2023年4月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教/棕櫚の主日
●聖書 イザヤ書53章11
    エフェソの信徒への手紙3章10〜13
●説教 「栄光の苦難」

 
   神によって造られた極めて良い私たち
 
 東京のイセアクリニックという美容外科の病院が、2月に、インターネットによって「小中高校生のマスク需要に関する意識調査」というものをしたそうです。この調査の回答者は、全国の小学生30人・中学生135人・高校生135人だそうです。どのように調査したのかが書いてありませんでしたし、サンプル数が少ないですから、あくまでも参考までということになりますが、それらの回答者のうち、約9割の人が「人前でマスクを外すことに抵抗がある」と回答したそうです。これは、政府が3月13日からマスク着用は個人の判断とすると決める前のことですので、それも関係しているのかも知れませんが、興味深かったのは、人前でマスクを外すことに抵抗があるという、その理由です。ふつうに考えると、ウイルスの感染を恐れてマスクを外せないということかなと思いますが、そうではありませんでした。
 小学生では「自分の顔に自信がない」からと答えた人が58.3%、中学生でも64.7%で、いずれもトップ。高校生では「恥ずかしい」からというのが52.8%でトップとなっていました。ちなみに高校生でも「自分の顔に自信がない」は47.2%で第2位となっていました。小中高校生全部を合わせると、マスクを外すのをためらう理由のトップが「恥ずかしい」、第2位が「自分の顔に自信がない」、第3位が「友だちにどう思われるか不安」‥‥ということでした。
 思春期に見られる乙女心といいますか、恥じらいの感情もあるのでしょう。しかし、この調査結果を見て思いましたのは、いずれも他人の目を気にしている、他人と自分を比較しているということです。自分を人と比べて、コンプレックスや不安を持っている。
 前回の聖書箇所で、使徒パウロが「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と書いているのは、決して人と比べてそう言っているのでなく、キリストの光に照らされて、罪人である自分の真の姿が見えてきた結果として言っているのであり、同時にそれは、そんな自分を愛してくださっている神に対する感謝として言っていると申し上げました。しかしこの調査結果は、完全に人と比べています。日本の若者は、諸外国と比べて神を信じる人が少ないと言いますが、それが表れているなと思いました。
 ぜひ真の神さまを知ってほしいと思います。なぜなら、神さまはもともと私たちをすばらしく造られたからです。創世記の第1章31節に、こう書かれています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
 ですから、人の外見や容姿を比べて良し悪しを言うのは人間の罪からきています。神さまは、私たち一人一人をすばらしいものとして造られた。極めて良いものとしてお造りになった。だから、みんな良いのです。「あなたはすばらしく良いのですよ、人と比べる必要など全くないんですよ」と言ってあげたい。聖書をぜひ知ってほしいと思いました。
 
   罪人としての人間
 
 さて、神さまによって極めて良いものとして造られた私たち人間が、どうしてこんなに悪くなってしまったのか、ということは創世記の第3章に書かれているとおりのことです。しかしそれは、もちろん、外見や容姿のことではありません。人間の中身、つまり人間の心です。そこに罪が生じた。そして死ぬこととなった。命の源である父なる神さまに背き、信じなくなったためです。そこに人間の不幸の原因があります。それが聖書の語るところです。
 しかし神は、そのまま人間が自滅していくのを良しとされず、救われる。御子イエス・キリストをこの世に送られた。そしてその御子イエス・キリストは、十字架におかかりになることによって、私たちの罪を負われ、呪いを引き受けて命を献げてくださった。ここに神の愛が現れています。私たちも愛されている。きょうは「棕櫚の主日」であり、きょうから受難週が始まります。ですから、このキリストの十字架の意味と恵みを改めて心に刻む一週間です。
 きょうの棕櫚の主日は、特にキリストのご受難の聖書箇所ではありません。前回の続きのエフェソ書です。しかしやはりここにもキリストの十字架の恵みがその中心にあることはまちがいありません。
 
   神の知恵
 
 きょうの10節は、少々不思議な表現であると思います。‥‥「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが」
 まず「いろいろの働きをする神の知恵」とはなにを言っているのか?‥‥よく考えると、よく分からないような言い方ですね。このことについて、新約聖書学者でもあり牧師でもあった織田昭先生は、「いろいろな知恵」とは、「神さまのなさることはここまで人間の予想を超えているか」と、そういう新鮮な驚きを与える神の知恵のことを言っているのだと述べておられます。想像を超える神さまの知恵に対する驚きです。
 「知恵」というと、なにかちょっと小さい感じがします。頭が良いとか、そんな感じがしてしまいます。そういう人間のような知恵ではなくて、人間の予想を超える知恵、英知です。言葉を変えて言えば、神さまの遠大で深遠なご計画ということです。そういう神さまの英知、ご計画に対する驚きと賛美が込められている。
 神さまのご計画については、これまでも触れられてきました。神さまによって大切に造られた私たち人間。しかし神さまにそむいて、神さまを信じなくなって、自滅への道を歩み始めた人間。その人間を、神さまは放っておくのではなく、救おうとされる。その歴史が、旧約聖書から始まってずっとつづられてきて、新約聖書に至る。そしてその罪人である人間を、十字架によって救うという出来事に至ります。そのようにして救うというのは、誰も考えもしなかったことです。予想もしなかったことです。しかも、神の御子を十字架につけて、引き換えに私たちを救われるという。‥‥まさに驚きとしか言いようがありません。それが神の知恵、神の英知、神の遠大にして深遠なご計画です。
 そして、その想像を超える神の知恵は、聖霊によって教会を建てることに至りました。そして、教会の頭であるキリストは、教会を迫害していたパウロを回心させて、そのパウロをキリストの伝道者となさいました。これもまた人間の予想をはるかに超える神の知恵にほかなりません。
 そしてキリストのために働き、アジア、ヨーロッパの各地に出かけて行ってキリストの福音を宣べ伝えたパウロ。それによって多くの教会ができるに至りました。エフェソの教会もまたパウロの伝道によるところが大きいのです。
 そのようにして、神の驚くべき愛と恵みと英知によって福音を宣べ伝えてきたパウロが、今、このように捕らえられ、囚人となっている。このことについて、教会の信徒たちは動揺していたようです。神によって用いられてきたパウロ先生が、なぜ囚人となってしまったのか?‥‥と。しかしパウロにとっては、囚人となって鎖でつながれていることは、何の問題もないということ。そのことを言うために、1節を書き始めたパウロは、2節から13節まで話を脱線させて述べているわけです。人間の予想を覆される神の知恵は、私が鎖でつながれていても、人間の予想を超えて働かれ、用いてくださるということです。それは神の知恵、神の驚くべき知恵を知ることによって分かると。
 このことは、神のなさるあらゆることについても言えます。たとえば、私たちがなぜ生まれてきたのか?‥‥ということについても、言えるでしょう。私たちはなぜ生まれてきたのか、私たちが生きる意味はなんなのか?‥‥これも私たちが自問自答しても答えはなかなか出てきません。しかし、神が私たちをなぜ生まれさせたか、というように、「神」を主語とした時に、意味が与えられるということです。
 
   天上の支配や権威
 
 次に10節、「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが」の後半のところです。「天上の支配や権威によって知らされるようになった」と書かれています。「天上の支配や権威」とは何のことでしょうか?
 これは二つの考え方があります。一つは、悪魔、悪霊の類いです。この「天上」という言葉が、神の国を指すとしたら、悪魔は神の国で権威を持っているはずもありませんが、天というのは一つではなく、何層にも分かれているという考え方があります。そしてコリントの信徒への第2の手紙の12章でパウロが述べている「第三の天」というのが、天国、神の国であると言えます。ですから、悪魔、悪霊はその下の方ですね。
 もう一つの考え方は、これは天使、御使いを指しているという考え方です。天使は神の使いとしての権威を与えられているからです。
 するとここでパウロが書いているのは、「神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが」ということですから、「神さまのなさることはここまで人間の予想を超えているか」と、そういう新鮮な驚きを与える神の知恵は、教会によって、天使や悪魔に知らされるようになったということになります。つまり天使も驚く、ということになります。
 天使も知らなかったというと、何か天使というのは、私たち人間と神さまとの間の中間の存在のように思っておられる方にとっては、意外に感じることでしょう。しかし、天使というのは、人間よりも上等な存在、というわけではありません。天使も人間も神さまによって造られたものであることには違いないのです。例えばパウロは、コリントの信徒への第1の手紙6章3節では、「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」と書いています。
 悪魔ももとより、天使さえも知らなかった神の救い。罪人となった人間を救うという神の知恵。それは、神の御子イエス・キリストを十字架につけることによって、すなわち神の御子の命に代えて人間を救うという、想像を絶する神の愛、神の英知。それは天使も驚くようなことであるということです。それほど意外であり得ないことが起こったのだと、パウロは言いたいのです。
 それは先ほど述べましたとおり、キリストの教会を迫害していたパウロを回心させ、用いてキリストの伝道者とするほどの英知なのだと。
 私自身を見てもそうです。私は大学生の時に完全に教会を離れ、神を信じなくなりました。いろいろなことがあって、大学を5年かけて卒業したわけですが、その卒業年である5回生の時の10月から就職活動を始めました。そのとき父が、とうとつに「牧師にならんか?」と言いました。しかしそのときはすでに私はとっくに教会から遠ざかり、神もキリストも信じない者となっていて、私の心の中にはキリストのキの字もなかったので、その父の言葉は、全くたわごとのように聞こえたものでした。しかしその私が、今牧師となっているのですから、これも驚くべき神の英知と申しましょうか、ご計画といわざるを得ません。そして私たちがこのようにして主を礼拝しているということも、驚くべき神の英知と言えるに違いありません。
 
   苦難も用いられる
 
 そういう人間の想定を超える神の深遠な英知の中におかれているのだから、パウロが囚われの身となっていることは、いささかも福音の障害とならないと言いたいのです。それが13節の言葉に表れています。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」
 実際、この手紙も獄中から書かれています。そして新約聖書に載っているパウロの手紙は全部で13通ありますが、そのうち獄中で書かれた手紙は5つあります。自由を奪われた獄中で、パウロはかけがえのない手紙を書いたのです。ジョン・バニヤンが、キリスト教会の不朽の名作『天路歴程』を、迫害されて投獄された、獄中においてその構想を練ったのと同じように、パウロが獄につながれたことは、福音伝道にとってなにも障害とならなかったのです。かえって我らの主は、パウロを別の形で用いられたのです。これもまた人間の予想を超える驚くべき神の知恵です。
 ですからパウロは、私の受けている苦難を見て落胆しないでほしい、むしろこれを誇りにしてもらって良いのだと言っているのです。
 なによりも、私たちの主イエス・キリストが、苦しみを受けられたことを忘れてはなりません。キリストの苦しみ、十字架の苦しみがあったからこそ、私たちは救われたのです。そこに驚くべき神のご計画、神の英知があった。その十字架の恵みを覚えつつ過ごす一週間でありたいと思います。


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