2023年3月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書46章10
    エフェソの信徒への手紙3章1〜6
●説教 「ご計画」 小宮山剛牧師

 
 普通に讃美歌を歌うのは3年ぶりとなりました。賛美はキリスト者にとってなくてはならないものですので、本当に感謝であります。新型コロナウイルスはウイルスが弱毒化し、流行も収まりつつあります。感染防止対策も、政府のほうがさらに緩和しました。当教会もそれに合わせて大幅にもとの状態に戻していくことといたしました。
 2020年になってこのウイルスの流行が始まって以来、世界は不安と混乱に直面しました。教会も、主から与えられた使命である「伝道」について、大きな制約を受けることとなりました。しかし、本日の使徒パウロの手紙を読みますと、そのような制約は、実は制約ではないということが分かります。さっそくきょうの聖書箇所から、恵みを分かち合いたいと思います。
 
   言いかけて中断
 
 きょうのエフェソ書は、「こういうわけで」という言葉で始まっています。「こういうわけで」というのは、もちろん、ここまで述べてきたことを指しています。おおまかにまとめますと、神が私たちを天地創造の前にお選びになったということが、まず書かれていまました。そして、神の目的が、すべての人がキリストを信じてキリストのからだの一部となり、キリストをかしら、また主として、キリストの下に一つとなることになるということだと書かれていました。それは言ってみれば、究極の救いということになると言えるでしょう。
 そしてきょうの3章1節の「こういうわけで」につながります。しかし、この1節を読んでみますと、「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは‥‥」となっています。この「‥‥」というのは、途中で切れてしまっているわけです。それでこの「‥‥」はどこにつながるかというと、14節まで飛ぶんですね。つまり次の2節〜13節は、間に挟まった別の話になっている。言わば脱線しているんです。
 脱線と言いましても、学校の授業でよく先生が脱線するのは、授業と関係のない経験談やテレビの話かなんかをして、生徒はそっちの方をよく覚えているというのがよくあることですが、パウロの場合はここでまた大切な話をはさんでいます。ここでどうしても言っておかなければならないことがあったのです。
 
   キリストの囚人
 
 パウロは、自分が「キリスト・イエスの囚人となっている」と語っています。「キリスト・イエスの囚人」。これには二つの意味があります。
 一つは、文字通りの「囚人」です。ちなみに、今ではあまり「囚人」という言葉は使いません。刑が確定する前の段階では「未決囚」とか「被告」と言いますし、裁判で刑が確定して刑務所に収容されてからは「受刑者」と呼んでいます。「囚人」と言った場合は、刑が確定する前の未決囚なのか、それとも刑が決まって服役している受刑者なのか、両方を指すことになりますが、パウロの場合は未決囚であり、裁判の判決を待っている段階です。パウロはこの手紙を書いているとき、おそらくローマで囚人となっていました。使徒言行録の最後の所、28章30節によりますと、パウロは自分の借りた家に住みつつ囚人となっていました。自分の借りた家で囚人となっているなんて、それでも囚人と言えるのかと思うかもしれませんが、パウロはローマの市民権を持っていたので、特別扱いなんですね。まだ未決囚ですから。しかし自由ではない。というのは、ちゃんと番兵が付いていて、その番兵と鎖でつなげられていたからです。
 しかし教会の指導者である使徒の一人であり、しかもイエスさまによって使徒とされたパウロが、なぜ捕らえられて囚人となってしまったのか?‥‥信徒たちは、そのように思ったでしょう。「パウロ先生は、どうしてこんなことになってしまったのか?」「神さまは守ってくれなかったのか?」‥‥そういう疑問も起こったでしょう。
 しかしパウロは、自分が囚人になっていることは、残念なことでもなんでもない、いささかも神の栄光を損ねていないということを述べずにおれなかったのだと思います。どうか落胆しないでほしいと。そういう気持ちで、脱線している。
 もう一度1節を見ると、「あなたがた異邦人のために」と述べています。これは「あなたがた異邦人のせいで」という意味ではありません。「あなたがた異邦人に、キリストの福音を宣べ伝えるために」ということであり、「あなたがた異邦人が、私たちと同じキリストの体である教会に属する者となるために」ということです。
 「異邦人」という言葉は、聖書では一般にユダヤ人以外、すなわちユダヤ教徒以外の民を指すと言われますが、ここでは、まだキリストを信じていない人という意味で使っています。すなわち、1節で「こういうわけで」と書いた、その神の偉大なご計画、すべての人をキリスト・イエスさまによって救うためのご計画に仕えるパウロが、異邦人のために働いてきた。その結果として囚人となっているということです。だからそれは残念なことでもなんでもない。むしろ、私が宣べ伝えてきた神のご計画こそ、あなたがたが注目してほしいことだと。そう言いたいのです。
 裁判を待つ未決囚。そして裁判がいつなされるかもよく分からない。明日、ローマ皇帝の前に引き出されて死刑の判決を受けるかもしれないのです。しかしもはやパウロにとっては、そういうことはどうでもよい。パウロにとっては、自分を救ってくださったキリストを宣べ伝えることは、命をかける価値のあるものだと見なしているということです。
 たとえば、パウロが第3回目の世界伝道旅行に出かけて、エルサレムに戻る途中、カイサリアの町に寄ったときのことです。そこで福音宣教者のフィリポという人の家に泊まった。その人の4人の娘が預言者だったのですが、彼女たちが、聖霊の言葉として、パウロがエルサレムで縛られると預言しました。それで教会の人たちが、パウロに、エルサレムに行かないようにしきりに頼みました。
 するとパウロは答えました。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(使徒言行録21:13)‥‥そしてパウロはエルサレムに向かっていき、預言の通り、そこで捕らえられてしまいます。
 すなわち、パウロは身の危険を知りながら、与えられた使命のために進んでいったのです。それが異邦人にキリストの救いを宣べ伝えるということでした。
 世の中には、すばらしいことを雄弁に語りながらも、いざ自分が不利になると、手のひらを返したようになって逃げて行く人がいます。いっぽうでは、自分の信じることを語り続けて命をかける人がいます。いったいどちらが信用できるでしょうか?‥‥パウロは、文字通り、命をかけてキリストを宣べ伝えています。そのようなパウロにとって、囚人となっているということは悲劇ではない。このようなときでも。神さまが最善を成してくださると信じるだけなのです。
 
   キリストに捕らえられた者
 
 「キリスト・イエスの囚人となっている」という、この「囚人」という言葉のもう一つの意味は、キリストによって捕らえられ、キリストに仕える者となっているということです。
 かつてはキリスト教会を激しく迫害していたパウロ。そのパウロを罰するのではなく、救うために現れてくださったイエスさま。そしてイエスさまは、パウロを異邦人にキリストの救いを宣べ伝える者とされた。そしてパウロはそのイエスさまに仕える者となった。「キリスト・イエスの囚人」と自分のことを述べているとき、そこにはそのキリストの恵みに感謝をしつつ言っているのです。
 そういうパウロの伝道者としての熱い思いが、この1節の「‥‥」に表れていると言うことができます。
 コロナ禍が始まってから、対面で集まっての会議はほとんどなくなり、代わりにインターネットを介してのオンラインによる会議や集まりがなされるようになりました。先日も、牧師たちのあるミーティングをしていました。その中で何の話でそうなったかは忘れたのですが、日曜日の夜のテレビ番組に「ポツンと一軒家」というのがありますね。田舎の山奥に一軒だけ建っている家。そういう家に住んでいる人を取材する番組です。町から離れ、人とあまり関わることなく、自給自足のような生活をしている人たち。私が、人里離れるその生活に「あこがれるよね」と言いました。すると友人の牧師の一人が言いました。「でも、小宮山さん、むかし伝道好きだったよね」と。私はその言葉を聞いて、ハッとしました。そうだった。たしかにそうだった。私は伝道一本だった。もちろんそれは、好きとか嫌いとかいうことではなくて、私を救ってくださった生けるキリストへの感謝であるのですが。なにかいつのまにか、情熱を失っていなかったか。悔い改めさせられました。
 しかし、教会ももしかしたら、現状に甘んじてしまうことがあるのではないでしょうか。教会が主から与えられた使命は伝道です。それは神のご計画の中で与えられたものです。逗子教会も、創立された当初は、牧師も信徒もおそらく熱い思いで祈り、仕えたに違いありません。コロナ禍で、全国の教会はどちらかというと、伝道よりも守るほうに腐心してきたように思います。しかし、「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロ」と語るパウロの言葉に込められた、熱い思い感じとりたいと思います。
 
   神のご計画
 
 パウロはきょうの箇所で、「計画」という言葉を何度も使っています。これは神のご計画という意味です。そしてこの「計画」という言葉は、「奥義」とか「秘義」という意味の言葉です。つまり、これまでは秘められていた、あるいは明らかにされていなかったということです。それがキリストによって明らかにされた。イエス・キリストの十字架と復活によって明らかにされた。神がキリストによって人間を救うという、そのご計画が明らかにされたということです。
 ではどうやって明らかにされたのか?‥‥それは「啓示によって」知らされたと言います(3節、5節)。「啓示」とはなにか? 啓示とは、神さまのほうから明らかにしてくださったということです。人間が考えて分かったのではない。神さまが教えてくださった。それが「啓示」です。
 キリスト信仰は、人間が考え出したものではありません。そういう意味では思想ではありません。主義主張でもありません。人間が考えたものではなく、神さまが教えてくださったものです。与えてくださったものです。
 まず、イエスさまご自身が啓示です。神さまがイエスさまを送ってくださった。そして神さまのことを教えてくださった。神さまのご計画を明らかにしてくださった。そして、5節に書かれているように、使徒たちと預言者たちに啓示されました。神さまのほうから聖霊によって、キリストのこと、神さまのことを教えてくださり、明らかにしてくださいました。
 
 昨日、新聞を見ておりましたら、若い人ほど「あの世」を信じる気持ちがあるという調査の結果についての記事がありました。意外ですね。若い人より中高年の方が宗教心があると思っていたのですが、この調査の結果は逆でした。NHK放送文化研究所が行った「日本人の意識」の調査の結果です。ただし、若い世代が信じる「あの世」は、日本の伝統的な宗教に基づいた「あの世」ではなく、身近で聞いた話や漫画の影響で、死んだ人が身近なところで見守ってくれているというように考えているのだそうです。そして自分なりに納得する「あの世」を試行錯誤しながら考えて作っているとのことでした。
 
 しかしどうでしょう。自分で「あの世」を想像してみても、それは何の根拠もありません。もちろん、その根底には、宗教に対する不信や宗教離れがあるのだと思います。しかしキリスト教の場合は、宗教と言うよりも、現にこの地上にキリストが来られたという事実をもとにしています。そして、たしかにゴルゴタの丘で十字架にかかって死なれ、そして復活されたという事実に基づいています。人間が考え出したものではありません。神さまの側から示された啓示です。ご自分の命をかけて、私たちを救ってくださるというキリスト・イエスさまです。
 その啓示を与えられたのは、どこかの教祖だけということではありません。使徒たち、そして多くの預言者たちです。そしてパウロのように、かつてキリスト教会を激しく迫害したようなパウロのところにも、天から現れて救ってくださった。そして実に、この私のような、死ぬばかりだった者をも憐れんでくださって、救ってくださった。その事実に基づいています。
 ですから神のご計画は、私たち一人一人にもあります。私たちがなぜ生まれたか、私たちを通してなにをなさるか、神さまが私たち一人一人に持っておられるご計画というものがあるのです。私のような者にも神さまはご計画を持ってくださっている。愛してくださっている。あらためて、そのことを信じたいと思います。


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