2023年3月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エフェソの信徒への手紙2章11〜18
    イザヤ書52章7
●説教 「壁を打ち壊す」

 
   だから心に留めておきなさい
 
 本日のエフェソ書は、「だから心に留めておきなさい」という言葉で始まっています。「心に留めておきなさい」という言葉は、「記憶しておきなさい」(口語訳)とか「思い出しなさい」(新改訳)という意味にもなります。何を思い出し、心に留めておくべきなのかといいますと、それは要するにキリストによって救われたことです。すなわち、私たちが以前はどんな状態であったのか、そしてどのようにしてキリストによって救われたのか、そのことを思い出して心に留めておきなさいとパウロは語っています。
 イエスさまも、思い出して記憶しておくようにおっしゃっている箇所があります。それは最後の晩餐のところです。イエスさまが十字架にお架かりになる前の晩、イエスさまは弟子たちと食卓を共にされました。その最後の晩餐の時に次のようにおっしゃいました。ルカによる福音書22章19節です。
 "それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」"
 「わたしの記念として」このように行いなさい、とイエスさまはおっしゃいました。この「記念として」という言葉も、「思い出すために」とか「記憶するために」ということです。最後の晩餐は、イエスさまがお架かりになる十字架の意味を表しています。弟子たちを、そして私たちを救うためにイエスさまが十字架につけられて命を投げ出される。その恵みを忘れないで記憶しておきなさいと。聖餐式はその最後の晩餐でのイエスさまの言葉に基づいて、イエスさまの十字架を思い出し、記憶するために行うものです。私たちが以前はどんな状態であったのか、そしてどのようにしてキリストによって救われたか、そのことを思い出して心に留めるのです。
 
   異邦人
 
 では、私たちはキリストによって救われる前はどうだったのか。11節に「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」と書かれています。「肉によれば」というのは、ここでは肉体に割礼という印をつけているユダヤ人から見れば、ということです。異邦人とは聖書では真の神さまを信じていない人のことを指します。
 12節では「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」と書かれています。神を知らずに生きていたと書かれていますが、神を知らなかったわけではないと思うかもしれません。中には、家には神棚と仏壇があって、毎日お供え物をしてお祈りしていたという方もいるかもしれません。しかしここで言う「神」とは真の神さまのことです。生きておられる真の神です。
 また私のようにクリスチャンの家庭で育った者は、天地を造られた真の神さまのことを知っていました。しかしそれは知識として知っていたに過ぎませんでした。この「神を知らずに生きていた」という文言は、直訳すると「神がない」という言葉なんです。つまり神なしに生きていたということです。神さま抜きに生きていた。真の神を知ってはいたけれども、神さまと共に生きていなかったんです。神さまなしで生きて行けると思っていたんです。
 「この世の中で希望を持たず」‥‥この言葉も、「いや、神さま信じていなかったけれども希望はあったよ」と言いたくなるかもしれませんが、今振り返ってみると、本当に自分は希望がなかったなと思います。たとえば「今度の休みの日にはどこに遊びに行こうかな」とか、「給料入ったら、おいしい物を食べに行こう」というような希望はあるわけですが、どこか心の底にある漠然とした不安のようなものですね。ふだんはあまり考えないようにしている、心の底にある不安のようなもの。それを紛らわすために、とりあえず目の前の目標を考えるようにしていたように思います。そのように振り返ってみると、たしかに希望がなかったと言えると思うんです。
 しかし続けて13節で書かれているように、「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」ということです。「キリストの血」というのは十字架ですね。「近い者となった」というのは、神さまのお近くに置いていただいているということであり、もう一つは敵対して離れていたユダヤ人と、お互いに近くなったということでもあります。
 このエフェソ書では、パウロは「キリスト・イエス」という言い方を多く使っています。普通は「イエス・キリスト」という言い方が一般的だと思いますが、エフェソ書では「キリスト・イエス」と言い方が多い。あえて「キリスト」のほうを強調している。キリストであるイエスさま、私たちを救ってくださったイエスさま、と。
 
   隔ての壁を取り壊す
 
 14節では、そのキリスト・イエスさまが、私たちの平和であると述べています。隔てていた壁を取り壊し、二つのものを一つにしたと言います。
 壁を壊して二つのものを一つにしたと言いますと、1989年のドイツのベルリンの壁の崩壊を思い出します。それまで、世界はアメリカと西ヨーロッパを中心とする自由主義陣営と、ソ連を中心とする東側の共産主義陣営に分かれて対立していました。それが、1980年代半ばにソ連にゴルバチョフ大統領が登場して以来、東側の陣営が揺らぎ始めました。そして、ついに1989年にドイツのベルリンを東西に隔てていた壁が民衆によって打ち壊されました。それでベルリンの東西の住民が自由に行き来できるようになりました。それは自由主義の勝利と見られました。その後、ソ連も崩壊し、世界は平和になると思われました。しかし、話はそんなに簡単ではなく、今も世界は平和になるどころか、ますます戦争の危機が高まっているのはご承知の通りです。それは人間の罪というものが、いかに根深く、根本的な問題であるかということを物語っています。
 今日の聖書で言う、二つのものを隔てていた壁というのは何のことなのか? その二つのものというのは、ユダヤ人と異邦人を指しています。なぜユダヤ人などという弱小民族が問題となるのかと言えば、それはみなさんご存じの通り、ユダヤ人とはイスラエル人のことであり、それはすなわち旧約聖書の神の民だからです。彼らは神によって選ばれたアブラハムの子孫であり、割礼というしるしを肉体に帯びており、モーセに与えられた神のおきて、律法を守ってきた人たちです。
 ですから、彼らユダヤ人からしたら、異邦人が救われるはずがないということになる。割礼も受けておらず、神の律法も知らない異邦人が救われるはずがない。そう考えていました。
 
   ユダヤ人だから救われているのでもない
 
 しかし今日の聖書箇所を読んで、誤解してはならないのは、ユダヤ人だから救われているというわけでもないということです。そのことは福音書を読むと、イエスさまがユダヤ人のファリサイ派の人々を厳しく批判されていることからも分かります。また何よりもパウロ自身が誇り高きユダヤ人でしたが、そのパウロはキリスト教会を激しく迫害していた。神の民であるはずのユダヤ人が、神の御子を迫害したのです。それは救われた姿ではありません。
 ユダヤ人は異邦人を、真の神を知らない人たちだと言って見下していた。一方異邦人は、ユダヤ人を偏狭な人々だと思って見下していた。このことは、初めのころ、教会の中でも対立があったようです。それは使徒言行録を読むと分かります。どんな対立かというと、ユダヤ人でイエスさまを信じるようになった人たちの中には、異邦人からクリスチャン担った人も旧約聖書のモーセの律法を守るべきだと主張する人たちがいたのです。そして、このエフェソの教会などでも、そのような対立があったのだと思います。だからパウロはこのようにして手紙を書いて教えているのでしょう。
 それに対してパウロは、15節にあるように、キリストは「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と述べています。律法を守ることによって救われるのではなく、このキリスト・イエスさまを信じることによって救われる。エフェソの教会の信徒たちの目をそのことへ、ただキリストへと向けさせています。
 
   キリストはどうやって壁を取り壊したか?
 
 二つのものが対立する。あるいは、なかなか理解できない。その二つを隔てていた壁を、キリストはどうやって取り壊したのか、打ち壊したのか?‥‥パウロはそのことに目を向けさせます。
 14節に「ご自分の肉において」と書かれています。16節に、「十字架を通して」そして「十字架によって」と書かれています。すなわち、イエスさまがご自分の体を十字架につけて、それによってと。その一点に目を向けさせます。
 そのように神の御子であるイエスさまが、人の子としてこの世に来られて、どうなさったのか、ということです。このことを思い起こすように導きます。キリストは、二つのものを隔てていた壁を、力づくで壊したのではありませんでした。ではどうやってキリストは壁を打ち壊したのでしょうか?‥‥それは、自らの命を十字架で献げることによって壊したのでした。神の子ですから、力づくで罪人である私たちを破壊し、葬り去ることもおできになるはずです。しかしキリストは、代わりに自らを十字架上で滅ぼすことによって、私たちを救われました。
 ここに、キリストの謙遜というものが見えます。私たちを救うために低く下られたキリストです。私たちに仕えられたキリストの姿です。
 
   謙遜
 
 アンドリュー・マーレーという昔の牧師の書いた『謙遜』という本があります。何か地味な題名で、あまり私の興味を引くような題名の本ではありませんでした。しかし今からおよそ40年前、私がまだ教会に戻って間もない頃、尊敬する宣教師の先生からこの本を紹介されました。その本を紹介されたとき、私は「謙遜だなんて、そんなこと聖書に書いてあったかな?」と思ったほどでした。しかし私は、その宣教師の先生に誘われて「謙遜」の学習会に参加し、この本を読み進めていくうちに、実は謙遜というものは聖書に書いてあるどころか、キリストの教えそのものの核心であり、第一キリストご自身が謙遜そのものの方であったことに気がついたのです。
 例えばみなさんも、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ23:12、他)というイエスさまの言葉をご存じだと思います。へりくだる、というのが謙遜です。自分を低くすることです。そして、謙遜の反対が高ぶりであり高慢です。そして謙遜、すなわち自分を低くするという教えは、今のみことばだけではなく、イエスさまのすべての教えの根底に、まさに木の根っこのようにしてあるものであり、イエスさまご自身がそういう方としてこの世に来られたこと。‥‥そういうことを教わりました。
 マーレー先生は、神の与える全き平安と愛、喜びの約束を、私たちが受け取ることを妨げているものが、高ぶり以外の何ものでもないと述べます。また、教会が神の謙遜の欠如のために苦しんでいるといいます。
 たしかに私もそうでした。キリストを信じたのに、平安と喜びがない。あっても一時的で、長続きしない。そもそも私という人間は、自我が強く、目立ちたがりで、自己主張が強い。一を言われると百も言い返したくなるような人間です。謙遜ということとは、ほど遠い人間でした。だから余計にマーレーの本は身に染みました。
 マーレーは、謙遜とは「単に私たちが全く取るに足らないものであるとの意識」であるといいます。自分が取るに足りない者だなんて、反発したくなる人もいることでしょう。しかし事実です。聖書をよく読めば読むほど、自分が実は取るに足りない者であることが分かってきます。それが罪人であるということです。そうすると、自分が本当に消えてなくなってしまいそうにも思われます。
 しかしキリスト・イエスさまのすごいところは、そんな取るに足りない罪人である私のために、命をかけてくださったというところです。この私という人間を救う価値があると見なしてくださったのです。そうしてご自分の命を投げ打ってくださったのです。しかもいと高き神の御子がです。考えられますか?‥‥しかしそれがキリストの十字架です。驚くべき謙遜です。キリストはそのように、私たちを救うために仕えてくださった。身を低くしてくださったのです。
 パウロはそれを見よ、と言っているんです。そのキリストの謙遜、すなわちへりくだりを見よと。お互いが自分の正しさを主張している。この二つの人々よ、この低く下って仕えてくださったキリストに注目しなさい、と。私たちはその低く下って仕えてくださったキリストによって、救われたのではなかったかと。そのことを心に留めておきなさい、記憶しなさい、思い出しなさいと。そう言っているんです。そうすれば、あなたがたが、自分こそ正しいと言って対立しているのが間違っていることが分かるはずだと。
 私たちはそのへりくだって仕えてくださったキリストによって、キリストの体なる教会につなげられ、一つとなっているのだと。その恵みを今一度、思い起こしたいと思います。
 本日最後に歌う讃美歌、『讃美歌21』の175番は、アドベントの時によく歌われる讃美歌です。しかし、取るに足りない罪人であるこの私を救うために来られたイエスさま、そして低くなることの恵みを歌っています。


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