2023年6月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書4章24
    エフェソの信徒への手紙4章17〜24
●説教 「古い人新しい人」

 
   信仰者の歩み
 
 今日は、またエフェソの信徒への手紙から恵みを分かち合いたいと思います。前回までの所では、教会とはどういうものであるかということが語られていました。私たちがキリストによって救われ、そしてキリストの体なる教会に加えられた恵みが語られていました。そして、ここからは信仰者の歩み、すなわち生活について語られます。すなわち、キリスト者にはキリスト者としてのふさわしい生き方があるということです。
 17節冒頭で、パウロはこのように述べています。「そこで、わたしは主によって強く勧めます」。‥‥「勧める」と言っています。「しなければならない」と命じているのではありません。つまり戒律、律法として言っているのではない。そこが旧約聖書とは違うところです。旧約聖書の律法では、「○○しなければならない」という規則でした。そしてその規則に反すれば、罰を受けることになっていました。
 しかしここでパウロは規則を言っているのではありません。しかし、だからといって、キリスト者は何をしてもよいと言っているのでもない。それが「強く勧めます」という言葉になっているわけです。パウロは、コリントの信徒への第一の手紙10章23節で次のように述べています。
(Tコリント 10:23)「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。」
 キリスト者は律法主義ではありませんから、すべてのことは許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない。だから益になることをしなさい、という勧めです。
 私たちのどんな罪も悔い改めれば赦されるというのは、キリストの十字架のおかげです。イエス・キリストは、私たちのすべての罪を赦すために十字架に架かられたからです。しかし、だからといって、あえて罪を犯すというのはどうでしょうか?「どうせ悔い改めれば赦されるんだから」と言ってあえて罪を重ねる。それはどうでしょうか?それは悔い改めたと言えるのでしょうか?‥‥それはキリストの愛を踏みにじることに違いありません。
 イエスさまが、私たちの罪を担い、あがなうために、十字架にかかって命を投げ打たれたことを忘れることになります。その愛を知ったら、愛に応えようとして生きるのがふつうでしょう。ですからパウロが「強く勧めます」というのは、「だからこうあってほしい」という強い願いです。
 先ほど引用したコリントの信徒への手紙一10章23節の後半から24節にはこう書かれています。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」 ここで「利益」というのはお金のことではありません。他人のためになるようにしなさいということです。
 
   異邦人の歩み
 
 エフェソ書に戻りますが、17節で続いてパウロは「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」と語ります。
 「異邦人」というのは、神を信じない人、つまり聖書の証しする真の神さまを信じない人のことです。「彼らは愚かな考えに従って歩み」とあります。「愚かな」という言葉は、ギリシャ語では「空虚」とか「むなしい」という意味があります。すなわち、何か意味があるわけではない。むなしいんです。神がいなくて、自分中心なんです。
 18節に「心のかたくなさ」という言葉があります。「かたくな」というのは、石のようになることを言います。固くて受け入れないんです。神に対してかたくなで、神を受け入れない。すなわち、神さまの働きが見えない。それは、あの出エジプト記のエジプトの王ファラオのようです。ファラオは、モーセを通してなされた10の奇跡を見ても、つまり10の災いでひどい目に遭っても、ついに神さまを信じることができませんでした。神さまの奇跡を見ても、神さまを認めようとしなかった。それが「かたくな」です。受け入れない。
 その結果、「神の命から遠く離れている」ということになる。すなわち、神を求めようとしない、救いを求めようとしない。そして19節に至ります。「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」 もはや自分の好き勝手なように、自分の欲望のままに生きるということです。誰の言うことも聞かない。
 断っておかなければならないのは、これら異邦人のことを言っているのは、決して上から目線で異邦人を批判しているのではないということです。私はこれらの記述を読むと、自分が神を捨てた頃のことを思い出します。自分もそうだったと思う。
 パウロもそうだったのではないでしょうか。そう申しますと、パウロはキリスト者になる前は、熱心なユダヤ教徒だったではないか、と思われるかも知れません。なるほど、確かにパウロはユダヤ人であり、しかも旧約聖書の律法、ファリサイ派のおきてを忠実に守る人でした。そういう意味では異邦人ではないかもしれません。しかしそれら熱心になっていたのは、実は神さまのためではなく、自分のためでしかなかったのです。それで、キリスト教会を迫害していたのです。神の御子の教会を迫害していたのです。ですから、神に対して「かたくな」であったことには変わりがありません。
 
   キリストを学ぶ
 
 さて、そのような異邦人の生き方に対して、キリストを信じる者はどうなのか。20節でこのように述べられています。
「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」
ここで、キリスト「を」学ぶといわれていることに注目しましょう。キリスト「について」学ぶ、というのではなく、「キリストを」学ぶと言われています。「キリストを学ぶ」と言いますと、「神を学ぶ」みたいで、なにかちょっとおかしい言い方のように聞こえます。しかしここにやはり意味があると思います。「キリストを学ぶ」というのは「キリストを知る」という言い方に近いと思います。「キリストについて知る」というと、本や辞書で調べて客観的にキリストについて知る、ということになりますが、「キリストを知る」というと、キリストとお付き合いをしてみてその人柄や性質について知る、という感じになります。それと同じように、「キリストを学ぶ」と言った場合は、キリストを信じてみて分かる、ということになるかと思います。
 それは続く21節をみると分かります。「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」と書かれている。「キリストについて聞く」というのが、キリストについて教わって知識として知るということになります。そして「キリストに結ばれて教えられ」というのは、キリストを信じてお付き合いをしてみて知るということになります。そして「真理」がイエスさまの中にあることが分かるに至る。
 ここで「イエス」と言われています。それまでパウロは「キリスト」「キリスト」という言葉を使っていて、ここでは急に「イエス」と言っています。同じことなんですが、キリストは称号であり、イエスは名前ですから、「イエス」と言った場合は、人の子として来られたイエスさまという個人的な親しみを感じます。そのイエスさまを見なさいということです。
 
   古い人を脱いで新しい人を着る
 
 さて、そのようにキリストを学んだ結果として、三つのことが起きると語っています。すなわち、古い人を脱ぎ捨てる、そして心の底から新たにされる、そして新しい人を着る、ということです。
 古い人というのは、古い自分ということですが、その中で「情欲に迷わされ」とあります。そういう古い自分。この「情欲」という言葉は、情欲という意味と共に、もう少し広い意味で「欲望」全般をあらわす言葉でもあります。ですから、神の言葉に耳を貸すことなく、自分のしたいようにするということです。
 新しい人を着る、つまり新しい自分になるためには、古い人を脱ぎ捨てなければなりません。ここでは衣服にたとえられています。古い服を脱ぐには、裸にならなければなりません。裸になると、ありのままの自分が現れます。ありのままの自分というのは、罪人である自分です。
 例えばペトロ。ペトロは12使徒の一人ですが、イエスさまが逮捕された時、イエスさまのことを知らないと言って見捨てました。そしてそのあと泣きました。ありのままの自分の姿を知ったんです。裸になった自分を知った。罪人であり、一人の弱い人間に過ぎない自分の本当の姿を知ったんです。しかし復活されたイエスさまは、そのペトロの所に近づいて来てくださいました。ありのまま、罪人の自分を受け入れてくださるイエスさまを知ったのです。そのキリストを着る。それが新しい人を着るということです。
 ですから、キリストを信じるということは、今までの自分にプラス・アルファをすることではありません。プラス・アルファというと、古い自分のまま、新しい服を着るようなことになります。古い服の上に新しい服を着る人がいるでしょうか? 古いスーツの上に、新しいスーツを着る人がいるでしょうか?‥‥そんなことをしたら、動きにくいし、こっけいです。「まず古い服を脱ぎなさい」と言いたくなります。
 イエスさまはおっしゃいました。(マタイ9:17)「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。」
 古い自分を脱ぐ。すると罪人である自分に気づく。そのありのままの姿でキリストの前に立つ。キリストは受け入れてくださるのです。そして新しい人を着る。すなわち、キリストによって新しくされていくということです。
 
   清い生活
 
 そして最後の所で、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と語っています。
 「正しく清い生活」などと言われますと、「ああ、自分は無理だ」と思いますが、この「清い」ということについて、竹森満佐一先生は、「清さ」というのは、本来、神の恵みに対する人間の感謝の態度だと述べておられます。キリストの救いを受けてそれを感謝する生活が、この正しい清い生活であると。そして「感謝こそ、最も力強く、人間の生き方を決定するものであります」と本に書いておられます。
 感謝。それは聖書から、私たちが繰り返し教えられてきたことです。「この私のような者でも救われていることに感謝」、「主が共にいて下さることに感謝」、「わたしにはできないことも、神さまにはできるから感謝」‥‥。そこにはウソがありません。
 この罪人である私をも愛し、新しい人にしていってくださるイエスさまに感謝して歩むことができる。従ってこれは希望の言葉となります。自分の力で新しい人になるのではありません。キリストによって、この罪人である自分に、新しい服を着せていただくのです。


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