2023年3月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記4章13
    エフェソの信徒への手紙3章7〜9
●説教 「つまらない私に」

 
   WBC栗山監督
 
 先週は、野球の世界一決定戦であるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本のチームが優勝しました。テレビに釘付けになった方も多いのではないでしょうか。特に準決勝のメキシコ戦、決勝のアメリカ戦は、まさに映画のようなドラマティックな展開となり、盛り上がりました。大谷翔平、ダルビッシュ、村上様にヌートバーといった選手たちが活躍し、賞賛されましたが、チームを率いた栗山英樹監督も注目されています。選手の選び方、起用の仕方、試合での采配など、見事だったと言われています。
 その栗山監督は、かつてやプロ野球のヤクルト・スワローズで活躍した選手でした。球団に入団した頃、同じチームの同期にはすばらしい選手がいて、プロの世界の厳しい現実を突きつけられ、「レベルが高すぎて、ここに来ちゃいけないんだ」と思ったそうです。そんな栗山選手を救ってくれたのが、当時のヤクルトの二軍監督だった内藤博文さんだったそうです。内藤監督はこう言ったそうです。「人と比べるな。お前がちょっとでも良くなってくれたら、それで満足だ」。
 他の選手と比較し、自分はできないと思って余計に苦しむ。悪循環に陥っていた中で、大事なのは自分自身が少しでも成長しようとすることだと気づかされたそうです。(読売新聞2023.3.24)。とてもよい話だと思いました。
 
   最もつまらない者であるわたし
 
 本日のエフェソ書の8節で、パウロは自身のことを「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と言っています。これは、一見、人と自分を比べている言葉のように聞こえますが、実はそうではありません。またこれは儀礼上の言葉でもありません。よく自分や身内のことを紹介するときに、「ふつつかな者ですが」などといいますが、それを他人から「本当にあなたはふつつかな人ですね」などと言われたら腹を立てる。本心からそう言っているのではない。そのように儀礼的に自分のことを「つまらない者」と言っているのではありません。また、自分のことを卑下して、このように言っているのでもありません。自分を卑下して、落ちこんでいるのではないのです。
 「最もつまらない者」という言葉は、ギリシャ語では「最も小さい者」と訳すことができる言葉です。つまりは、取るに足りない者、全く価値のない者であるという意味です。またそれは罪人であるということでもあります。
 そしてこれが、人と比べていっている言葉ではないのなら、どういう意味で言っているかということですが、それは神さまの光に照らされて初めて分かる、本当の自分の姿であるということです。
 たとえば部屋がゴミで散らかってホコリがつもっていても、真夜中に電気もつけずに見ると、全くそれが分からないことに似ています。しかし朝になって光が差し込むと、それが見える。「ああ、こんなに散らかっていたんだなあ」と。そのように、神さまの光に照らされたときに、自分の本当の姿が分かる。
 パウロはかつてはキリスト教会を迫害していた男でした。しかしそれが悪いことだとは少しも思いませんでした。それどころか、それは神さまのためにしていることであって、正しいことであると思っていました。自分のしていることの愚かさ、罪が全然分からなかったのです。そんなパウロの所に天からキリストが現れました。使徒言行録9章3節によると、「天からの光が彼のまわりを照らした」と書かれています。そして語りかけるキリストの声を聞きました。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」。その光に照らされて、パウロは自分の本当の姿が初めて見えてきたのです。自分がつまらない者であり、最も小さい者であることが、分かってきたのです。
 
   パウロに現れたキリストから分かること
 
 ちなみに、教会を迫害していたパウロの所に現れたキリストのできごとから、キリスト・イエスさまという方が、どんな方であるかが分かります。
 まず、イエスさまは生きておられるということです。パウロは、もとはユダヤ教のファリサイ派でした。だからキリスト信徒というのは、十字架で死んだイエスがよみがえったなどと、でたらめを言う連中だと思っていました。しかしこのときイエスさまは、天からパウロに声をおかけになった。すなわち、キリスト信徒が言うとおりだったのです。よみがえったイエスさまは、天に帰られたけれども、本当に生きておられることが明らかになったのです。
 またイエスさまは、教会の敵であったパウロを、回心させ、逆にイエスさまに仕える者となさり、イエスさまの証人となさいました。このことから、キリスト教会を激しく迫害したパウロをゆるすお方であることが分かります。ご自分の敵であった者をゆるす。イエスさまはそういう方であることが分かります。そのことが、きょうのエフェソ書の8節に書かれていることです。
 そういうキリスト・イエスさまのものすごくめぐみと愛に満ちていることを知ったとき、パウロは、自分のようなつまらない者の所にもイエスさまは来てくださった、招いてくださったと言うほかはなかった。それが、「最もつまらない者であるわたしに」という書き方であると思います。そこには、「この私のような者のために」という、キリストへの感謝、神さまへの感謝が表れています。
 そうすると、これは私自身のことではないかと思えてきます。なぜ自分のような者が牧師として立てられたのか?‥‥人と比べるとすると、人間として良くできた牧師はたくさんいます。話のじょうずな牧師もたくさんいます。しかし、そのように人と比べてみても仕方がない。自分の命を救ってくださったキリストを、恩知らずにも見捨て、自堕落な道へと進んでいったわたしを救ってくださったキリスト・イエスさま。その尊い愛と慈しみを思うとき、この私のような最もつまらない者のところにも、という感謝が生じるのです。
 
   十字架を見て
 
 教会には十字架が掲げられています。なぜ教会は十字架を掲げているか?‥‥もちろん、キリスト者であれば、十字架の意味は知っています。しかし、ともすると十字架に慣れすぎてしまって、十字架を見てもなにも感じなくなってしまいがちになります。
 しかしあの十字架は、キリスト・イエスさまが、ご自分の命を投げ打って私たちを救ってくださったしるしです。十字架は、もともとは単なる死刑台です。ローマ帝国の死刑の方法の中でも、もっとも残酷な死刑の方法です。そこにイエスさまは張りつけにされました。それは、単なる冤罪で張り付けになったというのではない。神の御子であるイエスさまが、我が身を投げ打って、私の代わりに罪を負ってくださり、また呪いを引き受けてくださった。
 それはいったい誰を救うためにといえば、他の誰でもない、この私を救うために、という。この滅び行く私のために、この小さな者のために、この最もつまらない私のために‥‥という驚き。滅んでしまっても文句も言えない、この私のために、そしてあなたのためにという。考えられないようなキリストの愛への驚きです。
 それで、「最もつまらない者であるわたし」のためにと、感謝をもって言うことができるのです。それは卑下したのでも、みじめに感じているのでもない。自分のような者を顧みてくださるキリストへの感謝です。
 この世の中は弱肉強食の世の中です。また人間、プライドというものがありますので、自分がつまらない人間であるとは思いたくない。自分が最も小さい者だと思ったりすれば、みじめに思えるだけです。だから、「自分は上等な人間ではないけれども、少なくとも、あの人よりはマシだ」と思って生きている。人と比べて生きている。ですから、人の悪口などを言わないと気が済まないところがあります。そこには平安がありません。
 しかし、イエスさまが、最も卑しめられる十字架にかかってくださった。しかも罪人を救うために、この私を愛して命を捨ててくださったという事実を知ると、安心して自分を正しく見ることができるのですね。無条件で愛してくださるイエスさまという方がおられることを知ったからです。弱い自分を「弱い」と認めることができ、つまらない自分を「つまらない」と自信を持って言うことができる。それは、私という人間がどんなにダメで罪人でつまらない者であったとしても、受け入れて愛して導いてくださるキリストがおられるからです。
 それでパウロは自分のことを「聖なる者たちの中で最もつまらないものであるわたし」と、本当に思っていること告白しているのです。この場合の「聖なる者たち」というのは、キリストを信じる者たちという意味であることは言うまでもありません。
 
   パウロだけが「最もつまらない者」なのではない
 
 しかし、「最もつまらない者」と自分を指して言うのは、パウロだけではないでしょう。一番弟子のペトロもそのように言うに違いありません。ペトロはイエスさまによって愛されながら、そのイエスさまを見捨て、イエスなど知らないと3度も言った男です。ペトロもやはり自分のことを「最も小さい者」であると言ったでしょう。
 他の弟子たちも似たようなものです。なにしろ、イエスさまを見捨てて逃げて行ったのです。みな、どの面下げて、よみがえられたイエスさまに会うことができるか、という人たちです。しかしやはり、赦され、受け入れられている。だから安心して、自分の弱さを認めることができるのです。そういう自分を受け入れてくださるイエスさまがおられるからです。自分の弱さを喜んで告白することができる。もはや虚勢を張る必要などありません。そこに平安があります。
 
   モーセの場合も
 
 きょうの旧約聖書は、モーセが神さまの招きを断った言葉を読みました。神さまが、モーセをイスラエルの指導者とするために、モーセの所に現れて言葉をかけてくださったのに、断ったのです。
 イスラエルの民を迫害する王の時代に、エジプトに生まれたモーセ。エジプトの王は、イスラエル人に生まれた男の子の赤ちゃんはみなナイル川に投げ込めと命じました。しかし不思議にもエジプトの王女によって拾われ、王宮で育ったモーセでした。やがて成人して、民族意識に目覚めました。イスラエルの民を解放しようと思い立った。しかしその結果、一人のエジプト人を殺してしまい、そのことが王に知れて、遠く外国に逃げて行きました。失敗し挫折したんです。そしてミディアン人の地に落ち延びて、そこで結婚して子供をもうけ、羊を飼って暮らしていました。そして80歳になりました。もう人生の終盤です。しかし神さまは、そのモーセを、エジプトで苦しむイスラエル人を救い出す指導者としてお招きになるため、モーセを呼んだのです。
 モーセは、神さまが自分の所に現れたことに驚きましたが、イスラエルを救い出す指導者となることを断りました。しかし神さまは、「私は必ずあなたと共にいる」とおっしゃって、なおもモーセを説得しようとなさいました。それでもモーセは、イスラエルの民が私を認めるはずがないとか、自分は口下手ですとか、いろいろ言って、神さまの招きを断りました。そして、しまいには、きょう読んだ聖書の箇所のように言ったのでした。「ああ主よ、どうぞ、誰か他の人を見つけてください」。‥‥私なんか無理だ、もう歳だ、口下手だ、つまらない者だ‥‥。40年前の自信満々だったモーセの姿はそこにはありません。代わりに、自分の無力さを悟り、自分が取るに足りないものであることを自覚したモーセがそこにいます。
 しかし神さまは、モーセがそのようになるのを待っておられたのです。モーセが、自分が取るに足りないものであることを自覚するのを待っておられた。主なる神さまに頼らなければ、何もできない自分であることを知るのを待っておられたのです。結局モーセは、杖をもってエジプトに戻り、出エジプトの大事業のために用いられました。モーセの杖は、神が共におられるしるしとなったのでした。
 最もつまらない者で良い。最も小さい者で良い。いやそれが事実です。しかしそれでよい。その最も小さい私を愛し、受け入れ、共に歩んで導いて下さるキリスト・イエスさまがおられるからです。だから安心してついていくことができます。キリストに目を向けるのです。そこにキリストの力が現れます。


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