2023年6月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書43章24
    エフェソの信徒への手紙4章30〜32
●説教 「悲しむ存在」

 
  聖霊の悲しみ
 
 「神の聖霊を悲しませてはなりません」と30節に書かれています。聖霊は三位一体の神ですから「聖霊を悲しませてはなりません」と言えばよく、わざわざ「神の聖霊」とくどい言い方をしなくてよさそうなものですが、「神の」とあえて付けて言っているということは、やはり強調しているのでしょう。つまり、聖霊を悲しませることは、父なる神を悲しませることであり、また子なる神イエスさまを悲しませることなのだと。そのように強調しているのだと思います。
 聖霊が悲しむ。悲しむと言うことは人格を持っているということになります。ですから、聖霊が三位一体の神を構成する神であることが、よく分かります。
 悲しむということは、心を寄せているから悲しむのだと思います。たとえば、肉親が亡くなったり、親しい人が亡くなったりしたときに、たいへん悲しみます。しかし、葬儀場の前を通りかかって誰かの葬式をしていたとしても、「葬式をしているなあ」と思うだけで、悲しむということはありません。しかし、肉親や親しい人が亡くなれば悲しみます。それは心を寄せているからです。
 そんなことを思いますと、果たして自分が亡くなった時に、悲しんでくれる人はいるだろうかと思います。確かに亡くなった時には悲しんでくれる人はいるかも知れません。しかし、自分が過ちを犯したり、悪い考えを持ったようなときに、悲しんでくれる人はいるでしょうか。
 母の日の時によく歌います讃美歌510番を思い出します。「幻の影を追いて」の讃美歌です。その折り返しの部分の歌詞は次のようになっています。
 "春は軒の雨、秋は庭の露
  母は涙乾く間なく、祈ると知らずや"
我が子が神を忘れてこの世の快楽ばかりを追い求めて生きている。その我が子が、再び神のもとに帰ってくることを願って、涙が乾く間もないほどに祈っていることを、我が子は知らないのだろうか‥‥。この涙は愛の涙です。我が子に心を寄せているからこその悲しみであり、涙です。
 本日の聖書の、神の聖霊の悲しみは、言わばそのような悲しみです。私たちのことを心配して下さっている。それゆえに、私たちが神の御心に反する道に行く時、悲しまれるのです。
 
   なにを悲しまれるか
 
 では、聖霊は私たちの何について悲しまれるのでしょうか?
 前回の25節からの所を読むと、わかってきます。そこには、日が暮れるまで怒ったままでいること、盗みを働くこと、悪い言葉を口にすることが挙げられています。もちろん、これらは一例でしょう。「じゃあ殺人や、人を傷つけることはよいのか?」と言っても始まりません。そこに挙げられていることは、おそらくエフェソの教会に集う人々に目立っていることであったと思います。「盗み」についても、前回も触れたように、ここでは法律に触れるような盗みではなくて、世間では盗みに該当しないようなことを言っていると思われます。
 しかし、世間では当たり前のようになされていることが、神さまの基準で言うと、良くないこととなる。少なくとも、キリストによって救われてキリストを信じた者にとっては、神さまの御心を歩んでほしいと。そういう神さまの思いが反映しています。
 また、今日の聖書箇所で言えば、31節に書かれていることですが、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど、そしていっさいの悪意、ということが言われています。これは最後に「いっさいの悪意」という言葉に表れていますが、いずれも相手のあることです。相手に対して無慈悲である、そして憤り怒る、わめく、そしる‥‥そのように、相手に対する悪意から出て来ることです。そのようなことが聖霊を悲しませるということです。それは神さまの祝福をうけません。
 
   聖霊の思い
 
 そのように聖霊なる神さまが悲しまれるとしたら、なぜなのでしょうか。そのことを理解するためには、聖霊が私たちに対してどのように心を砕いていて下さっているかということを知らなければならないでしょう。
 30節の「神の聖霊を悲しませてはいけません。」の続きにこう書かれています。「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」
 「贖いの日」というのは、世の終わりの日でありキリスト再臨の日、最後の審判の日のことです。聖霊は、そのときのために保証して下さっているというのです。もう少し分かりやすく言えば、聖霊が保証人となって下さっているということでしょう。
 保証人というのは、ご存じの方も多いと思いますが、法律的には当の本人と同じ立場になる者です。例えば多額の借金をするというような時、保証人が必要となります。そして、もし本人が借金を返すことができなくなった場合、保証人が代わりに支払わなくてはなりません。ですから、保証人は、本人がちゃんと借金を返すことができるようにサポートすることも必要となります。
 聖霊は終わりの日のために、つまり最後の審判の時のために、私たちの保証人となって下さる。この場合は、借金の保証人というような法的な意味ではありません。私たちが終わりの時を迎えるために、必要な助けを与えて導いて下さるということです。もちろん、私たちを導かれるのはイエスさまですが、細かく言うと、イエスさまは天国の父なる神さまの隣に今はおられます。そして私たちのところには聖霊なる神さまがおられます。三位一体ですから、聖霊なる神さまが私たちと共におられるということは、イエスさまが私たちと共におられるということになります。しかし実際には、聖霊が私たちと共におられる。
 私たちの内側に働きかけられ、私たちを変え、成長させ、助けを与えてくださる。私たちが成長するようにです。キリストに似たものとなるようにです。このキリストと似ても似つかない私たちが、似た者となるように変えて行ってくださる。そのように助けて下さる。
 ローマの信徒への手紙8章26節にこう書かれています。
(ローマ8:26)「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」
 そのように、聖霊は私たちのために父なる神にとりなして祈ってくださる。そのようにして私たちのために働いてくださる。それなのに、その聖霊を悲しませてはならないと、パウロは述べているのです。
 
   背負ってくださる神
 
 現在、水曜日の聖書を学び祈る会では、旧約聖書のイザヤ書を学んでいます。本日のもう一つの聖書箇所として、イザヤ書43章2節を読んでいただきました。そこでは、「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」と書かれていました。これは預言ですから、ここで「わたし」というのは神さまのことです。そして私たちにとっては、具体的には聖霊なる神さまです。そこでは、どんな困難や危機の時でも、神は共にいて下さると言われています。
 また、先週の聖書を学び祈る会では、イザヤ書46章を学びました。その3節4節には次のように書かれていました。
 「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
 神さまが、私たちを白髪になるまで背負って行こうとおっしゃっておられます。
 私たちも、母の背中におんぶされていた時があったに違いありません。今はどうしてか知りませんが、おんぶではなく抱っこひもが流行っているようですが。私も母の背中におんぶされていた乳幼児の時代があったに違いありません。全然記憶にありませんが、記憶になくてもそうだったはずです。そして子どもの頃は、なんでも親がしてくれました。責任あることはすべて親がしてくれた。
 しかしおとなになると、責任を負うようになります。働いて生活の糧を得なければならないし、なにか問題が起きても自分で解決しなければなりません。おさなごの頃は親に背負ってもらっていたのが、自分で背負わなければなりません。そしてその背負っている荷物が重くのしかかってきて、つぶれそうになることがあります。
 このイザヤ書46章は、具体的には当時のイスラエルの民に対して主が言われた言葉です。神さまに守られ、運ばれ、助けられて歩んできたイスラエルの民が、神に背いて歩んで行った。その結果、国が滅び、バビロン捕囚という悲惨な結果を招いてしまった。しかし、神さまはイスラエルを見捨てたわけではないというのです。悔い改めて、もう一度神の所に立ち帰るようにと招いておられる。
 これは私自身の人生が重なります。幼い時に、神さまによって命を助けられ、守られて生きてきたのに、やがて神を捨ててしまった。まさに聖霊なる神さまを悲しませることとなった。しかし神さまは私を見捨てられなかった。再び捕らえて下さった。
 主は私たちに対しておっしゃいます。
 「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
 主が私たちという重荷を背負って下さる。聖霊なる神さまが、私たちと共に歩まれ、私たちを背負って下さる。そういう聖霊なる神さまです。
 
   聖霊が喜ばれること
 
 聖霊が悲しまれるのではなく、逆に喜ばれることは何でしょうか。今日の箇所で言えば、32節になります。
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」
 竹森満佐一先生は、聖霊は喜びの霊であると本に書いておられます。たとえば、ローマの信徒への手紙14章17節には、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と書かれています。また、ガラテヤの信徒への手紙5章22節には、聖霊の結ぶ実について書かれていて、その中に「喜び」があります。また使徒言行録13章25節には、「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」と書かれています。
 そのように、聖霊の賜物は喜びであることが分かります。それはたしかに、この世の快楽によるような喜びではないかもしれません。しかしそれはイエスさまが常に持っておられた喜びです。おさなごが、母の背中におんぶされて、平安を得ていたような喜びです。そして、神の恵みに満たされる喜びです。


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