2023年7月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マラキ書3章16〜18
    エフェソの信徒への手紙5章21
●説教 「仕える恵み」

 
   20節 感謝
 
 本日もエフェソの信徒への手紙のみことばを通して恵みを分かち合いたいと思います。
 前回の個所で、20節についてほとんど触れませんでした。そこでは、19節で賛美を心から歌いなさいと述べられたあと、続けて「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」と書かれていました。
 いつも、あらゆることについて神に感謝するということは、すでに何度も教えられてきたことです。しかしあらためてこのようにパウロが何度もいろいろな手紙で書いているのを見ますと、やはりこのことがとても大切なことであるということが伝わってまいります。
 聖学院という学校はキリスト教主義学校の一つですが、そこから送られてきた学園誌を見ておりましたら、牧師でもあり女子聖学院中学高校長・院長を務た小倉義明先生とギタリストの村治佳織さんの対談が載っていました。村治佳織さんといえば有名なギタリストです。子どもの頃から数々のコンクールで優勝し、15歳でCDデビューを果たしたという方で、私もユーチューブで時々その演奏を耳にしておりました。とてもすばらしく、また情感のこもった演奏をされる方です。その村治さんは女子聖学院中学高校のご出身であるそうで、そのことは初めて知りましたが、当時の校長は小倉先生であったとのことです。その対談の中で、村治さんは次のようにおっしゃっていました。(『SEIG』61号、学校法人聖学院発行)
 "女子聖学院で身についたことのーつに、感謝の気持ちがあります。私はよく 「恵まれている」、 「感謝する」という言葉を使います。それは女子聖学院で、聖書や朝の礼拝を通してキリスト教の精神をシャワーのように浴びてきたからだと思っています。また母からも「感謝を大切にしなさい」 とよく言われていました。キリスト教精神と母の教えがうまく組み合わさって、今の私の一部を作っているのだと思います。信仰は別として、10代でキリスト教精神に触れ、6年間一つの教えを受けるというのは人生において非常に大事なことでした。"
 "またキリスト教教育ということで印象に残っているのは、大人がーつの信仰をもって頭を下げる姿です。校長先生は学校のトッブというイメージを持っていましたが、その校長である小倉先生でさえ頭を下げる存在があるのだと知り、驚きました。神様の前では学校の先生であっても一人の人間なのだと感じた場面でもありました。"
 「感謝」ということが自分の一部を作っているというのは、とても尊いことだなあと思いました。そして、その感謝というものが、神の前に頭を垂れることから来ていることが伝わっていることに、喜びを感じました。キリスト教主義学校はどこもキリスト教精神を守ることに苦労していますが、やはりその働きは尊いものがあると思いました。
 
   21節
 
 さて、今日は次の21節のみを取り上げました。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」
 この一節だけを取り上げましたのは、実はこの聖句はどこにかかるのか、ということと関係があるからです。この次の22節からは妻と夫に対する教えというものが書かれていて、その冒頭に、妻たちに対して夫に仕えるように言われているのですが、妻だけに言われているものではないと思います。夫についても言われていると考えるべきです。さらには、夫婦に対する教えのあとは、子どもと親に対する教え、そして次には奴隷と主人に対する教えと続いていますが、それらすべてにかかっていると見るべきでしょう。つまりこれたの琴のすべての見出しとなっているのが、今日取り上げる21節であります。
 さらに、最初に触れました前の箇所の20節からつながっています。私たちが手にしている聖書では、20節と21節の間が離れて別の話のようになっていますが、原文のギリシャ語の古い写本では、そのような段落はありません。20節から続けて書かれています。すなわち、19節の賛美の歌を心から歌いなさいという教え、そして20節のすべてのことについてイエス・キリストの名によって父である神に感謝しなさいという教えから続いているのです。ですから、これは律法ではありません。神さまに感謝して、仕えるということです。すなわち、イエス・キリストの信仰によって仕えるということです。
 
    仕えるということ
 
 そしてこの手紙はエフェソの教会に宛てて書かれた手紙ですから、教会の信徒に向かって「互いに仕え合いなさい」と命じていることになります。そして先ほど申し上げましたように、22節からは、妻と夫への教え、子と親への教え、奴隷と主人への教えと続きます。そのように、我々の日常生活の中に踏み込んでいきます。私たちの毎日の生活の、身近な関係について、仕えるということを教えているのです。
 そして、これも先ほど申し上げましたように、妻が夫に仕えるばかりではない。21節が全体の見出しとなっているわけですから、夫も妻に仕える。そして子が親に仕える。親も子に仕える。奴隷が主人に仕える。主人も奴隷に仕える。
 しかし、そのように、互いに仕え合うのなら、夫も妻も、子も親も、区別がなくなるのではないかと思われる方もいるかも知れません。みな同じになれということなのか?と。
 しかしこれはそうではなくて、妻は妻として夫に、夫は夫として妻に仕える。子は子として親に、親は親として子に仕える。奴隷は奴隷として主人に仕え、主人は主人として奴隷に仕える。そういうことです。立場は違うが、仕えるという点については同じであるのです。
 すなわちこれは、キリスト者としての姿勢が、仕えるということなのだと。そういうことを言っているのです。
 
   仕えるとはなにか?
 
 そうすると、「仕える」とはどういうことでしょうか?
 「従う」と訳している聖書もあります(新改訳聖書)。この「仕える」という言葉は、ギリシャ語ではもともと「下に置く」という意味の言葉から来ています。自分を下に置く。そうすると、これは自分を「低くする」ということと、ほぼ同じだと考えてよいでしょう。自分を低くするということは、イエスさまがしばしばおっしゃったことです。たとえば次のような聖句です。
(マタイ 18:4)「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
(マタイ 23:11〜12)「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 人間、だれでも人に仕えたくないものです。反対に、人に仕えられたいと思います。なぜなら、仕えるということは自分の意思に反することだからです。自分の意思を押し殺して、がまんするようなイメージがあります。そんなことはイヤだと思います。むしろ自分の思い通りにしたい。人を自分の思い通りに動かしたいと思う。
 しかしここで問題が発生します。それは、人を自分の思い通りにしようと思って、高ぶって命令したところで、人は自分の思うとおりにするものなのか?ということです。私には2歳の孫がいますけれども、2歳の子どもでも、こちらの思い通りになりません。むしろ親や私たちが振り回されます。明らかに、こちらが幼子に仕えています。しかしこの場合を考えると、仕えるということが、相手の言いなりになるというのとは、ちょっと違うことが分かります。なぜなら、幼子に仕えるのは、幼子がちゃんとした人間として成長するために仕えているからです。ですから幼子の言いなりになりません。
 たとえば、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちの足を洗われた「洗足」のできごとを見てみましょう。イエスさまは弟子たちの足を洗われました。人の足を洗うというのは奴隷のする仕事でした。ヨハネによる福音書13章12〜15節を見てみましょう。
 "さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。"
 ここで、足を洗うということが、仕えるということであることが分かります。そのように、イエスさまは弟子たちに仕えられました。それは弟子たちのいいなりになるためではなく、弟子たちが本当に神さまとイエスさまを信じるようになるためでした。そしてこの洗足は、十字架を指し示しています。イエスさまが、御自分をいけにえとして十字架上でささげられた。私たちを救うためにです。ここに仕えるということの極みがあります。
 
   キリストに対する畏れ
 
 21節をもう一度見ますと、「キリストに対する畏れをもって」という言葉がついています。「キリストへの畏れ」という言い方は、聖書ではほとんど使われていないようです。「神への畏れ」なら多く出てきます。本日のマラキ書3章16節にも出てきます。
 「神への畏れ」と言った場合、そこには多分に神の裁きへの恐れ、神の怒りへの恐れ、というものが現れています。日本語では「畏れ」と「恐れ」を区別して書きますが、原文のギリシャ語では区別はありません。両方同じ言葉になっています。神への「恐れ」ならば分かりますが、キリストへの「恐れ」となると、キリストは罪を赦す方ですから、やはり当てはまらないような気がする。特に、前の節の賛美と感謝からのつながりとしてどうなのでしょうか?
 
   恐るべき愛
 
  そこで、そのイエスさまが復活なさった時のことを、同じくヨハネによる福音書から見てみたいと思います。とくに、イエスさまが弟子のトマスの所に現れなさった時のことです。
(ヨハネ 20:26〜28)"さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。"
 イエスさまの手にあいた穴、十字架に釘で張りつけにされた時の釘の穴、そしてイエスさまの脇腹にあいた穴、それは十字架上でローマ兵から槍で刺された時にあいた穴‥‥。その手のひらにあいた穴は何のためか、その脇腹の槍のあとは何のためか。
 トマスはかつて、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と他の弟子たちに言いました。イエスさまと一緒に死のう、と。しかしいざとなると、そのトマスもイエスさまを見捨てて逃げて行ってしまいました。ですからイエスさまが十字架にかかった時、トマスはどんなにか自分を責め、また呪ったことでしょう。しかしイエスさまが復活された時、そのイエスさまは、トマスを裁くためではなく、赦すために、神のもとに招くために来てくださったのです。そのイエスさまに、トマスは、御自分の命を献げてまでも自分たちに仕えられる姿を見たでしょう。そこに真実の愛を見たことでしょう。このことから、愛とは、仕えることであることが分かります。
 トマスは思わずイエスさまに向かって言いました。「わたしの主、わたしの神よ!」‥‥そこに、聖なる畏れに震えるトマスの姿が見えませんか。恐るべきイエスさまの愛。そういう恐れです。そのトマスは、のちにインドまでキリストの福音を宣べ伝えるために伝道に行き、そこで殉教したと伝えられています。
 「互いに仕え合いなさい。」この言葉は、自分に従わせるために仕えるのではありません。その相手が、キリストを信じ、信仰に立ち続けることができるように仕えるのです。そして、私たち自身がキリストの奇跡と恵みを体験できるようになるためにです。


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