2023年5月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書11章19
    エフェソの信徒への手紙4章1〜6
●説教 「一つの希望」

 
   主に結ばれた囚人
 
 きょうの4章から、エフェソ書は後半に入ります。パウロは「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます」と、書いています。パウロがこの手紙を書いているとき、ローマにおいて鎖につながれて囚人となっていることはすでに申し上げたとおりです。そのパウロが、またわざわざ「囚人となっているわたし」と書いている。ここにもやはり言いたいことがあるのだと言えるでしょう。
 ここで「主に結ばれて囚人となっている」と日本語に訳されていますが、ここは「結ばれて」と訳すよりも「中に」と訳したほうが良いのではないかと思います。すなわち「主の中のいる囚人」と訳すことができるのです。「主の中にいる囚人」!‥‥このときパウロは、鎖につながれて自由を奪われていますが、牢屋の中にいるのではなく、「主の中にいる」と言っているのです。すなわち、キリストの中にいて、キリストの中で生きているというのです。
 こうして、主を信じる者は、どこにいても主の中にいるのです。私たちはどこにいても主の中にいるのです。たとえ一人孤独な部屋の中にいても、病院の中にいても、また高齢者施設の中にいたとしても、やはり主の中にいる、キリストの中にいるのです。こうして私たちは、お互いどこにいても主の中にいるのであり、ひとつとされていると言うことができるのです。
 このエフェソの信徒への手紙は、新約聖書の中でも最もよく教会について書かれている手紙と言われています。1〜3章は、神がキリストによって世界を救うというご計画、その担い手が教会であるということが書かれていました。そして4〜6章は、では教会に属している者は、どのように生活したらよいのか、ということが書かれています。キリストの中を生きる者として、どのようにすべきかということです。
 
   招きにふさわしく歩む
 
 パウロは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩め」と勧めています。「神から招かれた」というのは誰のことかと思いますが、これはキリストを信じる者すべてのことです。つまり私たちのことです。「いや、自分は神さまから招かれた記憶がない。自分から教会に来た」と思う人もいると思いますが、実はみな神の招きであったのです。そしてパウロは「その神の招きにふさわしく歩め」と言っています。つまり、どのように生きてもよい、どのようなことをしても良いとは言っていない。神の招きにふさわしく歩めと言っています。
 はて、そうしますと、私たちの罪はどんな大きな罪でも、イエス・キリストによってゆるされたのではなかったのか?どんな罪でも赦されるのだから、何をしてもよい、何をしようが勝手ではないのか?‥‥と思われる方もいるかも知れません。
 しかしそれは違います。たしかに罪はゆるされています。しかし、十字架にかかって私たちの罪をゆるしてくださったキリストの愛を知ったならば、それに応えて生きようと思うはずだからです。イエスさまは、この私を救うために、十字架にかかって命を投げ出してくださったのです。愛してくださっているのです。ならば、その愛に感激して、そのイエスさまに従って行こうと思うに違いありません。それは律法に縛られているのではありません。主の愛にお応えしていこうという歩みです。それがここでは、主の「招きにふさわしく歩め」ということです。
 
   謙遜
 
 そして続いて、4つのことが述べられています。2節です。その四つのこととは、@いっさい高ぶらない A柔和 B寛容 C愛をもって互いに忍耐する‥‥の4つです。
 まず「いっさい高ぶらない」。これは意訳であって、残念ながらあまり良い訳ではありませんね。ここは直訳して「謙遜」と訳すべきです。謙遜、別の言葉で言い換えれば「へりくだり」です。この謙遜という言葉が最初に来ています。ここに大切な意味があると思います。
 今から百年以上も前に活躍した牧師に、アンドリュー・マーレーという牧師がいます。このマーレー先生は、『謙遜』という書物を書きました。その他にもたいへん霊的な書物をいくつも書かれましたが、その『謙遜』という本は、私に決定的な影響を与えました。マーレー先生によれば、「謙遜」は、聖書に記されているすべての徳目の基礎であるということです。謙遜がなければ愛もむなしいと言います。謙遜とは、自分を低くすることです。ですから、それは自分が罪人であることを悟ることでもあります。
 そして、マーレー先生によれば、謙遜とは「単に私たちが全く取るに足らないものであるとの意識」です。謙遜というと、世間では、形だけへりくだった態度を取ることを言う場合が多いと思いますが、聖書で言う謙遜とは、事実の問題です。自分が全く取るに足りない者であることを認めることです。
 だれでも、自分が少しは他人よりはマシな者だと思いたいものですが、自分が全く取るに足りない者であると知ると、なにか自分がみじめになるように思われるかも知れません。しかし、なによりも、キリスト・イエスさまご自身が、その全く取るに足りないこの私を救うために、仕えてくださった、十字架にかかって命を投げ打ってくださったことを思い起こします。全く取るに足りないこの私よりも、さらに低くなって仕えてくださった。まさにイエスさまこそ、謙遜の極みです。私たちが自分を低くすることによって、そのキリスト・イエスさまの恵みがじわじわと身に染みてきます。そして感謝と平安で満たされていきます。
 水が低いところ低いところへと流れていくように、私たちが低くなればなるほど、神の恵みが流れ込んでまいります。イエスさまはおっしゃいました。(マタイ23:12)「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。もし私たちにキリストの喜びがないとしたら、謙遜ではないからだとマーレー先生は言います。そして「へりくだりすぎるということはない」と言います。
 
   柔和、寛容、忍耐
 
 その謙遜ということが分かりますと、2節で述べられている4つのことのうちの、あとのことも理解できます。「柔和」、これは説明がいらないでしょう。謙遜、すなわち自分が取るに足りない者であるにもかかわらず、イエスさまが愛してくださっていることを意識することによって、柔和になることができます。
 次の「寛容」について、竹森満佐一先生は、これは「おっとりとかまえていることではない」と述べています。耐え忍ぶことであると。どんなことがあっても辛抱することであると言います。一つは、苦しいことに耐えることであると言います。次に、自分に苦しみを与える者に対して耐えること、ゆるしてやることだと言います。こうして積極的に人を赦すことであると言います。そしてその背後には、神に対する信頼があると言います。
 そして4つ目の、「愛をもって互いに忍耐する」。ここに至る。それが現れるのが教会だということです。まず教会の中にそれが現れるべきであると。ここに世界の希望があるということです。
 
   霊による一致
 
 続いてパウロは、霊による一致ということを述べます。一致というのは、ひとつになることです。しかし、ひとつになるというのは難しいことです。それは私たち自身が、この世の中で実感することです。学校においても、会社においても、町内においても、どこの団体においても、ひょっとしたら家庭においても、ひとつになるというのはなかなか難しいことです。
 このようなことをパウロが書いているということは、やはりエフェソの教会でも、問題を抱えていたということに違いありません。なかなか一つになれない。ではどうしたら良いのか。もちろん、ただ今見てきました4つのことがあるわけですが、それに加えて3節で「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。「平和のきずなで結ばれて」というのは、なにか政治的スローガンを言っているようで、分かったような分からないような気がします。「平和を保て」と言っているのでしょうか? しかしそれではできもしないことを、せよと言っているようで、パウロの言葉とは思えません。
 そこで、この「平和」という言葉に要注意すべきことを思い出していただく必要があります。この「平和」という言葉は、ヘブライ語では「シャローム」に相当する言葉が使われています。ヘブライ語のシャロームは、単に平和を意味するだけではありません。平安という意味、それから祝福であり、繁栄も意味します。すなわち、神さまのくださる良いものが、ここで言う平和です。すなわち、神さまのくださる良いもので結ばれて、ということです。人間は、主義主張でひとつになることはむずかしいのです。むしろ主義主張が違って、どんどん分裂していくのが普通です。しかし神さまのくださる良いものを分かち合うということなら、それは一つになれるのではないでしょうか。例えば、ギクシャクしている会議も、おいしい食事が出されてみななごやかになるようにです。
 神さまのくださるシャロームは、ここでは物質的なものと言うよりも霊的なものです。それがここで言われている「霊による一致」です。
 
   一つの希望
 
 しかし、そもそもなにがひとつになるということなのでしょうか?‥‥考え方がひとつになるということなのでしょうか? それとも政治的な立場がひとつになるということなのでしょうか? それとも音楽の好みや、料理の好みが一致するということでしょうか?‥‥いや、むしろそういうものはバラエティに富んでいて良いものでしょう。
 ではなにがひとつになるということなのかと言えば、ここでは4節にありますように、「一つの希望」にあずかるよう招かれているということです。それは、私たちが同じ一人の主、同じ信仰、同じ洗礼を受けているのだからです。
 昨日も当教会で葬儀をいたしました。私が葬式を司式するときは、聖書は本人の愛誦聖句があればそれも読みますが、ヨハネの黙示録の7章9節からの箇所をだいたい読んで説教いたします。もちろんその理由には、この聖書箇所が教団の式文に載っているということもあるのですが、やはりこの聖書箇所が、私たちの行くべき所がどこであるかということをあざやかに示しているからです。すなわち、私たちの行くべきところが天国であり、その天国がどういう所かということを非常に印象的に描いているからです。
 それで、葬式に参列される教会員の方は、「また同じ個所か」と思われるかも知れませんが、ご遺族は毎回顔ぶれが違うわけですから、はじめてこの個所での説教を聞く人がほとんどということになります。それで毎回この個所を読んでいます。黙示録の7章によれば、天国は、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった数えきれないほどの大群衆が白い衣を着て、手になつめやしの枝を持ち、創造主なる神が座しておられる玉座と、その隣におられる小羊なるイエス・キリストを前に、天使や天界の生き物と共に、大礼拝をささげているところです。つまり、天国では、イエス・キリストと直接顔を合わせて、皆と共に神を礼拝しているということです。みな白い衣を着ている。本来は罪で汚れた衣であるはずなのに、小羊であるイエスさまが、十字架にかかって流されたちによって現れ、白くしていただいた。それで天国に入れられていると書かれています。
 そうして、この地上を去ったあの兄弟も、この姉妹も、イエスさまのとりなしによって、この天上の大礼拝に加えられている。‥‥そう思いながら、毎回同じ個所を読みながら、毎回新たな感動をもって説教しているという次第です。
 黙示録の7章14節〜17節をお読みします。これは天国の長老が使徒ヨハネに語った言葉です。
 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
 私たちは、この希望を与えられています。


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