2023年5月21日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 ホセア書14章9
    エフェソの信徒への手紙4章14〜16
●説教 「途上」

 
   悪賢い
 
 本日の聖書箇所を読みますと、おそらく14節が一番目を引くのではないでしょうか。その14節の中で「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」と書かれています。「悪賢い」というのは、かなりきつい言い方だと思います。使徒パウロもこのように厳しく言うことがあるんだなあ、と思わされます。
 この「悪賢い人間」というのは、どういう人のことを言っているのでしょうか?‥‥ここでは、正しい信仰からそらして、意図的に間違った教えに導こうとする人のことが言われています。「悪賢い」という言葉ですが、それはギリシャ語では「サイコロばくちをする」という意味がある言葉です。日本の時代劇でもサイコロばくちをする場面が時々登場しますが、2千年前の聖書の時代にもあったんですね。そしてこの「サイコロばくちをする」という言葉から、「いかさま」という意味で使われるようになったそうです。
 ばくちでいかさまをする人は、相手をだまそうとしていかさまをします。だから、相手に気がつかれないように、分からないように、いかさまをします。しかし自分自身は、インチキをしていることが分かっているわけです。それがここで言われている「悪賢い人間」ということです。
 ここでは、そのいかさまを信仰において行うわけです。現代でもそういうものがあります。先週も少し触れましたが、「カルト」宗教ですね。正確には宗教を利用した詐欺ということになりますが。例えば、昨年から再びクローズアップされている旧統一協会がそうです。その団体は聖書を入り口に使います。そしてその教祖は、自分が再臨のメシアであると称していました。もちろん、自分が本当はメシアなどではないことを分かっていたに違いありません。しかし信徒に意図的に間違った教えを教え込む。そしてその教祖は、豪邸に住み、贅沢三昧の生活をしていたと言います。
 イエスさまは、(マタイ 12:33)「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とおっしゃいましたが、その通りであると思います。
 それら間違った教えは、つじつまが合わなくなるものです。だからそのつじつまを合わせようとして手を加えていく。それが「風のように変わりやすい教え」と書かれていることです。
 そうしますと、パウロが今日の聖書箇所で「悪賢い人間の風のように変わりやすい教え」というように、厳しい言葉を使っている理由も分かってまいります。すなわち、キリスト本来の教えを意図的に曲げて、キリストではなく自分のほうへ導こうとする。そのことを断罪せずにはおれなかったのです。
 人間が救いを求めるという行為は、もっとも尊いことの一つのはずです。その尊い気持ちを利用して、自分の欲望のために、あるいは自分が賞賛されたいために、自分のほうへ導いていく。それは許されないことです。私たちを救うために十字架にかかって、命を投げ出してくださったイエスさま、神の御子でありながら、この罪人である私たちを救うために命を投げ打ってくださったイエスさまを思うならば、ありえないことですね。それでパウロはここで非常に厳しい言い方をしていると思います。
 前回の11節で述べられていた、5つのポジションの人たちは、いずれも神の言葉を宣べ伝え、教える立場の人たち、つまり教職でした。そうすると、みことばを語る説教者たちは、真実に主の言葉を聞き、伝えようとしているだろうかと、自戒を込めて考えざるを得ません。私自身、この説教壇に立って、みことばを取り次ぐという重大な役目を、畏れを忘れずにしなければならないと思わされます。
 
   求める心がなければ
 
 前回の説教で、聖霊が働きやすくするために制度が整えられ、聖書ができ、信仰告白が生まれていったということを申し上げました。それは、教会で語られるみことばが、語る説教者の勝手な解釈や、あやまった教えにならないためにであるということも申し上げました。それらは聖霊がお働きになるためのものであるということでした。
 しかし一方で、逆に制度が整えば聖霊が働かれるということでもありません。たとえば、むかし加藤常昭先生がおっしゃっていたことを思い出すのですが、加藤先生がドイツに留学なさっていたのは何十年も前の出来事ですが、そのドイツである教授から「日本では人口の1%しかクリスチャンがいないそうじゃないか」と言われたそうです。そこで加藤先生は言い返したそうです。「ドイツでは、クリスチャンの1%しか礼拝に行かないじゃないですか」と。
 ドイツはプロテスタント発祥の地でありますし、長い教会の歴史がありますから、制度は整っているわけです。そもそもドイツはキリスト教国であり、牧師は国家公務員扱いです。そして給料は国から出ます。そのように制度はたしかに整っている。しかし、教会に来る人が少なく、大きく立派な教会堂は閑古鳥が鳴いている‥‥。
 ですから、制度、システムが整ってもそれで完成ではないことは明らかです。問題は人々の心です。救いを求めているか、あるいは自分に救いというものが必要であることに気がついているか、神を求めているか‥‥。求める心がないから、いくら制度やシステムが整っても、ダメだということになります。
 イエスさまが郷里(ナザレ)に行かれたときのことが福音書に書かれています。(マタイ13:58)「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。」
 ここでの「不信仰」は、イエスさまに救いを求めることといってよいでしょう。神を求める心、救いを求める心がなかったならば、イエスさまも奇跡をなさることができないのです。聖霊も働くことができないのです。
 
   愛に根ざして真理を語る
 
 15節には「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、かしらであるキリストに向かって成長していきます」とあります。
 先ほど述べた、およそカルト団体には愛がないんです。他人は利用する対象でしかない。
 「真理を語り」と書かれています。「真理」というと、急に難しい感じがいたしますが、この「真理」という言葉のギリシャ語は「本当のこと」という意味なんですね。本当のことを求める。この「本当」というのは、たとえば「この聖書は本当に紙でできている」という意味での本当ということではなく、「真実の愛は本当に存在するのか」というような意味での「本当」ということです。
 例えばイエスさまによれば、「愛」とは敵を愛し迫害する者を愛することであり、友のために命を捨てることですが、そういう愛は本当に存在するのか?
 例えば、「わたしはあなたを愛している」と言ったとき、それは本当か?「本当に愛している」のか?‥‥と問うていったらどうでしょうか。仮に、その人があなたに悪態をつき、小言ばかり言い、約束はすっぽかし、迷惑ばかりかけるようになったとしたら‥‥それでも本当に愛していると言えるだろうか? 本当に愛しているのなら命を捨てることができるはずだが、それでも捨てることができるのか?‥‥と問うていったとしたら、それは無理だということになるに違いありません。
 そうすると、本当には隣人を愛することなどできないように思われてきます。それは言い換えれば、自分はダメな人間だということになります。しかし私は、そのように、聖書を通して、自分がダメな人間であることを悟らせてくれたことを感謝しているのです。ダメな人間というのは、言い換えれば自分が罪人であるということです。ですから、聖書を通して、私が罪人であることを悟らせてもらえたことを感謝しているのです。
 ふつうは、自分がダメな人間であり、罪人であることを知ると、落ちこむしかないはずなのですが、なによりも感謝できる。それは、そのダメな私をこそ愛してくださるイエスさまの愛が、身近に感じられ、感動できるからです。イエスさまの声が聞こえてくるかのようです。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
 ダメで良い。罪人で良い。まことに感謝です。そしてそのような者を、キリストが変えていってくださり、成長させてくださるというのです。
 作家の三浦綾子さんが、こんなことをエッセイに書いておられたことですが、三浦綾子さんの所には、読者からそれこそさまざまな手紙が来たそうです。中には「あんたなんかクリスチャンじゃない。インチキなにせものだ」という手紙も来たことがあるそうです。それについて三浦さんは、こう書いているんです。‥‥「これは全くもって、その通りだとわたしも思う。クリスチャンの中で、わたしは最低の人間だと、つくづく思うことがある。かなり自惚(うぬぼ)れの強いわたしが、そう思うことがあるのだから、わたしは相当くだらぬ人間なのだろう。ただし、何と言われても、キリストが十字架にかかられたおかげで、罪をゆるされているという喜びだけは、人はわたしから奪えないだろう。 」(『丘の上の邂逅』小学館)
 
   キリストの体を立てる
 
 16節で「体」という言葉が出てきていますが、これは前にも出てきたように、教会のことです。教会がキリストの体であると言われるからです。そしてここでは、私たちが「節」(ふし)であると言われています。それが補い合い、結び合わせれて、体を成長させると。節というのは、もともと他の体の器官と結び合わされるためのもののはずです。ですから、私たちが節であるというのは、私たちはもともと神さまによって、他の人とつながるようにできているということでもあります。
 人間の罪のゆえに、私たち人間は愛を失い、バラバラになっていきます。しかしそれをキリストの体として教会はつなげていくということになります。神を信じ、キリストを信じ、聖霊によって結び合わされていく。
 これもまた三浦綾子さんがエッセイで書いておられることですが(ちょっと昔書かれたものですが)、ある若い女性が自分の父親の素行を見て家出をして三浦さんの家に転がり込んできたことについて書いているのですが‥‥おとなたちは若者の言動を見て、「テレビが悪いの、週刊誌が下劣だの、近ごろの若者は軽薄だの言い、だから道徳教育が必要だという。が、修身を習った年代の父親たちの中に、神聖な家庭の破壊者が少なくないのは、一体どういうわけだろう」と言います。そしてこう書いています。
 「朝タ、波風が立って、家庭が揺れ動くのが不安なのだ。清かるべき家庭が醜く汚されていくのが不安なのだ。この 「不安」を解消するのは、もはや道徳ではない。宗教なのだ。道徳教育などでは解決できない、もっと深く重大な叫びが、人間の魂の中にあることを、知らない人々が、何と多いことであろう。道徳と宗教のカテゴリーはちがう。そのちがいのあることを知らない親や教育者たちがあまりにも多すぎる。「不安」にかられ「絶望」に陥る人間が多い世の中なのだ。「不安」な者には「安心」を、「絶望」している者には「希望」を与えなければならない。「不安」 や「絶望」は、道徳の力の及ばぬ問題なのだ。」(『丘の上の邂逅』小学館)
 本日の聖書でパウロが述べていることは、この社会と無縁なことを書いているのではありません。教会の中に社会の希望があるのです。その根底には、この私のような者のために十字架にかかってくださったキリストがおられます。


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