2023年6月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言4章23〜24
    エフェソの信徒への手紙4章25〜29
●説教 「隣人という存在」

 
   神を見る
 
 本日のエフェソ書の聖書箇所は、一見、道徳の言葉に聞こえます。ここで語られていることは、いつまでも怒るな、盗むなであり、悪い言葉を口にするな。いずれも、そのままでも多くの人が「そうだな」と思うことです。しかしいずれも、実際にその通り行おうとするとむずかしい事柄だと思います。
 しかし「盗んではいけません」ということはむずかしいことではないし、そもそも自分は盗むなんてことをしたことがないと思えます。逆に、そんなことを言わなければならないほど、エフェソの町の人々は盗みを働く人が多かったのだろうかと、不審に思います。
 もしかしたら本当に、平気で盗むことをする人たちがいたのかも知れません。しかし、たとえば、三浦綾子さんがどこかのエッセイで書いておられたことですが、三浦綾子さんが、届いた郵便の切手の中に消印の押してないものがあったので、それをはがしてもう一度使おうとしたところ、夫の光世さんが「それは一度使われたものだから、消印が押してなくても使ってはいけない」と言ったそうです。それを聞いて綾子さんはハッとさせられた、というようなことをどこかに書いておられたのを思い出します。そんなようなことも考えて、パウロは語っているのかもしれません。
 三浦光世さんのような考え方は、人間を見ているのではなく、神さまを見ているのです。誰も見ていないと思っても、神さまが見ている。また神さまのほうを見ている。
 神さまのほうを見ていると言っても、神の怒りを恐れているということではないかもしれません。今日は読みませんでしたが、次の箇所の30節を見ますと、そこには「神の聖霊を悲しませてはいけません」と書かれています。神を悲しませる。たとえば、親に怒られたということよりも、自分のことで親が悲しんでいる姿を見たほうが、身に染みるのと同じです。
 
   用いられる
 
 28節の後半では、「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」と教えられています。
 盗むということは、自分の損得だけを考えていたという生き方です。それに対して、ここでは、困っている人たちを助けることができるように正当な収入を得なさいと言われています。これは生きる意味の転換です。しかもコペルニクス的転換です。自分の得になるようにということを考えてきた歩みから、困っている人たちを助けることを考えて生きる。
 これは言い換えれば、私という人間も、自分のことで精いっぱいのような私という人間も、隣人の役に立てるように神さまが用いて下さるということです。「あなたは必要だ」と神さまが言ってくださる。働いて正当な収入を得るということだけに限りません。働くことのできない人でも、どんな人でも、神さまはなにかのご用のために用いてくださる。「生きている」のではなく「生かされている」のです。それは、神さまが与えた役割がそれぞれの人にあるということです。これが信仰による、ものの見方の大転換です。
 
 
   隣人との関係
 
 さて、前の段落の箇所から、キリストの体なる教会に加えられた者としての生き方が語られ始めました。キリストを信じ、キリストの中に生きる者として、異邦人(神を信じない人)と同じような歩みであってはならないと言われていました。そして、古い人、すなわち古い自分を脱ぎ捨て、新しい人を着ると言うことが言われていました。
 新しい人を着るというのは、すなわちキリストを着るということです。古い服を脱げば、裸になります。この場合の裸になるというのは、自分自身の裸の姿、すなわち罪の姿が明らかになるということです。罪人である自分に気がつくんです。そしてその罪人である自分を受け入れてくださるキリストがおられる。そのキリストを着る。それが新しい人を着るということです。それはすなわち、キリストの恵みの中を生きるということでもあります。
 そして今日の25節に続きます。25節冒頭は、「だから」という言葉で続いています。この私のような罪人を愛し、受け入れ、その中に生きるようにしてくださったキリスト。それは新しい人を来たということです。「だから」そのキリストの愛に応えよう。そういうことです。
 「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」真実を語るということについては、ウソ偽りではなく、また人をだますような言葉ではなく、誠意をもって語るという、普通に考えられる意味があります。そしてもう一つは、ここでは「真実」という言葉が、ギリシャ語の「真理」をあらわす言葉になっています。新約聖書で「真理」と言った場合、それはイエス・キリストのことを指します。そうするとここでは、キリストを語るという意味にもとれます。キリストを語ることのできる喜びです。イエスさまのことを語り合う、そして証しを語り合う。キリストが生きておられる証しを語り合う。その恵みを分かち合うことができる。それが教会の喜びの一つです。「私たちは互いに体の一部なのです」と書かれています。これは、私たちが、キリストの体なる教会の一部であるということです。
 しかし、今日の箇所でいわれている「隣人」とは、教会の中だけの話ではありません。なぜなら、新約聖書では、世界が教会になることを見ているからです。そして天国を見ています。天国は、それ自体が教会だと言えます。なぜなら、天国は神さまとイエスさまと直接お目にかかって、天使たちと共に大礼拝がなされている所だからです。
 「隣人」という言葉は新約聖書でよく聞く言葉ですが、それは新しい人を着ることによって、すなわちキリストを信じることによって、隣人という存在が生じると言うことができます。
 
   怒りについて
 
 26節では、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と語られています。
 怒りそのものが悪いというのではありません。怒りにもいろいろな種類があります。イエスさまも怒られたことがあります。例えばマルコによる福音書10章ですが、人々がおさなごをイエスさまのところに連れて来た時のことです。弟子たちは、幼子を連れて来た親たちを叱りました。するとイエスさまはその弟子たちに対して憤られました。そしておっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」この怒りは、弟子たちの誤りを指摘する怒りでした。
 私たちはいろいろなことで怒ります。失礼なことをされて怒るという場合が多いでしょう。あるいは、自分の思い通りにならなくて怒る。または、社会問題、政治問題に関して怒るということもあります。いずれにしても「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」といわれる。
 自分のことを振り返ってみたいのです。怒りというものは、自分が正しいという前提に立っています。自分は正しい。相手が悪い。それが高じて、自分は絶対に正しく、相手が絶対に間違っているということになり、自分の正当性を譲らなくなる。かたくなになるんです。27節に「悪魔にすきを与えてはなりません」とありますが、悪魔はそういうかたくなさにつけいるわけです。あおる。そうして道を外れさせる。
 ではどうしたら、「日が暮れるまで怒ったままで」いなくてもすむことができるのでしょうか? 怒りのあまり、夜も眠れないというようなことにならないためには?
 私自身の経験では、寝床で心を主に向ける、主に祈るということです。ふとんに入った時には、もう日が暮れているわけですが、この言葉は、夜寝る前にと受け取っても良いでしょう。そうすると、寝る時には皆さんもお祈りをすると思いますが、私もお祈りをします。また、ふとんに入ったまま神さまのことを考えたりします。そうすると、怒りが収まっていくんですね。怒りの収まらない時は、神さまにそのことを訴える。そうすると怒りが静められていきます。そして、神さまがきっと解決してくださるから、神さまにお任せしようという思いにさせられていきます。これは本当に感謝なことです。
 
   人を造り上げるのに役立つ言葉
 
 28節の「盗み」については最初に触れました。29節では、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と語られています。
 「悪い言葉」とはなんでしょうか?‥‥それは聖書で言えば、愛のない言葉です。しかし振り返ってみると、なんと多くの愛のない言葉を語っているかと反省させられます。しかしこれは言葉だけの問題ではありません。イエスさまはおっしゃいました。
(マタイ 7:17)「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」
 木が悪いから、悪い実を結ぶ。つまり、心が悪いから、悪い言葉が出て来るということです。ですから、言葉に気をつければいいという話ではない。むしろ、自分自身の心をキリストへ向けるように促しているのです。
 また、「人を造り上げる」とはどういうことでしょうか? それは、その人が主の御心にかなう人となるように、ということでしょう。
 私の若き日、まだ静岡で信仰に入ったばかりの頃のことです。私に大きな影響を与えたアメリカ人の宣教師、ボストロム先生のことは前にも申し上げました。そのボストロム先生が、ある時に「手は愛するためにある」とおっしゃったのです。「手は愛するためにある」‥‥その一言は、私に大きなインパクトを与えました。私は思いました。自分の手は、愛するために使われているだろうか?と。全然使われていないなと。神さまは人間の手を、愛するという目的のために造られた。それは聖書に書かれている言葉ではありません。しかし、聖書から言える言葉であることは確かです。
 私にインパクトを与えたその言葉は、ボストロム先生が、たまたま良い言葉をおっしゃったというのではないと思います。先生がいつも主を信頼し、主を賛美して歩んでおられた。そこから自然に出てきた言葉であると思っています。「良い木は良い実を結ぶ」。良い木にしていただきたいと、主に願う思いが大切です。
 
   言葉は人を変える
 
 29節では、25節と共に、言葉について記されています。聖書では、言葉というのは大切です。そして言葉には力があります。神さまは言葉によって、天地万物をお作りになりました。これは言葉というものには力があるということです。
 ヤコブの手紙に次のように書かれています。(ヤコブ 3:2〜3)"言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。"
 どんな言葉を語るかによって、自分自身が作り上げられていくという側面があるということです。すなわち、私たちが、信仰の言葉を口にしていくならば、そのようになっていくという面があるということです。ですから私たちは、絶望的な状況に追い込まれても、聖書にある希望の言葉を口にする。たとえば「人にはできないことも神にはできる」(ルカ18:27)というような言葉を口にする。ほかにも、イエスさまの約束の言葉を口にするのが良いのです。「感謝します」「賛美します」「あなたを信じます」と口にする。すると言葉に力があることが分かってきます。


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