2023年6月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記29章18
    エフェソの信徒への手紙5章1〜5
●説教 「それよりも感謝」

 
   神に倣う者となりなさい
 
 きょうのエフェソ書の箇所の1節に「神に倣う者となりなさい」と書かれています。神に倣う。ものすごくハードルが高く感じます。もちろん、ここで言う「神に倣う」というのは、神さまのように全能の力を持てるようになれと言っているのではありません。このあとに書かれていることからすると、その性質において、神に倣う者となれという話です。
 なぜ神に倣う必要があるのでしょうか? 聖書によれば、そもそも人間は罪人なのですから、どだい神さまに倣って神さまのような性質になろうとすることが無理なのではないでしょうか?
 なぜ神に倣う必要があるのか?‥‥1節をもう一度観ますと、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と書かれています。すなわち、あなたがたは神の子であるから、しかも神に愛されている神の子だから、神に倣う者となりなさいと言われているのです。
 私たちは自動的に神の子なのではありません。私たちはイエス・キリストによって神の子としていただいた者です。イエスさまを信じたことによって神の子としていただきました。だから神に倣う者となりなさいという。
 例えばおさなごを見てみましょう。幼い子どもは、まず親の言葉から言葉を学んで行きます。そして親のすることを見て、それをまねて成長していきます。日本人の子どもは、なぜ日本語を話せるようになるのでしょうか?‥‥それはまず親が日本語で話をしているから、自然にそれを身につけていくからです。同じ日本でも、神奈川で育てば神奈川弁、静岡で育てば静岡弁、大阪で育てば大阪弁を話すようになります。アメリカの子どもは、学校で英語を教えられなくても英語を話します。それは両親が英語を話し、また周りの人々が英語を話しているから、わざわざ習わなくても自然に英語が身につくからです。
 そのように、人間は親の影響を受けます。また、まわりの影響を受けます。自然に、親や周囲の人に倣っているわけです。言ってみれば、置かれた環境に影響を受けて育っていきます。
 
   映画「ミーガン」に見る人間の罪
 
 先週、「ミーガン」というアメリカ映画を見てきました。アメリカで大ヒットしたそうです。インターネットでこの映画の宣伝がよく出てくるので、気になって見に行きました。この映画は一応、ホラー映画と呼ばれるようですが、人間社会の近未来を予言しているような映画でした。
 この映画の主人公は、AI(人工知能)を搭載したロボットの人形です。ある少女が交通事故で両親を失ってしまった。それでこの少女は、おばに引き取られます。しかしおばは、仕事で忙しくて、少女にかまっていられない。それでおばは、自分の会社で開発中の人型ロボット人形を姪である少女に与えるのです。それがミーガンです。ミーガンは女の子の姿をしてて、言葉も女の子です。このミーガンが、少女の遊び相手となり、またしつけもするし、勉強も教える。さらに少女を危険から守るんです。少女はすっかりミーガンを気に入り、手放せなくなります。
 ミーガンの能力は人間以上です。AI搭載ですから、様々な知識や情報を得て進化していきます。人から得た知識、そして世界中のありとあらゆる知識をインターネットなどから収集して身につけていきます。そして身体機能も人間以上です。その腕力、運動能力も、可愛らしい見かけとは全然違ってパワーがある。その力をもって少女を守ろうとするのですが、それが暴走してとんでもないことになるのです。‥‥とまあ、これ以上詳しくお話ししますと、ストーリーをばらしてしまうことになりますので、ここまでといたします。
 しかし今わたしは「暴走」と言いましたが、これはロボットが勝手に暴走したとは言えないかも知れません。なぜなら、ミーガンは、先ほど申し上げたように、人間の知識を吸収し、人間社会のさまざまな情報を集めて成長していくからです。つまり、人間の考え方をまとめるとミーガンになると言うことができるからです。
 たしかに、この世には世界各地で戦争が起きています。人間の歴史は戦争の歴史とも言われます。また私たちの身の回りでも、様々な犯罪や争い、その原因となる憎しみや欲望で満ちています。その人間の心の内に隠されているものが、表に現れた時に、不都合な人を殺してもかまわないというミーガンに現れることになるのではないか。そう考えますと、AI人形ロボットであるミーガンの暴走は、人間の心の反映であると言えます。そういう意味では、この映画こそ真の「ホラー映画」かも知れないと思った次第です。
 ミーガンが、人間社会の情報や思考を集めた結果、とんでもないことに至るのと同じように、私たちも人間の中にいるだけでは、いつのまにか不幸に至るのではないか。私たちは、人間の中だけにいると同時に、神の中にいる必要があるのではないでしょうか。
 
   偶像崇拝
 
 3節〜5節に、避けるべきことが記されています。そして「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません」と述べられています。
 このように述べられている背景には、手紙の宛先であるエフェソの町の事情があると思われます。エフェソという町は、現在のトルコの国のエーゲ海に面した町です。天然の良港をもち、たいへん栄えた都市です。そしてこのエフェソの町の特徴と言えば、何といってもアルテミスという女神の神殿が建っていたことです。アルテミス神殿とは、「世界の七不思議」と言われる建築物の一つです。「世界の七不思議」とは、古代世界の壮麗な建築物を指す言葉で、一体どうやって建てたのか?と思われるほどの建築物のことです。
 アルテミス神殿は、幅66メートル、長さ127.5メートル、高さ18メートルという巨大なもので、総大理石の美しい建築物であったようです。そこに豊穣多産の女神であるアルテミスが祀(まつ)られていました。またこの神殿は、逃げて来た者は処罰されないという場所であったとのことです。それで、逃れてきた多くの犯罪者がエフェソに住むようになったそうです。またそこは迷信の中心地でもありました。呪文の書かれた「エフェソのお守り札」は有名だったそうです。それで呪術師がおおぜいいました。そしてまた、エフェソは周辺の地域から遊ぶために多くの人が集う歓楽地でもあったそうです。そういうことで、エフェソには不道徳なことがあふれていたようです。
 使徒言行録19章には、パウロがエフェソで伝道した時の記録があります。そのとき、パウロがイエスさまのことを伝道し、神さまもまたパウロを通して多くの奇跡をなさり、その結果、多くの人がイエス・キリストを信じるようになりました。そして多くの魔術師(呪術師)が回心して、その書物を焼き捨てました。そういうことで、アルテミスの神棚を買う人が減りました。それでアルテミスの神棚を作っていた職人たちが暴動を起こしました。そういう迫害が起きました。
 そういう中でエフェソの教会は誕生しました。ですから、エフェソの教会の信徒のまわりは、偶像礼拝、魔術・呪術、そしていかがわしい習慣や不品行が満ちていました。そういうことが、このパウロの言葉の背景にあるということができます。
 
   愛によって歩みなさい
 
 パウロは2節で、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と語ります。
 「愛によって歩みなさい」は「愛の中を歩みなさい」と訳すことができます。その愛とはなんでしょうか?‥‥ここではキリストの愛です。先ほど述べましたように、この世の中を生きていますと、この世の中の考えになっていきます。しかし、キリストに現れた神の愛の中を生きて行くと、神の愛がだんだん身についていく。そういうことです。
 その愛とは具体的には、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように」と述べられています。キリスト・イエスさまが私たちのためにいけにえとなって下さったと。
 そこで今日の旧約聖書は、出エジプト記29章18節を読んでいただきました。旧約聖書の時代は、神さまを礼拝する時、羊などの動物をいけにえとして祭壇で焼きました。そうして神さまに罪を赦してもらったのです。イエスさまは、その羊のようになって、十字架にかかって、私たちを救ういけにえとなった下さった。神さまに対する香りの良いいけにえとなって下さった。御自分をささげられたのです。
 このことは教会では聖餐式で表れています。聖餐式で配られるパンと杯は、キリストの体と命です。私は聖餐にあずかるたびに、イエスさまが私に向かって「さあ、私の命を受け取れ。受け取って生きる者となりなさい」とおっしゃっているように思えるのです。キリストの愛です。命がけの愛です。
 この愛の中で生きなさいということです。そうして神の愛を知っていく。そうして聖霊が少しずつ私たちを変えて行ってくださる。それが神の愛の中での成長です。ミーガンとは別の成長です。
 
   口にする言葉
 
 それにしても、3〜4節を見ますと、そこは私たちが口にする言葉について述べていることは注目すべきことです。みだらなことやいろいろの汚れたこと、貪欲なこと、卑猥な言葉や愚かな言葉、下品な冗談を口にしないように教えています。そして逆に、感謝、すなわち神さまに対する感謝を口にするようにと。感謝は賛美ですから、神さまへの感謝、賛美の言葉を口にしなさいと教えています。
 これは前にも申し上げましたが、私たちは自分が口にする言葉に影響されるからです。ですから何を口にするかと言うことはたいへん重要です。この世の悪い言葉を聞いて、それと同じような言葉を口にしていると、本当に悪くなる。反対に、信仰の言葉を口にしていると、次第にそのようになっていく。
 ある本を読んでいましたら、コシノジュンコさんの言葉が載っていました。コシノジュンコさんといえば、日本が生んだ世界的なデザイナーですね。彼女自身はクリスチャンではないようですが、彼女のお母さんはクリスチャンだったようです。そのお母さんは2006年に93歳で亡くなったそうですが、亡くなる1か月ほど前に雑誌のインタビューを受けていたそうです。コシノさんがその雑誌を買って頁を開いてみたら、タイトルが「娘への遺言」となっていたそうです。そして聖書の言葉である「与うるは受くるより幸いなり」の言葉を「みなにしてあげたほうが、もらうよりよっぽどええで」とすごい関西弁で語っていたのだそうです。そして掲載された写真にはニコニコ顔のお母さんの写真が写っていた。
 「与うるは受くるより幸いなり」は文語ですが、聖書では使徒言行録20章35節に、イエスさまが言われた言葉として記録されています。コシノさんはこの言葉を、人にしてあげることは、遠く回って結局は自分のためになるということだと受け取って、実際その通りになったということが書かれていました。
 私たちの新共同訳聖書の言葉では『受けるよりは与える方が幸いである』となっています。これは福音書には記録されていないけれども、パウロが伝え聞いたイエスさまの言葉です。そしてこの言葉は、イエスさまのご生涯そのものを表していると言えます。そしてイエスさまは、この私たちにも、御自分の命と多くのものを与えてくださっている。そのイエスさまはまさに幸いなお方そのものであるに違いありません。
 私たちもその幸いの中を生きる者でありたいと思います。


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