2023年4月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教/今年度主題聖句
●聖書 詩編81編11
    マタイによる福音書7章7
●説教 「大胆な約束」

 
   2023年度主題
 
 本日は、このあと定期教会総会があります。そこで今年度の伝道計画案を協議いたします。そして役員会から提案する主題が「ビジョンを持つ教会」、主題聖句が、ただいま読んでいただきましたマタイによる福音書7章7節です。イエスさまの言葉です。もう一度お読みいたします。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 話しは変わりますが、先週届いた「月刊FEBC」通信の5月号の「リスナーの声」の欄を見ておりましたら、小学校3年生の子の投書があり、感じるところがありましたので、ご紹介したいと思います。
 「初めまして。僕は小学三年生の男の子です。僕には疑問に思うことがあります。考えてもわからないので教えてください。1つ目、人間は生まれる前にはどこにいたのか。2つ目、人間は死んだらどこに行くのか。3つ目、やりたいことをやってもどうして死んでしまうのか。考えると暗い気持ちになります。よろしくお願いします。」
 たいへん尊い質問だと思います。私たちはそのように小学生に聞かれたら、何と答えるでしょうか?‥‥「聖書にはこう書いてあるよ。」と答えることもできます。しかし、考えてみると、それが果たして本当にこの子のこの問いに答えたことになるだろうか、と思いました。すぐにそのように答えて、本当にこの子が心から納得し、信じることができるだろうか。もちろん聖書に書かれていることですから、それを教えてあげれば良いのではありますが、それでは、例えば難しい算数の問題を悩みながら解いたときのような喜びは、そこにはないような気がします。
 無教会派のキリスト教の指導者の一人で、東京大学の総長を務めた矢内原忠雄さんという人がいますが、矢内原さんが、先生である内村鑑三に尋ねた時のことです。矢内原の文章から引用いたします。
 ”私は、父と母との死後の運命についてお尋ねしたのですが、先生は横を向れて、「僕にもわからん」と、一ロいわれただけだったので、私は仕方なく立上って、頭をたれて、有難う御座いましたといって悄然(しょうぜん)と立去ろうとした時に、ちょっと待てといって呼び止められ、「そういった問題は一生かからなければ解らない問題だ。何よりも、君自身の信仰をよく磨いて行くように。君自身の信仰生活が進んで行けば、そういう問題はいつ解るともなく解るものだ」、とおっしやった。其の時、内村先生にも解らない事があるという事が、大発見だったですね。これが非常に私の目を開きましたね。すべて信仰上のむつかしい問題の解決を教えてくれるのは神様だけなんだ、人間に依頼してはいけない。又先生に聞けばわかると思ってもならない。神様から直接教えて下さるのであり、しかもそれには時が必要なのだ。今すぐにといっても、なかなか教えて下さらない。それは、こちらに解るだけの準備がないからです。解る時が来れば、解らしてくれる。これが信仰ですね。それまで忍耐して、自分の信仰の道を歩かねばならない、という事なのです。内村鑑三先生は私に沢山の事を教えてくれたけれども、「自分にも分らない」といって下さったのが、最大の教訓でね。”(矢内原忠雄『銀杏のおちば』東京大学出版会)
 内村鑑三は、矢内原に「分からない」と答えた。いや、本当は内村なりの答は持っていたのかも知れません。しかし、本当のところは、その疑問を持ったその人自身が、答えを神に尋ね求めていって与えられるものだということだと思います。それこそが、心からの平安と喜びをもたらす真実の答であると。
 先ほどご紹介した小学生の問い。これも、聖書では何と書いてあるかを教えられるけれども、その子自身が本当に納得する答は、その子自身がキリストの後に従っていって神さまから直接答をいただくものであると思います。
 そう考えますと、本日のイエスさまの言葉、「求めなさい、そうすれば与えられる」という約束は、本当に大きな励ましの言葉として聞こえてまいります。求めても与えられないことが多い、この世の中で、このイエスさまのお言葉は力強いものがあります。
 
   何を求めるか
 
 私がまだ若く、信仰に入って間もない頃、このみことばを、文字通り受け取りました。「求めなさい」と「探しなさい、そうすれば見つかる」。あるとき、大切な物をなくしました。困りました。それでこのみことばを思い出し、神さまに「どうか見つけてください。ないと困ります」と祈りました。そして、ただ祈って待っていたのではありません。「求めなさい」の次に「探しなさい」とあります。だから祈りながら探しました。そうするとしばらくして見つかりました。そういうことを何度も繰り返して経験しました。「ああ、このみことばは本当だなあ」と単純に思いました。
 しかし、そのうちに、このみことばは、ただ紛失したものを探しなさい、という意味ではないことが分かってきました。この「求めなさい」というのは、神さまのことを求めるということだということが分かってきました。たとえば、このイエスさまのみ言葉の少し前の箇所で、イエスさまがこのようにおっしゃっています。
(マタイ6:31〜33)"だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。"
 すなわち「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ということです。私たちが生きていくために必要なものは神さまが与えてくださるから、あなたがたは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃる。
 そして、本日の聖書箇所である7節のあとのところではこうおっしゃっています。
(9〜11節)"あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。"
 すなわち、父なる神さまに向かって私たちが求めると、神さまは良いものをくださるということです。求めたとおりのものをくださるのではないかもしれない。しかし、魚を求めたのに蛇を与えるような方ではない。逆に蛇を求めたとしたら、魚を与えてくださるようなことです。本当に私たちのためになる、良いものを与えてくださるということです。
 
   コロナ禍
 
 まもなく「コロナ禍」というものが終わろうとしています。政府の決定により、新型コロナウイルス感染症は、5月8日から、感染症法上の位置付けが「5類感染症」に変更されます。つまり、季節性インフルエンザと同じ扱いになります。
 およそ3年間の災害でした。2020年になって流行を始めた新型コロナウイルスの災害は、3月に当時の安倍首相が学校の臨時休業を要請したことによって一気に緊迫しました。そして4月になって政府から緊急事態宣言が発令されました。当時はこのウイルスは、ペストかなにかのように思われ、社会はパニックのようになりました。
 教会も多くの教会が礼拝を取りやめるか、当教会のように原則非公開といたしました。前代未聞の事態でした。それまで「どうぞ礼拝にお出でください」と言ってきたのが、「来ないでください」と言わなければならない。非常に苦しく、難しい決断でした。いろいろな考え方の違いが表れ、そのような中で、教会を去った人もいました。それはたいへんな痛みでした。私自身迷いの中にいました。神の御心を求めて祈りました。
 また、牧会上も支障をきたしました。それまで病院や施設に当たり前のようにお見舞いに行ったのが、どこも面会禁止となりました。また、この3年間は、前にも増して天に召された兄弟姉妹が多くありました。コロナ禍が始まって23人の兄弟姉妹が天に召されていきました。このようなペースは、今までにないことでした。コロナで亡くなった人はいないのですが、十分に面会もできずに天にお送りしたのはたいへん寂しいことでした。
 私自身、コロナ禍での対応がこれで良かったとは思っていませんでした。何かほかにできることがなかったか、いろいろ心残りに思うこともありました。しかし、この9〜11節のイエスさまのお言葉に、慰めを受けます。少なくとも、神に答えを求め、探し、門をたたいてきた。だから、わたしの思いとは別に、きっと神さまは良いものをくださっているに違いないと思えるのです。そう慰めを受けます。これは本当に感謝です。
 
   求めなさい
 
 この「求めなさい」という言葉は、ギリシャ語の文法では現在命令形という動詞の形になります。それは、一回だけ求めるということではありません。言ってみれば、「求め続けなさい」ということです。言い換えればそれは、私たち信仰者の生涯が「求め続ける」人生であるということです。「探しなさい」も「門をたたきなさい」も同じです。
 「求めても与えられないから求め続ける」のではありません。「求めなさい。そうすれば与えられる」とイエスさまが励まして下さるから、求め続けるのです。イエスさまが与えてくださるから、さらに良いものを求めて求めるのです。
 
 堀場製作所の創業者である堀場雅夫さんという人がいました。この方は「イヤならやめろ!」という本を書きました。仕事がイヤだ、会社がイヤだと文句を言うのなら、やめてしまえばいいと。ただし、やめる前に本気で仕事に取り組むこと。必死になって今の仕事をやってみて、それでも自分には合わないと思ったらやめればいい。本気でやったこともないままにやめるのは、単に逃げているだけだ。そういう趣旨で書いたそうです。それが反響を呼びました。読者からたくさんの手紙が届いたそうです。その多くにはこう書かれていたそうです。「だまされたと思って、今の仕事に本気で取り組んでみました。どうせやめるのだから、最後ぐらい本気でやってやろうと思ったんです。ところが、本気でやればやるほど仕事がおもしろくなっていく。自分はこんなにおもしろい仕事をやっていたのかと気づきました」と。(PHP編集部『1日1編・人生を成功に導く365人の言葉』)
 日本の教会、世界の教会も、あきらめきっていないだろうかと思いました。日本だけではなく、先進国の多くは、教会が壁に突き当たっています。日本では宗教全般が衰えています。教会も退潮傾向です。それを、人々の宗教心がなくなったとか、時代が変わったとか、考え方が多様化したとか、そう言って人のせいや社会のせいにしていないだろうかと思いました。
 世界のキリスト教会は、本気でこのイエスさまの言葉に賭けてみるべきではないかと。そう思います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」‥‥力強い約束です。慰めと励ましに満ちたおことばです。そしてイエスさまの言葉は永遠の約束です。
 
 コロナ禍が収束しつつありますが、収束しても、社会は以前の状態がそのまま戻ってくるのではないでしょう。わずか3年で、社会と時代が大きく変わったようにも見えます。しかし、私たちがこの3年間、未曾有の事態の中で、手探りで迷いつつも祈り求め捜し求めてきたことは、決してムダではないはずです。「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」とおっしゃるイエスさまは、良いものをくださるに違いありません。
 「ビジョンを持つ教会」というのは、昨年度に引き続いての主題です。ビジョン、多くの人々が導かれて共に主を礼拝するビジョンです。あらためて心から求めてまいりたいと思います。


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