2023年4月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記50章19〜21
    エフェソの信徒への手紙3章14〜19
●説教「四次元の愛」

 
   中断を再開
 
 本日はまたエフェソ書に戻りまして、主の恵みをいただきたいと思います。
 3章の1節を書き始めたパウロは、「キリスト・イエスの囚人となっている」というところで、思いがこみ上げてきたのか、そこから13節まで話が脱線いたします。そこでは自分が囚人として鎖につながれていることについて、なんら心配するに及ばないばかりか、むしろ誇るべきことなのだということを語りました。それは、すべての人をキリストによって救うという神の大きなご計画の中での出来事なのであり、むしろキリストの福音に仕えることのすばらしさを語ったのです。
 そしてきょうの14節で、中断したことを再開いたします。つまり1節の続きとなります。そして書き始めたことは、祈りでありました。手紙に祈りを書いているのです。ひとり自分の部屋で祈るのではなく、このように祈りを手紙に書き記すわけですから、この祈りを共に祈ってほしいということです。それはたとえば、教会のこの礼拝における司会者の祈りや献金奉仕者の祈り、あるいは祈祷会で皆で祈る祈りと同じことになります。この祈りを心を合わせて祈り、共有してほしいということです。
 パウロは14節で「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」と述べています。ひざまずいて祈る。当時は、立って両手を挙げて祈るというのが普通でした。しかしここでは、ひざまずいて祈ると言っています。ひざまずいて祈る場合は、特に重大なお願いがあるときにそうしました。ですからパウロはここで、本当に大事なこととして祈るのです。
 
   祈りについて
 
 キリスト教は祈りの宗教であると言われます。もちろん、多くの宗教には祈りというものがあります。ただ、祈りのない宗教もあります。例えば仏教で言えば浄土真宗です。浄土真宗には祈りがなく、ただ念仏を唱えるのみだといいます。お願い事、心配なことなどはすべて阿弥陀仏にゆだねるんですね。この点はキリスト教と非常によく似ています。イエスさまがおっしゃいました。「あなたがたの父(なる神)は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:9)と。神さまは、私たちに必要なものが何であるかをご存じです。だからそういう意味では、祈る必要がないようにも思える。
 ではなぜ祈るのか?ということになるわけですが、亀谷凌雲先生のエピソードを思い出します。浄土真宗の寺に生まれ、寺を継いで住職となるが、キリストの福音に触れてキリストを信じ、牧師となった人です。その亀谷先生が、ある日キリストの有名な伝道者である金森通倫先生の所を訪ねて質問したときのことです。
「次にきいたのは祈りの問題である。浄土真宗では祈りがありません。弥陀にすべてをゆだね、与えられた弥陀の本願に根ざす救いの念仏を感謝して唱えていれば、ここに無限の満足があり歓喜があるのですから、これ以上祈り求むることは無用なのです。いったいああしてくださいこうしてくださいと求めるのは、すっかり神に任せきっていないからのことではありませんか。神の愛に完全にすべてをゆだねている以上、どうされようがみこころのままになることを喜ぶばかりで、こちらから、何かかにかと要求がましいことを出すのは、かえって無礼ではないものでしょうかとたずねた。先生はこれに説明を与えないで、「君は祈ったことがあるかね」と私にお聞きになった。祈りなき宗教をもって得意としていた私は「祈ったことはありません」と答えた。「それでは祈りは判りませんよ、祈って御覧なさい。祈れば必ず神より力が与えられ、神の臨在に接するのです」といわれた。」(亀谷凌雲、『仏教からキリストへ』、亀谷凌雲先生図書保存会、1986年、p.41)
 私はこの通りだと思います。祈ってみなければ分からない。神さまとの会話が祈りです。私たちの祈る神さまは、生きておられる神さまですから、生きておられる方とは会話しないと始まらない。神さまが死んだ神さまならば、祈っても会話になりませんが、生きておらる神さまですから、そこには命が通い始めるんですね。神さまが生きておられることが分かってくる。そして力が与えられる。それは祈ってみなければ分からないとしか言いようがありません。
 私たちの父なる神さまは、わたしたちに必要なものをご存じです。だから祈る必要がないのではありません。
 何よりも、イエスさまがよく祈られたということを思い起こさなくてはなりません。聖書に記録されているイエスさまの祈りを見ると、例えばヨハネによる福音書の17章を見ると、人々が救われるためのとりなしの祈りです。またゲッセマネの祈りを見ても、ご自分が父なる神に従うための祈りでありました。
 また、賛美や感謝も祈りです。
 
   とりなしの祈り
 
 さて、今日の聖書箇所を見ると、それはパウロのとりなしの祈りとなっています。エフェソの教会の信徒たちのためにとりなして祈っている。その祈りをここに書き記しているということは、あなたがたもこのような祈りを祈りなさいということです。
 15節は、ちょっと分かりにくいかもしれません。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」の中の「家族」という言葉は、私たちが想像する家族よりももっと広い範囲を指す言葉です。民族や部族よりも狭く家族よりも広い意味。そして名前が与えられているというのですから、神さまによって覚えられていることになります。ちゃんと見ていてくださるのです。そこにはユダヤ人も異邦人も違いがありません。私たちも含めてすべての人が神さまによって覚えられている。
 ですからここでパウロは、すべての人に等しく働いてくださる神様に祈っているということになります。
 
   聖霊の働きを求めて
 
 16節の「内なる人」とは、私たちの内側の人ということになりますが、これは何か私たちの中に別人がいるというのではありません。キリストを信じることによって取り戻していく、本来の自分ということです。キリストによって罪が赦され、聖霊が与えられて、神さまが最初に人間をお造りになった極めて良い状態を取り戻していく。私たちが成長していくんです。それが「内なる人」です。
 そして私たちがキリストの愛に根ざして、「愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と祈ります。「愛にしっかりと立つ者となりなさい」と言っているのではありません。言われたって、できるものではありません。だから祈っている。ではどうやってそうなるかと言えば、16節に「その霊により」とありますように、聖霊によってそうなるようにということです。聖霊が働いて、愛にしっかりと立つものとなるように成長していくことを願っているのです。
 
   キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ
 
 そして18節です。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」という。この、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という表現が実に実に味わい深いものだと思います。
 まず「広さ」です。広さというと、算数ではタテかけるヨコですね。この地上のことです。この地上のどこまで行ってもキリストの愛があるということです。
 次に「高さ」。高さというのは、上ですね。どんどん上に向かっていくと宇宙に行きます。そこにもキリストの愛はあるということです。内村鑑三は言っています。現代文に直してみますと‥‥「神が造られた宇宙の中に生きているのだから、恐ろしいことはない。我々が国を去って他の国に行ったとしても、神は必ずそこにおられる。また、私がこの地球を去って木星または水星に行ったとしても、神は必ずそこにおられる。神はオリオン星におられる。プレアデス星におられる。だから遠くこの宇宙をはなれて他の宇宙に至っても、わが父はまたそこにおられる。神と和解して神の子となって、宇宙はうるわしき楽園となるのである。」
 本当にそうだなと思います。
 次に「深さ」です。これは下の方、陰府(よみ)の世界と考えてよいでしょう。死んで陰府に行ったとしても、そこもまたキリストの愛の届かない所ではありません。使徒信条では、十字架上で死なれたイエスさまは、陰府に行かれました。ペトロの第1の手紙3章18節では、イエスさまの霊が陰府に捕らわれている霊たちの所に行って宣教されたと書かれています。このようにして、陰府にまでもキリストは行かれました。ですからそこにもキリストの愛が届いているのです。
 さて、1つ飛ばしたことにお気づきかと思います。そうです。「長さ」です。長さというのを距離と考えると先ほどの「広さ」と同じことになってしまいますが、ここでは時間の長さのことを言っているのだと思います。
 今日の説教題は、「4次元の愛」といたしました。4次元とは、縦、横、高さの3次元に、時間を加えたもののことだそうです。ですから時空を超えた主の愛です。
 
   ヨセフ物語に見られる神の愛
 
 今日もう一箇所読みました旧約聖書は、ヨセフの言った言葉です。しかしこの言葉に至るまでは、長い年月を要しました。ヨセフはイスラエルという名前を神さまからいただいたヤコブの12人の息子の一人でした。そのヨセフが兄たちから憎まれて、結局エジプトに奴隷として売られていったわけです。そして山あり谷ありの人生を送る。そして、無実の罪によって牢獄に入れられる。しかしそのような苦しみの中でも、主がヨセフと共におられるわけです。そしてある日、ヨセフは、エジプト王ファラオの見た不思議な夢を解き明かして、一気にエジプトの宰相抜擢される。奴隷で囚人の身分から、大国エジプトのナンバー2に引き上げられるわけです。
 ファラオの見た夢は、神が見せたもので、7年の大豊作ののちに7年の大飢饉が訪れるという預言でした。それでファラオからエジプトの全権を任せられたヨセフは、7年の大豊作のうちに、せっせと食料を備蓄します。7年の大飢饉に備えるためです。そして7年の大豊作が終わり、続いて7年の大飢饉が訪れる。その飢饉はエジプトだけではなく、近隣諸国を襲いました。しかしファラオのもとにはヨセフが蓄えが穀物がある。それでエジプト国民が、そして近隣諸国の人たちが、ファラオのもとに食料を買い求めに来ます。その中に、ヨセフの兄弟たちの姿もあった。‥‥
 こうしてお話ししていくと長くなりますから、どうぞまだ読んだことのない方は、創世記の37章以下を読んでください。結局、ヨセフは、かつて自分を殺そうとし、結果的にエジプトに奴隷として売られる原因を作った兄たちを赦すんですね。そして父ヤコブと兄弟たちをエジプトへ呼び寄せるに至ります。そして幸せに暮らしていましたが、やがて父ヤコブが年老いて死にます。するとヨセフの兄たちは、父が死んだからには、ヨセフは我々に復讐して殺されるのではないかと心配したんですね。そのときヨセフが言ったのが、きょう読んだ箇所です。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:19〜20)
 兄たちが私を殺そうとし、また奴隷として売ろうとしたけれども、それを神は善に変えてくださった、そして飢饉から多くの人の命を救われた、そのご計画にこの私も用いられたのだと、ヨセフは悟ったのです。エジプトに奴隷として売られてから数十年。今振り返ってみると、そこに神の愛を認めることができる。そうすると、味わった苦難もまた恵みへと変えられていることが分かったことでしょう。主と共に歩むならば、キリストの愛のそのような長さをも確認することができるのです。
 
 このようにして、キリストの愛の「長さ」は、時間の長さの中でもあらわれていることが分かります。そしてこの時間の「長さ」は、神においては永遠の長さです。このエフェソ書では、1章4節で、永遠の昔に神は既に私たちをこの世に生まれさせキリストにおいて救うことを定めておられたと書かれていました。そして今度は、永遠の未来に向かっても、私たちを連れて行ってくださる愛として現れているに違いないと思います。


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