2023年5月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教/ペンテコステ
●聖書 イザヤ書59章19
    使徒言行録2章22〜28
●説教 「聖霊来たりて 〜明らかにされたイエスとは誰か〜」


 
   主の苦しみに見る愛
 
 はじめに、先週水曜日の聖書を学び祈る会での恵みを分かち合うことをお許し下さい。ただ今、聖書を学び祈る会では、旧約聖書のイザヤ書を順に学んでいます。そして先週はイザヤ書43章を学んだのですが、その24節にこう書かれていました。
「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。」
 これは主の言葉を預言者イザヤが取り次いでいる言葉ですので、「わたし」というのは主なる神さまのことです。そして「あなた」というのは、ここでは具体的にはイスラエルの民のことですけれども、私たちのことを言っていると考えてさしつかえありません。そうするとここでは、神さまが、私たちの罪のために苦しまれたと言われていることになります。私はこの言葉が強く心にとまりました。
 神さまが苦しまれた。‥‥これまで私は何度も読んできたはずなのに、あまり気にもとめずに読んできたようです。そして水曜日の聖書を学び祈る会のために、私はいつも解説するプリントを用意しているのですが、前の日にそのプリントをつくっているときも、特別に心を打たれるということはありませんでした。しかし、朝の聖書を学び祈る会で、みなさんに配布したプリントを用いて解説していて、この言葉がいたく心に響いてきました。
 聖書の教えでは、イエスさまの十字架によって私たちの罪はあがなわれ、赦されたといいます。また、キリストが私たちの身代わりとなって命を献げられたといいます。また、神の愛がキリストの十字架に現れているといいます。そのように繰り返し教えられますけれども、その背後に神の苦しみがあったということを知って、深く心を打たれます。そういたしますと、イエスさまが十字架の前の晩に祈られたゲッセマネの祈りの苦闘も、そして十字架上の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」というあの叫びも、神の苦しみと重ねて読みますと、非常に心に響くものがあります。
 神さまが、私たちの罪のために苦しまれるなどとということは、ふつうありえないことのように思います。しかしそれは、愛という言葉によって初めて理解することができます。神さまが、私たちを愛しておられるから苦しまれるということです。例えば、私たちのうちで親である者は、わが子のことで苦しむに違いありません。とくに、わが子が道を外して悪いことばかりするようになれば、その苦しみはどれほど大きいことでしょうか。これが他人の子であるならば、どんなに悪の道に染まっても、苦しむことはありません。しかしわが子が悪の道に入ってしまったら、その苦しみは非常に大きいものです。なぜわが子ならば苦しむかといえば、それは愛しているからです。そのように愛は、苦しみを伴います。愛するからこその苦しみです。
 それゆえ、神が私たちの罪のために苦しまれた、私たちの悪のために重荷を負われたということは、神が私たちを愛してくださっているゆえです。私たちの神は、決して無機質な神ではありません。私たちのために苦しむほどに愛のある方であります。そのことに先週は、あらためて目を開かせていただいたように思います。これは私が考えて分かったことではありません。聖霊の働きによるものです。
 
   ペンテコステ
 
 ペンテコステは教会の3大祝祭日であり、教会の誕生日であると言われます。その教会について、ただ今は毎週の主日礼拝説教で、ちょうどエフェソの信徒への手紙を通して学んでいます。ですから、それと結びついてまいります。
 エフェソ書においても述べられていることですが、教会というものは人間が便宜的に作った組織ではありません。それは神によって、具体的には聖霊によって建てられたものです。ペンテコステの日、それはイエスさまの昇天の10日後のことですが、その日に起こった出来事を使徒言行録2章に従って振り返ってみたいと思います。
 まず、しるしとしての不思議な現象が起こりました。突然、天から激しい風が吹いてくるような音が聞こえました。そして炎のような下が現れ、集まっていた弟子たちの上にとどまりました。次に弟子たちが異言を語り始めました。すなわち、弟子たちが習ったこともない知らない外国語で、それぞれ神の偉大な働きについて語り始めました。そして、物音を聞いて集まって来た群衆に向かって使徒たちが立ち上がり、ペトロが説教を語り始めました。そしてその説教を聞いて、人々が悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受けました。そうしてその日に弟子たちの仲間に加わった人々が3千人いました。こうして教会が誕生しました。
 これがペンテコステの日に起こった出来事でした。
 
   キリストを悟る
 
 その今申し上げたできごとの中で、ペトロが集まってきた群衆に向かって説教した。その説教の一部を今日は取り上げました。きょうこの箇所を取り上げましたのは、昨年のペンテコステで取り上げたのがその前の箇所でしたので、今年はその続きの所を取り上げたという次第です。
 そのペトロの説教は、イエスさまについて語っています。そしてイエスさまという方が、何者であるかということを語っています。しかも旧約聖書を引用しながら正しく語っています。イエスさまがどなたであるかということを明らかにする。それも聖霊の働きです。すなわちイエスさまは、病の癒やしなどさまざまな奇跡を行われましたが、単なる不思議なことを行う人というのではない。あなたがたが十字架につけて殺したイエスさまを、神は復活させられた。それは神のご計画の成就なのだと語っています。
 
   ダビデの預言
 
 そしてペトロは、25節から28節の所で旧約聖書の詩編16編8〜11節を引用しています。それで詩編のその箇所を開くと、言葉が少し違っていることに気がつかれると思いますが、それはペトロが引用しているのはギリシャ語の旧約聖書であるからですが、意味はほとんど同じです。
 それはダビデが詠んだ歌です。それが預言となっているわけです。預言というのは聖霊によって語らしめられるものです。ダビデの口を通して聖霊が語られるということです。そしてそれは、イエスさまの言葉なんです。人の子としてこの地上を歩まれたイエスさまの言葉が預言として語られているということです。これらの言葉は、新約聖書の福音書には書かれていません。しかしイエスさまの言葉を、はるか昔にダビデが聖霊によって預言として語っているのです。すなわち、福音書には記されていないけれども、イエスさまの言葉として読んで良いわけです。
 そうすると、あらためてイエスさまの思いを知ることができます。そうした目で改めて読み直してみると、すごく新鮮な印象を受けると思います。「わたし」というのがイエスさまですから、イエスさまはいつも目の前に父なる神を見ておられたのだなあ、ということが分かります。そしてそのご生涯は、楽しみと喜びと希望のご生涯だったのだということが分かります。私たちは、イエスさまはどのようにして地上を生きられたと想像するでしょうか?‥‥なにかむずかしい、憂いを込めた表情をしておられたと想像するでしょうか?‥‥
 そうではなかったことが分かります。イエスさまは、楽しみ、喜び、希望をもって歩まれた。死んで陰府に行かれることも、神への絶対的な信頼を持っておられたことが分かります。
 そうしますと、イエスさまが十字架上で叫ばれた叫び、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」という叫びも、私たちの救いのための叫びであったことが、はっきり見えてきます。
 これらのことをペトロは語っている。それはペトロが考えて分かったことではありません。聖霊が降って分かったのです。
 
   ペトロ自身のストーリー
 
 そのように、ペトロはイエスさまについて、聖霊によって悟ったのです。ペンテコステの日の聖霊降臨によって明らかにされたのです。そのように、聖霊は、イエス・キリストについて私たちに悟らせることがおできになるのです。
 ペトロ自身、かつてガリラヤ湖で魚を取る漁師であったのが、イエスさまによって声をかけられ網を捨てて従っていった。そのときには、とにかくイエスさまについていったわけです。その後、イエスさまのそばでイエスさまのなさる奇跡を見、またお話しを身近で聞いて歩んだ。そして最後の晩餐の席で、イエスさまは、ペトロがイエスさまのことを知らないと言うと予告なさいました。ペトロは否定しましたが、イエスさまがその夜逮捕された時、イエスさまの予告通り、イエスさまのことを知らないと3度言ってイエスさまを裏切りました。そして自分の弱さのゆえに激しく泣きました。そしてイエスさまの復活に出会いました。イエスさまはペトロに対して、ひと言も非難をしませんでした。それどころか、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃって、ペトロがイエスさまに変わって人々を導くようおっしゃいました。そしてイエスさまは天に帰って行かれました。聖霊が来る約束をなさって。‥‥
 そしてペンテコステの日に聖霊が来られて、すべてが分かったのです。イエスさまのすべてが。イエスさまが何者であり、どなたであるかということが。
 そのペトロの姿に、私たちの姿を重ねることができます。聖霊によって、イエスさまがどういう方であるかを知るということです。そして私たちの人生が何であるかを知るということです。
 
   教会
 
 聖霊によって建てられた教会。それはイエスさまのなさったことを引き継いでいくものです。世界の人々に神が生きておられることを、そしてキリストの福音を宣べ伝えます。
 ノンフィクションライターの最相葉月さんが全国の多くのクリスチャンを取材して、それをまとめて出版された『証し』という本については、前にもご紹介いたしました。御覧になった方もいるかと思います。私もいろいろな人の証しを少しずつ読んでいるのですが、その中にこのようなことを証ししている人がいました。
 その方は、近所に住むアメリカ軍の軍属の人に誘われて、夫婦で外国人の多い教会に通うようになったそうです。ある日、夫婦関係が悪くなって、教会に一人で行ったことがあったそうです。するとアメリカ人の牧師が、「なにか悩んでいることがあるのか、みんなで祈ってあげよう」と言ってくれたそうです。日本で祈りというと、病気が治りますようにとか、お金が貯まりますようにとか現世利益的なことを想像するけれども、彼らの祈りは全く違って、神の祝福がありますようにという内容だったと述べておられます。そしてなにかに包まれるような感じがして涙がこみ上げてきて、駐車場にとめていた車に乗り込んでからも、ただただ涙を流したんだそうです。「これが聖霊の働きというものなのかと思いました」とその方は述べています。
 人間は人の心を信仰に導くことはできません。しかし聖霊なる神さまにはそれがおできになります。私たちは教会を建てられた聖霊なる神さまが、私たちを用いて下さることを心に留めたいと思います。
 最後に詩編のイエスさまの預言の最後の所をもう一度お読みいたします。28節です。
「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」


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