2023年5月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩篇51編12〜14
    エフェソの信徒への手紙4章7〜13
●説教 「成長する人」

 
   教会は不思議な集まり
 
 エフェソ書は、引き続き、私たち個人と教会について語ります。
 教会、考えてみれば、不思議な集まりです。このような集まりが、この世の中に他にあるだろうかと思います。まず毎週日曜日に集まって礼拝している。たしかにそのような宗教団体は他にもあるかもしれません。しかし教会は、何か商売繁盛のためにとか、お金がもうかるとか、この世の現世利益を得るために、何か神さまと取り引きするために集まっているのではありません。またもちろん、投資セミナーや自己啓発セミナーで集まっているのでもありません。
 また、昨年から話題のカルトのように、呪いやたたりで脅かしたり、あるいは戒律で縛り付けているわけでもありません。また何か寄席や演芸場のように、おもしろおかしい話が聞けるから来ているというのでもありません。
 私自身、振り返ってみますと、若き日に遠ざかっていた教会へ再び戻ってきたときから、当たり前のように毎週日曜日に教会に通い始めました。それは今挙げたどの理由からでもありませんでした。当たり前のように通い始めたんです。このエフェソ書の前回の個所で、「神から招かれたのですから」という言葉がありましたが、神さまから招かれて、聖霊に導かれて通い始めたというのが、いちばん腑に落ちる言い方だと思います。そして礼拝では、神の言葉を聞きとることができるという点です。
 
   教会を建てる恵み
 
 本日の7節に、「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と書かれています。賜物とは、キリストが一方的にくださる贈り物ということで、それは聖霊の賜物と呼ばれます。ですからそれは聖霊によって与えられる力であり、役割のことです。
 それが私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、と言われています。一人一人にはかりに従って、ですから、みな同じものが与えられているのではないということになります。それぞれにふさわしい賜物を与えられているということです。つまりそれは、主は、私たち一人一人を必要とされているということです。キリストの体である教会のために、つまりキリストのためにです。それは人間の考えとは違っています。
 私が奥能登のW教会の牧師をしていたときのことでした。W教会は教会が小さく、はじめは礼拝も全部で10名ぐらいでした。時には数名という時もありました。その中の一人に、Tさんという女性の信徒がいました。彼女は重い病気を患っていて、歩くこともたいへんでした。御主人は教会員ではありませんでしたが、優しく器用な方で、今でいう電動車イスのようなものを作られ、Tさんはそれに乗って外出されるのでした。彼女は体が弱いので、教会では奉仕することができません。小さい教会ですから、教会員の半分以上は役員になることになるわけですが、彼女には無理でした。CS教師もできませんし、掃除当番もできません。そういうことですから、目に見える形での奉仕はできませんでした。しかし、出席者数名しかいない時も、礼拝の中の大切な一人でした。そしていつも優しい笑顔で、励まして下さいました。今思うと、たしかに彼女にも賜物が与えられていたと思います。キリストが用いられた人だったのです。恵みが与えられていたのです。
 そのように、主は一人一人に恵みの賜物を与えてくださっています。
 
   キリストがおられるために
 
 次の8節〜10節では何が書かれているかというと、キリストが天の父なる神の所から、この世に降りてこられ、そしてまた昇られたということが書かれています。低い所、地上に降りておられたというのは、イエスさまの誕生のことです。そして「昇った」というのは復活・昇天のことです。イエスさまが地上に生まれて天に昇られたと、ごく短く書いていますが、つまりはイエスさまの生涯のことです。しかしここでは、聖霊の賜物を与えるために必要なことだけが書かれています。地上に降りてこられ、お生まれになったのは、十字架にかかるためでした。それは使徒信条が短くまとめているとおりです。そして天に昇られたのは、聖霊を与えるためであった。たいへん短い記述ですが、そういうことです。それほど聖霊を私たちのところに送るということが大切であったのです。
 10節に「すべてものを満たすため」と書かれています。何をもって満たすのでしょうか? それはご自身によって満たすということです。ここは「あらゆるものに満ちるため」(口語訳聖書)と訳すこともできるのです。キリストがすべてのものに満ちるために、天に昇られたという。すべてのものに満ちるということは、キリストがそこにおいでになるということだと、竹森満佐一先生は本に書いておられます。
 そのために「もろもろの天よりもさらに高く昇られた」。しかし私たちは思います。すべてのものの所にキリストがおいでになるためには、天に昇ってしまったら、逆ではないか?と。天に昇ってしまわれたら、地上から離れるわけですから、私たちのところから離れてしまうではないか、と思います。
 しかし、キリストが天に昇られた結果、天から聖霊が送られたわけです。イエスさまはおっしゃっています。ヨハネによる福音書の、洗足、すなわち最後の晩餐の席でのことです。
(ヨハネ16:4〜7)「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
 この「弁護者」というのが聖霊のことです。イエスさまが父なる神の所へ行くといわれたので、弟子たちは悲しみました。しかしイエスさまが去って行かれなければ、聖霊が弟子たちの所に来られないと言われました。もちろん、去って行かれる前に十字架があるわけですが。
 エフェソ書に戻ると、10節に「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られた」とあります。もろもろの天よりも高い所といえば、それは父なる神の所、すなわち神の国しかありません。そこに行かれた。そして聖霊が送られた。イエスさまの代わりに聖霊が来られたのです。イエスさまは人間としてこられましたので、この地上のどこか一箇所にしか存在することができません。しかし聖霊は霊ですから、同時にどこにでも、キリストを信じるものの所誰にでも、ともにいて下さることができます。
 そして聖霊は、キリストの体である教会を建て上げるために働かれます。すべての教会は聖霊の働きによって建てられ、維持される。すなわちキリストがそこにいて下さる。
 
   教会の制度
 
 11節では、5つの奉仕者が挙げられています。使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師です。これらはいずれも、いわゆる教会の教職と言える人たちです。もちろん、これらの人たちももとは信徒であったのですが、教会の中でその役割に立てられた人たちです。そして、そういう役割があったということは、教会が制度として整えられていっているということです。
 教会は聖霊によって建てられると今申し上げました。聖霊というと、何か教会の制度ということとは無関係のように思われますが、そうではありません。聖霊は人を通して働きます。聖書を読むと、聖霊が物に働いたということは書かれていません。聖霊は人に働き、また人を通して働かれます。そして教会が作り上げられていくということは、聖霊が働きやすいシステムを作っていくということになります。
 そのシステムが、教職の制度であり、聖書であり、信仰告白であると言えます。聖霊は神の霊だから、制度とか教職とか、そういうものにとらわれない、もっと自由に働くという人たちもいます。以前、逗子教会の教会報「ぶどうの木」にも書きましたが、私が最初に牧師として勤めた教会で、わたしの前の牧師の時代に、「教会には聖霊がない」と言って去っていた人がいました。そして違うグループに移りました。しかし長い期間を経て、その方は教会に戻ってきました。結局、移った先のグループは、何かというと「そんなのは不信仰だ」と言って批判し、頑張らせる。それで疲れてしまったのです。聖霊の名を使って、人を縛りつけていくものだったのです。
 今問題になっているカルト宗教。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)は、教祖がメシアに成り代わっています。彼らは聖書を不完全なものとし、使徒信条という信仰告白を否定します。教職の制度も、教祖の意のままに作られています。
 しかし教会は、教会の制度、そして聖書、信仰告白を整えていったのです。それは聖霊の導きであったのです。聖霊がおられれば制度はいらないということではないのです。聖霊の働きやすいシステム、一人の人間の勝手な理屈でどうとでもなるようなことのないように、システムを整えていったのです。
 
   神の言を聞くために
 
 あらためて11節の教職の名称を見てみます。「使徒」というのは、12使徒と言われ、またパウロもあとから使徒とされたように、教会のリーダーですが、それはキリスト・イエスさまの復活の証人です。また病の癒やしなどの奇跡を行う聖霊の賜物を与えられました。また「預言者」とは霊感を受けて神の言葉を語る者です。この二つは、教会の土台が据えられ、新約聖書ができたときに、役割はほぼ終わったと言うことができます。
 そして「福音宣教者」。これは一つの教会にとどまるのではなく、各地を巡回して伝道した人だと言われています。「牧者」、これは今日の牧師と重なるでしょう。教会の群れを神の御心に従って導く人です。「教師」、これは人々を教える人で、牧師と重なる部分も多いと思います。
 さて、こうしてみますと、使徒、そして預言者を含めて、この5つの名前で呼ばれる教職たちは、いずれも神の言葉を語る人という共通点があります。すなわち、神の言葉を語るために、役割が5つに分けられていると言えます。カルトのように、教祖一人が神の言葉を語るのではありません。神の言葉を語るために5つもの役割があるということは、それだけ神の言葉を慎重に取り扱っていると言うこともできます。それが確かに神の御言葉として正しく語られるために、まちがいのないように、思い込みにならないように、現在の言葉で言えば、カルト化を防ぐために。みなで任務を分け合っているのです。神の言葉が大切なものであるからです。
 しかしそのように、教職が分かれていても、同じ一人の神、一人のキリストのもとにいるのですから、同じ神の御心、同じ趣旨のことが語られるはずです。そうして教会は一つのキリストのからだとされます。
 
   成長
 
 そうしてパウロは13節で、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで、成長するのです。」と書きます。
 神の言葉は、私たちが成長するための神の言葉であることが分かります。
 プロテスタント教会の礼拝堂は、カトリック教会や正教会の礼拝堂に比べて、非常にシンプルです。装飾も少なく、いろいろなものが飾ってあるわけではありません。だから、学校の教室のような教会もあります。私が神学生時代に通った教会は、十字架もなくて、中は全く学校の教室のようでした。それはみことばに集中するためです。神の言葉を聞きとろうとする。そこをたいせつにしているからです。
 そして成長ということを考えたときも、学校との大きな違いがあります。学校には終わりがあります。小学校でしたら、小学校で学ぶべきことを習ったら終わりですし、年齢が来たら卒業です。中学校もそうです。高校や大学も、単位を取ったら終わりです。
 それに対して教会には終わりがありません。13節にあるように「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」のには、おそらく永遠の時間が必要でしょう。終わりのない成長です。先週、ヨハネの黙示録の第7章に書かれている天国の礼拝のことを述べましたが、天国では直接神さまイエスさまにお会いして、礼拝している。だとしたらそこでも、イエスさまから新しいみことばが語られているはずです。つまりは永遠に成長していくのです。
 だから、今の自分を見てがっかりしないでください。まだまだ成長途中なのです。不完全なのは当たり前なのです。孫を見ていると、会うたびに成長しているのが分かり、うれしく思います。私たちも礼拝にあずかり、神の言葉を聞き続ける。そこに聖霊が働く。そして成長し続ける。そういう希望の中を生きています。


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