち仕えることなのか、自分自身が主に祈り求めることが大切です。
 宗教改革者のマルチン・ルターにはカタリーナという妻がいました。ローマ・カトリック教会では、聖職者は結婚禁止で独身でしたが、ルターはカトリック教会から出たので、そのような戒律とは関係ありませんでした。ルターの妻となったカタリーナは、カトリック教会の修道女、つまりシスターでしたが、ルターの宗教改革に共鳴し、修道院を脱出したのでした。男性優位だった当時でしたが、カタリーナはルターの家で行われる会議に参加して積極的に意見を言うなど活動的な人でした。またルターも、カタリーナのことを「私のあばら骨」と言っていたそうです。つまり今日の創世記のほうの言葉ですね。
 宗教改革は、それまで西ヨーロッパのキリスト教を独占していたカトリックを批判しているわけですから、それはたいへんな困難が伴いました。あるとき、ルターが疲れ果て、意気消沈しているところに、妻のカタリーナが喪服を着て部屋に入ってきたそうです。ルターはそれを見て驚き、「誰か死んだのか?」と聞きました。するとカタリーナは、「あなたの神さまが死にました」と言ったそうです。そして、カタリーナは「神さまが生きておられるのなら、なにをあなたはそのように意気消沈しているのですか」と言ったそうです。それでルターはハッとして、立ち直ったということです。‥‥これは、本当に夫を助けることであり、仕えるということに違いありません。
 
   妻を愛する
 
 さて、夫に対しては「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(25節)と命じられています。
 これはものすごい命令だと思います。なぜなら、キリストが教会のために御自分をお与えになったように、ということですから。キリストが教会のために御自分をお与えになったというのは、もちろん十字架を指しています。イエスさまが十字架にかかって、御自分の命を捨てられた。私たちを救うために。そのように、ということです。すなわちこれは、言ってみれば、妻のために命を捨てなさい、と言っていることになります。
 そして、ここでは夫に対する教えのほうが、妻に対する教えよりも長いんです。そして、妻を愛することは自分を愛することだと語られる。そして「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という、創世記2:24を引用しています。妻と一体なのだから、妻を愛することは自分を愛することだと言われます。
 
   神秘
 
 このようにして、妻に対する教え、そして夫に対する教えを見てきますと、それはとても難しいことが書かれていることが分かります。主に仕えるように、自分の夫に仕える、すなわち自分を低くする。キリストが教会に御自分をお与えになったように、妻を愛する。‥‥とても難しいことです。特にキリストが愛してくださったように愛するなどということは、人間にできることではありません。
 そして最も身近な人についても難しいのであるならば、世界の誰に対しても、仕えるということや愛するということは難しいことに違いありません。いや、キリストのようにという言葉が入った時、それはもはや不可能だと言わざるをえません。そうするとパウロは、不可能なことをここで教えているのでしょうか?
 そこで浮かび上がってくる言葉が、32節の「この神秘は偉大です」という言葉です。この「神秘」という言葉は、神さまのなさることを指しています。とくに、神さまの隠されたご計画です。そしてパウロは、「わたしは、キリストと教会について述べているのです」という。妻と夫のことを、つまり結婚について語りながら、キリストと教会のことを語っている。教会というのは、この罪人である私たちの集まりです。罪人であるけれども、キリストによって招かれ、集められ、神を礼拝している集まりです。そのように、私たちのような不完全なものが、神のもとに招かれて神の民とされている。それは神秘であるに違いありません。
 私たちは今日の箇所を読んで、その神の神秘の偉大さを知ることができます。最も身近な者に対してさえ、真心を持って仕えるということが難しい、キリストのように愛するということが難しい。しかしその私たちがキリストの体である教会に加えられている。もはやキリストと一体とされている。その恵み、その神秘の偉大さを思わずにおれないのです。
 その恵みによって、私たちもキリストの体に加えていただいているのです。
 三浦綾子さんの夫である三浦光世さんは、やはり若い頃病気をして、キリスト信仰に導かれたそうですが、「もし身体が丈夫だったら、わたしのようなものは、どんなになっていたかわからないな」と綾子さんに言ったそうです。刑務所のご厄介になるような人間になったかも知れないというのだそうです。しかし病気になったおかげで、キリスト教を信じたから、かろうじてどうやらおのれを保っているといったそうです。それで綾子さんも「わたしもそうかもしれないわ、病気にならずに若くて結婚したら、もう十回ぐらい別れたり、出たり入ったりして、いちばん初めのおむこさんの顔も忘れているかも知れないわ。浮気な男と結婚して、カッとなって夫殺しぐらいしていたんじゃない」と、まあ冗談を交えて答えたと。そのように『愛すること信ずること』というエッセイに書いておられました。
 私も、もし病気をしていなければ、キリストのもとに帰ってくることもなかったし、全く自分勝手なまま、今も文句や不平不満をつぶやきながら過ごしていただろうと思います。そうすると、この個所の前の所、20節にこう書かれていました。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」
 そうすると、今日の聖書箇所もまた、神さまに感謝をささげながら、キリストの御手に我が身をゆだねて歩んで行くことの尊さを思うことができます。


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