2023年3月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編118編22〜23
    エフェソの信徒への手紙2章19〜22
●説教 「神の住まい」

 
   東日本大震災から12年目
 
 今年も聖歌397番をご一緒に歌いました。聖歌397番「遠き国や」、これは関東大震災の中で、その震災に遭遇した宣教師が作った歌です。この世の地獄とも言える光景、神はこの国を見捨てたのかと思われる未曾有の災害の中で、しかしキリストはあなたを、そして私を慰め、十字架は輝いている。
 昨日、東日本大震災から12回目の3.11を迎えました。テレビや新聞でも、再び震災にちなんだ報道がされていました。その新聞記事(読売新聞)の中に、宮城県の南三陸町のあるご婦人のことが載っていました。あの日、南三陸町では高さ12メートルの津波が押し寄せました。町役場に勤めていた娘さんはその津波で亡くなったそうです。娘さんは秋には結婚を控えていたそうです。お母さんは、その娘さんが就職するときに、地元にいてほしくて町の役場への就職を勧めたのだそうです。それで地元で就職した。そして地震で発生した津波で亡くなってしまった。それで、津波で亡くなったのは「自分のせいだ」と自分を責めたそうです。もちろん、それはその人のせいでもないし、誰のせいでもありません。しかし、自分を責めてしまう。それが愛するものを失ったときの心情であるのだろうと思います。
 形だけは復興は進みました。海岸の復旧・復興は85%の進捗状況、道路は100%完了したそうです。しかしそのように建物やインフラが再建されたから復興というわけでもない。被災地の多くの地域では過疎化がさらに進んだという報道もありました。先ほどのご婦人は、ご友人が、復興とは「腹の底から笑えることだと思う」と言ったのに共感したそうです。たしかに心の傷が癒やされることが、本当の復興に違いないでしょう。
 私たちも、大なり小なり、「あのときこうしておけば良かった」とか、「あんなことを言わなければ違ったはずだ」と、後悔することがあるのではないでしょうか。そういうことがない人はおそらくいないと思います。それがときには非常に大きな傷となって、自分を責めるということがあるという方もおられると思います。
 しかしそのようなとき、イエスさまがペトロの弱さをご存じの上で十字架に行かれたことを思い出したいと思います。「あなたのためなら命も捨てます」と言って誓ったペトロに対して、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に3度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃったイエスさま。ご存じの上でイエスさまは、「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)とペトロにおっしゃいました。そして十字架へ向かって行かれ、私たちの罪を全部引き受けられました。そして十字架で死なれたイエスさまは、よみがえられて弟子たちの前に姿を現し、再び弟子としてくださいました。
 私たちの主イエスさまは、私たちの弱さも何もかもすべてご存じの上で受け入れてくださり、傷を癒やし、導いてくださる方であります。
 
   故郷
 
 きょうのエフェソ書は「従って」という言葉で始まっています。なにが「従って」かというと、その前のところには、私たちがただ神の恵みによって救われたこと、私たちが良い行いをしたから救われたわけでもなく、私たちが何か立派だったから救われたのでもなく、ただキリスト・イエスにある神の恵みによって救われたということ。そして、今や私たちは神の近くに置いていただいているということです。
 そして「従って、あながたがはもはや、外国人でも寄留者でもなく」と続きます。ということは、キリストによって救われる前までは「外国人」であり「寄留者」であったということになります。外国人は、今いる国の国籍を持たない人ですね。寄留者は前の聖書では「宿り人」と訳していました。つまり、居候(いそうろう)であり、そこに住民票がない人です。両方とも、本来自分の住む所ではないところにいるということになります。根無し草、浮き草のようなものです。
 竹森満佐一先生は、このことについて「この世の生活が何かなじまないということは、誰でもなにかの折りに感じることではないか」と述べています。たしかにそうだと思います。この世の中で生きていて、「ここが本当に自分のいるべき所だろうか」と思ったりする。あるいは「この仕事で本当に良いのだろうか」と思ったりする。「ここが自分の居場所になっているように思えない」「なにかなじまない」‥‥そういうことはたしかにあると思います。しかしだからといって、引っ越してもそれは変わらない。仕事を変えても変わらない。やはり、この世の生活が、なにかなじまない。そういうところがどこかにあるように思います。
 それは言ってみれば、故郷を失っているということであろうと思います。外国人や寄留者とは、故郷を離れてきている人たちです。故郷‥‥それは故郷を持つ人にとってはなつかしい、帰るべき場所です。文部省唱歌の「故郷(ふるさと)」という歌が、多くの人の郷愁を誘い、愛されているのもその表れだと言えるでしょう。故郷は、なつかしくあり、旧知の人々がおり、自分を受け入れてくれる所です。
 私にも故郷はありますが、もうそこを出て久しいです。すでに両親はなく、小さい頃から一緒に遊んで育った近所の友人たちもそこには住んでいません。我が家のように出入りした近所の家のおじちゃん、おばちゃんたちも年を取り、また亡くなったりして、様子は大きく変わっています。あのなつかしい頃と同じ故郷は、そこにはありません。この世のものは変わっていくんです。
 あるときテレビで、認知症になった母親を介護している人がインタビューされていました。母親が「帰ろうよ」と何度も言う。帰ると言っても、それは自分の家。だから認知症になって、母親はそれが自分の家だということが分からなくなったのだと思っていた。だから「帰ろうよ」と母親が言うたびに、ここがあなたの家だよと言っていたそうです。しかしあるとき気がついた。「帰ろう」というのは、場所的なことではなく、時間的なことを言っているのではないか、と。つまり「帰ろうよ」というのは、「あのみんなで楽しく過ごした、あの時に帰ろうよ」と言いたいのではないか、と。
 しかし、あの日、あの時のあの場所というのは、もう存在しないのです。時間は流れていって、決して後戻りしないのです。すべてはうつろう。そう考えますと、私たちはたしかに、この世においても帰るべき故郷のない、外国人であり、寄留者であると言えるでしょう。そこで終わりだとしたら、まことにむなしいことです。
 
   神の家族
 
 しかしここで使徒パウロは、「従って、あながたがはもはや、外国人でも寄留者でもなく」と語っています。むなしくなんかないと。「従って、あながたがはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています」と語ります。
 「聖なる民に属する者、神の家族」、神の家族の一員であるといいます。それは神を父と信じる家族です。神の恵みによって、キリスト・イエスさまによって、神を父とする家族であるというのです。この家族とは、教会のことを言っています。教会は神を父とする家族です。ですから教会ではお互いのことを、兄弟姉妹と言います。
 パウロは、この家族は「使徒や預言者という土台の上に建てられています」と語ります。建物のことになぞらえていますが、実際は建物のことではありません。教会とは建物のことではなく、神を父とし、イエス・キリストを信じて礼拝する人の群れのことです。しかしここでは、その教会を建物にことにたとえているんです。そしてここでは石造りの建物にたとえています。
 この教会は、「使徒や預言者という土台の上に建てられています」と。およそ建物というのは土台が肝心です。土台がもろいと建物は倒れてしまいます。教会の土台は使徒や預言者であるといいます。使徒はキリストの復活の証人であり、キリストの言葉を伝えます。預言者は神の言葉を伝えます。そのように、神の言葉、キリストの言葉を基礎として、その上に教会は建っていると言います。みことばが大切であるというのは、こういうことだからです。
 そして、石造りの建物では、その上に石が互い違いに積み重ねられていく。その石が私たちです。つまり私たち一人一人が、建物を形づくる石となっていることになります。ですからそれは浮き草ではありません。外国人や寄留者でもありません。しっかりと組み込まれ、建物を構成する大切な一部となっているんです。
 そしてこの建物の「かなめ石」はキリスト・イエスご自身であるといいます。「かなめ石」という言葉は、聖書によっては「隅のかしら石」と訳しているものもあります。「かなめ石」と「隅のかしら石」ではだいぶ意味が違うそうですが、ここではこの新共同訳聖書に従って「かなめ石」といたします。そうすると、このかなめ石は、石造りの建物においてはたいへん重要な石だそうです。石造りの建築物は、半円形のアーチ構造によって、その上に乗っかる構造物を支えるそうですが、そのアーチ構造の真ん中の石であり、まさにかなめの石だそうです。
 すなわち、キリストは教会の中心でありかなめであるということになります。そのように、教会は、聖書のみことばを土台としていて、その上に私たちひとりひとりがしっかりと組み合わせ合って、キリストをいただき、キリストが中心となって私たちをつなぎ止め、支えてくださる。そしてその教会は、聖霊によって神の住まいとなるのだと語っています。
 人間の故郷は、時間や状況によって残念ながら変化していきます。いつまでも帰ることのできる場所でもありません。しかし神は永遠です。そしてキリストが私たちと同じ石となって教会を形づくってくださっている。揺るぎないものです。ここが私たちが帰るべき本当の故郷です。
 
   神の住まい
 
 もはや外国人でも寄留者でもない。この「外国人」という言葉は「異邦人」という言葉でもあります。
 みなさん、久米小百合さんをご存じでしょうか。現在は、クリスチャンアーティストとして音楽伝道をしておられますが、昔は「久保田早紀」の名前で、「異邦人」という曲が140万枚の大ヒットとなった方です。彗星のごとく登場してスターとなったわけですが、小百合さんは突然荒波にほうり込まれたような日々の中で、久保田早紀という合わない洋服を着せられているような違和感に苦しむようになりました。芸能界の中で、自分こそが異邦人なのではないか?さらに、久保田早紀らしい曲をと期待される重圧にもさいなまれたそうです。「わたしがやりたい曲ってなに?」と葛藤する中で、ふと、幼い頃に教会学校で親しんだ曲を思い出したそうです。自分の心の中に植えられた種は、教会で聞いた讃美歌ではないだろうか。あそこに行けばなにか見つけられるのではないか、と小百合さんは思いきって教会を訪ねたそうです。恐る恐る教会への階段を上ると、ドアの向こうからあたたかい歌声が聞こえてきました。男性アカペラのゴスペルだったそうです。その曲に激しく心を揺さぶられたそうです。それは、流行る・流行らない、うまい・下手、売れる・売れないを超越した音楽の世界だった、と。そうして、讃美歌を歌うために礼拝に通うようになり、さらに「イエスこそ最高の人生のナビゲーター」と語る牧師の言葉に心を捉えられ、信仰が育ち始めたそうです。そして洗礼を受け、芸能界を隠退し、やがて音楽伝道者として再出発をされました。(『人生の転機・きっと明日はいい天気』いのちのことば社)
 私の前任地、富山の教会で、この久米小百合さんをお招きしてコンサートをしたことがありました。とても謙遜な、そして気さくで非常に好感の持てる楽しい方でした。そしてなによりも、ご自分でピアノを弾きながら主を証しする歌が、心に響きました。ここにも本当の故郷を探し当てた方がいると思います。
 教会が聖霊の働きによって、神の住まいとなる。神さまが時々いらっしゃるというのではありません。それでは神さまの別荘みたいになってしまいます。そうではなくて、神の住まいとなる。私たちの中にいて下さるのです。


[説教の見出しページに戻る]