2023年7月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言3章1
    エフェソの信徒への手紙5章15〜20
●説教 「時を用いる」

 
   歩む
 
 本日も、エフェソの信徒への手紙から、神さまの恵みを分かち合いたいと思います。
 使徒パウロは、15節で「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と語っています。
 この「歩む」という言葉は、新約聖書の手紙の中では、エフェソの信徒への手紙で最も多く出てくる言葉です。「歩む」ということは、私たちの人生を歩む、歩くということにたとえているわけです。ほんとうは「人生を過ごす」とか「生きる」でもよいわけですが、「歩む」と言った場合は、人生の道のりというものを感じさせる言葉だと思います。
 歩むと言った時には、道を歩むわけですから、どこからどこへ向かって歩むのかということが問題となります。特に、どこに向かって歩んでいるのですか?ということになる。それに対して「分かりません」と言う人がいるでしょうか? 歩いているからには、どこか行く目的があって向かっているはずです。しかし人生においては「分かりません」という人が多くいるように思います。かつての私もそうでした。だからどこに向かっているかということはあまり考えませんでした。どこに向かっているのか分からない。つまり、行き先が不明。行き先が断崖絶壁なのか、奈落の底なのか、永遠の闇なのか‥‥。分からないということは、不安か恐怖かあきらめしかありません。
 しかしキリスト者にとっては、行き先が決まっているわけです。神の国です。神さま、イエスさまと顔と顔を合わせてお目にかかる。そこに向かっている。前回、8節に「光の子として歩みなさい」という言葉がありました。闇を照らす神の光に導かれて歩むことができる。
 私の両親が健在で、まだ静岡で暮らしていた時、様子を見るために車でよくそちらへ行きました。全部高速道路で行くと料金もかかるので、国道1号線で箱根を越えていきました。すると、箱根はときどき霧がかかります。時には深い霧がかかって、10メートル先も見えないようなことがありました。前が見えないというのは、本当に不安です。しかしそれでも車を運転することができるのは、ちゃんと道の上を走っているからです。そしてその道はたしかに静岡へ続いていることを知っているからです。つまり、周りは良く見えなくても、この道を行けば必ず着くことが分かっているのです。だから霧の中でも行くことができる。
 キリストの道を歩むということも同じです。時には深い霧の中を進んでいくようなこともある。しかしキリストに着いていくならば、キリストは私たちを導いて下さり、必ず目的地に連れて行って下さるということです。
 
   愚かと賢い
 
 15節には、「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と語られています。「愚かな者」「賢い者」とは、どのような人のことを言うのでしょうか?
 そこで、愚かな者と賢い者が登場するマタイによる福音書25章1〜15節の「十人のおとめのたとえ」を思い出します。これは、イエスさまのたとえ話です。10人のおとめがいて、そのうち5人は愚かで、5人は賢かったといいます。これはなんのたとえ話かというと、イスラエルでは、婚礼のときに、まず花婿が花嫁の家に行って前祝いをしたんですね。その時のことにたとえておられます。そのとき、ともし火を持って花婿を迎える役をするのが花嫁の友だちです。それが、この話では10人いました。ところが、花婿の到着が予定よりも遅れて、夜中になった。10人のおとめたちは、眠りこけていたのですが、花婿が到着したので起こされた。そのとき、賢い5人は予備の油を用意していたが、愚かな5人は用意していなかった。‥‥というたとえ話です。
 これは、世の終わりのキリストの再臨に備えていたか、いないか、ということについてイエスさまが話されたのです。賢い5人は備えていた。しかし愚かな5人は備えていなかった。すなわち、先ほどの「歩みなさい」の、目的地を見て歩みなさいということです。終わりを見すえて歩むのです。キリストの再臨によって現れる神の国を目指して歩みなさいというのです。
 
   時を用いる
 
 16節には「時をよく用いなさい」と書かれています。これは、ギリシャ語を直訳すると「時を買い戻しなさい」という意味になります。たいへんおもしろい表現です。
 私たちは、「時を買い戻せる者なら買い戻したい」と思うことがないでしょうか? 無駄に過ごした日々を、失敗を重ねた日々を、過ちを犯した日を取り戻すことができたらなあ、と。でもそれは無理です。
 しかしここでは、買い戻せるというのです。この「買い戻す」という言葉は、「贖う」という言葉でもあります。贖うというのは、奴隷として売られていった者を買い戻すという意味です。贖うと聞けば、それはキリストの贖いのことを述べずにはおれません。イエスさまが十字架にかかって私たちを買い戻された。それが十字架の贖いです。神のもとに買い戻された、取り戻されたのです。代価はイエスさまご自身の命です。それによって、神の子、光の子とされたのです。
 たしかに、失われたあの時間自体は戻ってこないが、主にあっては、主のもとに取り戻されたのです。それはまさに、買い戻したのと同じだということです。主のもとに取り戻されたのなら、失った時間を取り戻して余りあるのです。詩篇84編11節に、次のように書かれています。
 「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」
すばらしいですね。
 「今は悪い時代」と書かれています。悪いというのは、真の神を信じない世の中であるということです。そういう世の中を私たちは歩んでいる。ですから、すぐに影響されてしまいます。まわりと同じようにしていては、道を踏み外してしまうんです。ゆえに「主の御心が何であるかを悟りなさい」とパウロは語っています。
 
   御心を悟る
 
 主の御心を悟る。主の御心を知る。
 元ヤクザの組長であった吉田芳幸さんのことは以前もお話ししました。彼は、覚醒剤、拳銃の大元締めでした。そして結婚した奥さんが韓国人で、クリスチャンでした。しかし吉田さんは、それが気に入らなくて、3年間奥さんをいじめ抜いたそうです。ところが奥さんは屈しなかった。殴られても蹴られても、吉田さんがイエスさまを信じるように言い続け、祈り続けたそうです。すると、ヤクザの組の運営がだんだんうまくいかなくなったそうです。奥様の祈りを聞いて、神さまが介入されたんですね。何十億とあったお金がどんどん無くなって、借金がかさむようになってしまったそうです。それでようやく吉田さんは、奥さんと一緒に教会に通うようになった。しかしその時は、とにかくお金がほしいから教会に行ってお祈りしたのだそうです。それは奥さんの祈りがあんまりよく聞かれるのを見てきたからです。だから、「神さまお金下さい」と祈ったそうです。しかし祈っているうちに、だんだん清められたそうです。祈っているうちに「ああ、これは祈ったらあかんのやなあ」「ああ、これも祈ったらダメなんだなあ」ということが、どんどん分かってくる。つまり神さまの御心をそのようにして知っていったのです。そしてやがて回心してイエスさまを信じるに至ります。
 そのように、祈りを通して、あるいは聖書を通して、主が導いて下さるのです。主の御心を悟るようにして下さるのです。
 
   礼拝
 
 18節で「酒に酔いしれてはなりません」と述べています。これは、酒を飲んではならないという律法ではありません。
 私自身のことを思い出します。信仰を捨て、神を捨て、大学を卒業してサラリーマンになった私は、毎日飲んだくれていました。なぜそこまでして酒を飲むのでしょうか? お酒がおいしいからというわけではありません。満たされないからです。ストレスがたまるんです。だから酒を飲む。上司の悪口を言う。そうしてストレスを発散させる。もちろん、酒を飲んだところで問題はなにも解決しないことは分かっている。だから浴びるように飲む。私の場合は、喘息の発作が起きても飲み続け、ついには薬も効かなくなって救急車で病院に運ばれるに至ったわけですが。主の憐れみによって救われました。
 酒を飲む以外に、どうやってこの気持ちを紛らわすの?と思ったものですが、全く別の道がありました。それが生ける主と共に歩むという道です。
 18節後半からです。「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」‥‥これは教会であり、礼拝ですね。
 特にここでは主を賛美することが言われています。「主に向かって心からほめ歌いなさい」。そう言えば、むかし教会になんとなく通ってた頃は、心から讃美歌を歌ったことはあまりなかったな、と思いました。しかしキリストが生きておられることが分かってからは、讃美というものがとても大切なことが分かってきました。それこそが、わたしたちをストレスから解放してくれるのだということも分かっていきました。それは心から、味わって賛美を歌うことによって、主の前に出ることができるからです。詩篇100編にこのように書かれています。
 詩編 100:4「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」
 こうして賛美を歌いつつ、人生の道を歩んで行く。つらいことがあったら賛美を歌う、問題が起こったら賛美を歌う。そのような一週間でありたいと思います。


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