2023年4月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ルツ記2章3
    エフェソの信徒への手紙3章20〜21
●説教 「想像を超える」

 
   ルツ記
 
 本日は最初に読んだルツ記の聖書箇所から恵みを分かち合いたいと思います。
 ルツ記は、預言書を除くと、旧約聖書の中で最も短い文書です。そしてそれは、神の愛とご計画というものを私たちに思わせてくれる書物です。
 今日読んだのはその2章3節です。「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」
 ここに「たまたま」と書かれています。しかしそれは、実は「たまたま」ではなくて、神のご計画であったという事実を知ったときに、神の愛が浮かび上がってまいります。
 このルツ記の主人公はルツという女性ですが、もう一人の主人公はナオミという女性です。ナオミはイスラエル人でしたが、イスラエルに飢饉が発生したので、夫と二人の息子と共に、東の隣国であるモアブに避難をいたしました。そのモアブ滞在中に夫が死にました。二人の息子は、それぞれ現地のモアブ人の女性と結婚しました。そのうちの一人がルツです。しかし、ナオミの二人の息子も2人とも死んでしまいました。あとには、ナオミと、それぞれの息子の嫁が残されました。
 そしてイスラエルの飢饉が収まり、ナオミは祖国イスラエルのベツレヘムに帰ることにいたしました。ナオミは2人の嫁に、実家に帰るように言いました。しかしルツのほうは、どうしてもナオミと一緒にイスラエルに行くというのです。ルツは言いました。「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたのなくなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(1:16〜17)
 これを聞くと胸を打たれます。ルツは、お姑さんであるナオミと別れたくなかった。どんなに良い嫁姑関係だったかと思いますが、それだけではないと思います。ルツは「あなたの神はわたしの神」と言っています。モアブ人であり、真の神さま主を知らなかったルツは、ナオミの信仰を見て、真の神である主を知ったのです。そして主を信じるに至ったのです。だからその主を信じるイスラエルに行きたいと思ったに違いありません。
 財産目当てでもありません。その証拠に、イスラエルで2人は極貧生活を送るからです。しかしそういうことは問題ではなかったのです。ナオミはルツを連れてベツレヘムに戻りましたが、女2人で生活するのはむずかしい時代です。たちまち暮らしに困ります。しかし時はちょうど麦の収穫の季節。初夏です。それでルツは、落ち穂拾いに出かけました。落ち穂拾いというのは、麦を買ったときに下にこぼれ落ちる穂を拾います。落ちた穂は、貧しい人のために残しておかなくてはいけないことが、律法で決められていたので、拾うことができるのです。しかし畑の所有者の中にはそういうことを守らない人や意地悪をする人もいるので、落ち穂拾いもたいへんだったようです。
 しかしルツが出かけたのは、たまたまナオミの親族であるボアズという人の畑だったのです。しかもこのボアズという人は、とても真面目でやさしい人だった。そしてモアブ人のルツが、姑であるナオミに尽くしていることを聞いていたのでした。それでボアズは若い衆に命じて、ルツにたくさんの落ち穂を拾わせるため、わざと麦の穂をたくさん落とすようにいたします。そしてやがて、ボアズはルツを妻としてめとります。そしてこのルツのひ孫として生まれるのがダビデです。つまりイエスさまの先祖となるんです。
 ここに至って、すべてが神のご計画であったことが明らかとなります。主は、真の神である主を信じたルツをお用いになったのです。ナオミとルツにとっては、自分たちの思うところをはるかに超える神のご計画であったと言えます。そうすると、たしかにナオミにとっては、飢饉や外国への避難、そして夫や息子の死という試練はありましたが、神に見捨てられたのではなく、神のお守りがあったということを信じることができます。
 
   賛美
 
 本日のエフェソ書の3章20節で「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」と、神さまのことを呼んでいますが、そういうことをルツもナオミも経験したわけです。
 この20節21節は、神を賛美する言葉になっています。前回学んだ14節から、パウロの祈りが記されていました。その祈りの結びは、賛美になっています。祈りは賛美に至るのです。
 
   祈り
 
 14節から記されているパウロの祈りを2回に分けて学んでいます。1回目は、先週学んだ前半部分です。そこでは何が祈られていたでしょうか?‥‥次のようになると思います。
 神が、あなたがたの内なる人を強めてくださること
 心の内にキリストを住まわせてくださること
 愛に根ざし愛にしっかりと立つ者となること
 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解すること
 その愛が人の知識をはるかに超えるものであることを知ること
 神に満ちているものによって満たされること
‥‥私たちがそのようになるようにとの祈りです。私たちがそのようになることは、私たちから出た願いでしょうか?‥‥違います。これは神の願いです。キリストの願いです。私たちがそのようになるようにとの、主の願いです。
 このことは、「主の祈り」の前半が、神のための祈りであることと重なります。しかし本当のことを言えば、神のために祈るということは、それが結局私たちのためとなるということです。神のために祈ることが、私たちのためになる。このエフェソ書の祈りも同様です。
 たしかに、私たち人間がふつう祈る祈りとは違っています。神社にお参りして祈る人の祈りを考えてみれば分かります。は普通は、祈りといえば、この世の生活のことを祈るでしょう。しかしここで祈っている内容は、この世の生活のことではありません。それにはイエスさまがおっしゃったことと関係があると思います。
(マタイ6:31〜34)"だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。"
 すなわち、私たちにとって何が必要かを神はご存じであるということです。生活の心配も神さまがご存じである。そして必要な物を与えてくださっている。私たちが祈る前からご存じでいて下さる。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われます。
 しかし私たちは普通逆なんですね。まず生活の心配が取り除かれてから、神に従っていこうと考えます。しかしイエスさまのおっしゃったことはその逆なんです。まず神の国と神の義を求めなさい、神さまのことを求めなさいと言われます。そしてエフェソ書の祈りでは、私たちが神の願う人となるように祈っています。
 
   賛美と感謝
 
 そしてきょうの20節21節では、その祈りが賛美に至っています。我々に必要なものを神がご存じであり、与えてくださるゆえに、神を賛美することができるのです。
 「キリスト・イエスによって」とあります。キリスト・イエスによって神の栄光が現れるというは当然のことでしょう。しかしもう一つの「教会により」という言葉については、驚きかも知れません。つまり、教会というものが、神の栄光が現れるために、なくてはならないものということになります。教会はあってもなくてもよいものではなく、なくてはならないものだということです。それゆえ、このエフェソ書の1章23節では、「教会はキリストの体である」と言われていたのです。
 なぜ教会かということですが、教会は礼拝です。キリストを信じて神を礼拝する者の群れが教会です。ですから教会は礼拝であるということができます。そこに神の栄光が現れる。キリスト教の正教では、礼拝は「祈り」と呼ばれます。これはむかし私が中部教区にいたときに、正教の司祭の先生を招いて講演をしてもらったことがあったのですが、その先生が私たちプロテスタント教会でいう礼拝のことを、「お祈り」「お祈り」と言われたのが印象的でした。つまり、礼拝自体が祈りなんですね。たしかに、祈りとは神さまとの会話であるといいます。礼拝の中では私たちの祈りもありますが、神さまからのみことばも語られます。つまり会話になっているのです。
 その礼拝は、祈りであり、賛美であるということができます。礼拝の中で賛美を何曲も歌います。私は子どもの頃から教会に通っていましたので、こういうものだと思っておりましたが、初めて教会に来られる方にとっては、「なにかよく讃美歌を歌うなあ」と不思議に思われる方もいるようです。なぜ讃美歌を何度も歌うかということについては、いろいろと説明することもできるのですが、しかし言ってみれば、ただ今申し上げたように、礼拝自体が賛美であり祈りであるということだろうと思います。
 そしてなによりも、私たちは主を賛美するために造られたというところにあります。
(詩編102:19)「主を賛美するために民は創造された。」‥‥と書かれているとおりです。私たちが主を賛美し礼拝するのは、主を賛美することによって自分の願いをかなえようと言うことではない。むしろ逆で、私たちは主を賛美し礼拝するために造られたというのです。そこに私たちの喜びがあり、平安があり、神との出会いがあるのです。そうすると、この礼拝自体が私たちの生きる目的であるということになります。
 そして「栄光が世々限りなくありますように」とあります。世々限りなくとは、いつもいつもということでもあります。言うまでもなく、生きておりますと、楽しいこともあれば苦しいこともある。しかしその楽しい中でも苦しい中でも、ということになります。苦しい中でも神の栄光は現れる。神が生きておられるということです。だから、どんなときも主を賛美し、礼拝することができる。そのように私たちは神さまから招かれているのです。
 
   願いや思いをはるかに超えて
 
 「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」、それが私たちの神さまであるといいます。最初にご紹介したルツ記のルツもナオミも、そういう神さまを経験いたしました。
 それはまた、私たちもまた、イエス・キリストによって、そのような神さまであることを確認できるということです。それゆえ私たちは安心して、神さまにゆだねて、主を礼拝し、祈りを重ねることができます。


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