2023年7月2日 逗子教会・主日礼拝説教
●聖書 ミカ書7章8
    エフェソの信徒への手紙5章6〜14
●説教 「光の子」

 
   AI牧師の説教
 
 前回の説教で、映画「ミーガン」を見たことについてお話ししました。そして、AI(人工知能)を搭載した人間型ロボットが普及する時代が、もうすぐそこまで来ているということを申し上げました。また、すでに囲碁・将棋の世界では、AIが人間のトップ棋士の力を凌駕し、人間がAIに教わる時代になっているということも申し上げました。またすでに、ChatGPTなどのオープンAIが、学生のレポートや論文の作成、さらには就職活動などに使う人もいるとのことです。
 そうしましたら、ドイツのある教会で、AIが作成した説教をアバターの牧師が語るという礼拝が行われたというニュースが、インターネットで話題となりました。6月9日、ドイツ南東部バイエルン州フュルトにある聖パウロ教会でその礼拝は、実験として行われたそうです。そして300名以上の人々が集まったそうです。その説教は、ChatGPTで作成され、その説教をスクリーンに映し出されたアバターの牧師が語るという形式だったそうです。アバターというのは、ロボットではありませんが、コンピューターが作りだした人間の映像です。説教では「過去を捨て、現在の課題に集中し、死の恐怖を克服し、イエス・キリストへの信仰を失わない」といった内容を語ったそうです。
 礼拝に参加したある牧師は、「実はもっとひどいものを想像していましたが、こんなにうまくいくとは思いませんでした」と感想を語ったそうです。また、他のある出席者は、礼拝が始まった最初こそ興奮と好奇心を覚えたが、次第に不快に感じるようになったそうです。「そこには心も魂もない」と語り、「アバターからは感情が感じられず、話に身振り手振りを交えることもない。早口で一本調子に話すせいで、その内容に集中するのが難しかった」と感想を述べたそうです。
 しかしこれがさらに進歩して、アバター、もしくはヒト型ロボットの語り口や表情が豊かになり、知識はすでに人間を上回っているのですから、それで説教をするようになったらどうでしょう。「これは人間の牧師よりもよい話しをする」ということになったらどうか。もちろん、牧師は説教だけではないわけですが、他の多くの分野でAIが人間に取って代わると言われているように、教会の牧師もAIがとって代わるようになるのでしょうか?  あるいは、人間はAIの下請けをするようになるのでしょうか?
 それは「ノー」だというのが答だと思います。それは、教会がどうやって誕生し、また存在しているか、ということを考えてみれば分かることです。教会がどうやって誕生したか。それは使徒言行録の第2章が記しているように、聖霊によって誕生しました。聖霊がひとりひとりに与えられて、教会が誕生したのです。そのように聖霊は、人に住まわれるのです。
 聖霊は人に住まわれる。このことは神道とは決定的に違っています。神道では、「ご神体」というものがあるように、神の霊は高い山や木、あるいは物にも宿ります。しかし聖霊は物には宿りません。人間に宿ります。ですから、コンピューターが作成したアバターや、あるいは人間が作ったロボットには聖霊は宿りません。どんなもっともらしい、わかりやすい説教をしたとしても、アバターやロボットには聖霊が住んでおられないのです。
 また、たとえば牧師が建てられるときには、按手礼式という儀式が行われます。按手礼を受ける人には、先輩牧師たちの手が置かれ、そこで牧師に必要な聖霊の賜物が与えられることが祈られます。そうして、聖霊の賜物をいただいた牧師が立てられます。もちろんそれは、牧師が完全だという意味では全くありません。不十分な者、罪人である者を聖霊がお用いになるということです。そして聖霊の賜物、たとえば預言の賜物は神の言葉を語る賜物ですが、それはAIやロボットは人間ではないので与えられません。すなわち、ロボットが語る言葉は、神の言葉とならないのです。
 ただ今礼拝で読んでおりますエフェソの信徒への手紙は、教会がキリストの体であるという神秘を語っています。教会は単なる人間の集まりではない。キリストを信じた者が聖霊によって集められ、キリストの体を構成している。しかしAIやロボットは、聖霊を受けることができません。ですから、AIやロボットは人間の知的・身体的能力を超えることはできても教会を作ることはできません。神の働きを伝達するものとはならないのです。そんなことも、エフェソの信徒への手紙を学んでいて分かります。
 そう考えるとちょっと安心するかも知れませんが、要は、教会が与えられている恵みは神さまの特別な恵みであるということを、私たちはもっと知る必要があると思います。本日は、聖餐式があります。キリストのいのちにあずかります。これもまたAIやロボットには決して出来ないことです。AIやロボットは、生きておられるイエスさまに代わることは決してできないからです。
 
   神の怒り
 
 本日のエフェソ書5章の6節にこう書かれています。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。」
 神の怒りと言われると、神さまはお怒りになるのだと、なにか恐ろしい感じがいたします。神という存在に対する日本人の考え方も、昔とはだいぶ変わりました。昔は「さわらぬ神にたたりなし」という言葉があるように、神さまの怒りを招かないように生活するという考え方がありました。私の子どもの頃に、「大魔神」という映画が流行りました。大魔神は、ふだんはハニワのようなおだやかな顔をした石造なのですが、町を治めるお殿様が村人を苦しめると、顔が鬼のような恐ろしい形相に変わって歩き出し、悪代官や悪いお殿様を蹴散らすという痛快なストーリーでした。
 しかし現在では、たとえば「あの人は神だ」などという言い方があります。これは、その人がとてもすばらしく自分を助けてくれたような場合に使われたりします。このように「神」という存在が昔に比べてずいぶん優しくなった背景には、キリスト教の影響があると思いますが、聖書を読みますと、神さまはたしかにお怒りになることが分かります。また、人を裁くということもなさいます。それは旧約聖書だけではなくて、新約聖書にも表れています。ただ新約聖書では、神の裁きはイエスさまが受けて下さったのであり、それが十字架であるわけです。しかし神が怒られるということは確かにあるわけです。
 ではどうして神が怒られるかといえば、それは神が私たち人間に関心を持っておられるからです。たとえば、我が子が何をしても怒らないという親は、子どもを愛していないか、またはなにかの教育法に影響されているのでしょう。しかし我が子が間違ったことをすれば、悲しみ、怒るというのがふつうでしょう。
 このとき、ギリシャ神話の女神アルテミスの大神殿をいただくエフェソの町の人々が、不品行で卑猥な、そして貪欲な言葉を口にしていたのですが、それらのむなしい言葉に惑わされてはならないと、パウロは警告しています。ということは、キリストを信じて、教会の一員となった信徒の中にも、それらの偶像礼拝者といっしょになって遊んでいる人々がいたということになります。それで、キリストの体なる教会が揺らいだとも考えられます。しかしそうであってはならないとパウロは教えているのです。なぜなら、あなたがたは闇から光に移されたからだと言っています。
 
   光の子
 
 8節で「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と書かれています。そのままで光なのではありません。主に結ばれて、すなわちイエスさまに結ばれて光となっているというのです。電球がコードでつながっていれば光りますが、断線すると光が消えるようにです。
 私たちは、罪があるから闇の部分があります。しかしイエス・キリストによって救われて光となる。光であるイエスさまとつながって光となる。罪人であるにもかかわらず、光となる。
 光の役割は何でしょうか?‥‥光は他のものを照らします。そしてその光はイエスさまと結ばれることによって光る。すなわち、イエスさまというまことの光を証しすることになります。まことの光がある。それは神であり、イエス・キリストであるということを、私たちは証しすることができるのです。
 旧約聖書の出エジプト記34章を見ますと、モーセの顔が光を放っていたということが書かれています。神の掟、十戒をいただくためにモーセが神の山と呼ばれるシナイ山に登って神と親しく交わりました。そしてこう書かれています。
(出エジプト記 34章28〜30)モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。
 これは、モーセが神の近くに呼ばれ、神から親しく接していただいた結果、顔が光を放っていた。すなわち、神が光であることを証ししています。しかしモーセ自身は自分の顔が光を放っていることを知らなかった。
 そのように、私たちはキリストと結びついているときに、光の子として歩むことができる。神の子とされたということは、光の子とされたということです。
 
   光となる
 
 さらにエフェソ書の5章14節には、「明らかにされるものはみな、光となるのです」と書かれています。これはふしぎな言葉です。なぜなら、その前のところから読むと、口にするのも恥ずかしい暗闇の業を光にさらして明らかにするならば、みな光となると読めるからです。なぜ暗闇の業が、すなわち罪の業が光にさらされると光となるのか?
 私たちは、ここでザアカイのことを思い出したいと思います。ルカによる福音書19章です。イエスさまがエリコの町に入られたとき、そこにザアカイという徴税人がいました。徴税人とは、ユダヤを治めていたローマ帝国のための税金を集める人です。ローマ帝国は、ユダヤを占領支配しているのですから、ユダヤ人から見れば、徴税人はローマ帝国の手先であり、民族の裏切り者でした。それで嫌われていました。そしてザアカイは、徴税人のかしらで金持ちであったと書かれています。金持ちであったというのは、決められた以上に税金を取り立てて、差額を懐に入れたりというような仕方で、私腹を肥やしていたのでしょう。
 そのザアカイは、イエスさまがエリコの町に来られたと聞いて、どんな人が見ようとしました。しかし背が低く、しかも町の多くの人々がイエスさまを見ようと出てきていたため、その人々に遮られて見ることができませんでした。それでザアカイは、いちじく桑の木に登ってイエスさまを見ようとしました。するとそこを通りかかったイエスさまは、木の上のザアカイを見上げておっしゃいました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
 この予想外のおことばに、ザアカイはどんなに驚いたことでしょうか。そしてザアカイは、急いで降りてきて喜んでイエスさまを迎えました。これを見た人々は、「イエスさまは罪深い男のところに行って宿を取った」と陰口をたたきました。つまりイエスさまは、御自分の評判を落としてでも、ザアカイの客となられたのです。するとザアカイは立ち上がってイエスさまに言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
 それに対してイエスさまはおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
 この出来事は、イエスさまが光であることを力強く証ししていないでしょうか? イエスさまはザアカイに対して、「だまし取っていた税金を4倍にして返しなさい」などと言っておられません。なにもおっしゃっていません。しかしザアカイは、イエスさまがザアカイのところに客となって来てくださったので、自らそのように申し出たのです。すなわち、光であるイエスさまに照らされて、その闇も光となった。光であるイエスさまを証しするものとなったのです。
 私たちにも闇の部分があります。暗闇があります。しかしそれをイエスさまの前にさらけ出す。明らかにする。するとそれも光となる。これは本当に喜ばしいことであると思います。


[説教の見出しページに戻る]