2023年2月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書9章2〜23
    エフェソの信徒への手紙2章8〜10
●説教 「救いのプレゼント」

 
   行いによるのではない
 
 本日のエフェソ書の9節に、「行いによるのではありません」と書かれています。これは、私たちが救われたのは、私たちの行いが良かったから救われたということではない、という意味です。そして次の10節に目を移すと「わたしたちはその善い業を行って歩むのです」と書かれています。
 はて、善い行いをしたから救われたのではないと書いて、そのすぐあとに「私たちはその善い業を行って歩む」と書く。いったい、善い業、つまり良い行いが必要なのか、必要ではないのか、いったいどっちなのだ?と言いたくなるのではないでしょうか。しかしここに、キリストによる私たちの救いというものが、たいへんコンパクトに要約されています。
 
   小さな罪と大きな罪
 
 まず最初の9節の「行いによるのではありません」というのは、私たちが救われて、神の子とされたのは、私たちの行いが善かったから救われたというのではない、ということです。
 前回の個所では、私たちが自分の過ちと罪のために死んでいたと書かれていました。神の御心にかなっていなかったのです。罪人だったのです。神の国に入る資格のない者だったのです。しかし、罪のために死んでいた私たちを、神はキリストによって救ってくださったということが書かれていました。そして今日の所に続きます。すなわち、私たちが救われたのは、「行いによるのではありません」ということです。私たちの行いが善かったから救われたのではない。
 しかしこれは、私たちこの世の人間の普通の考え方と違っています。私たちは普通、そのように考えたくないんです。「行いが善くてもダメだというのなら、だれも善いことをする人がいなくなってしまうではないか?」と思えます。善い人も悪い人も、救われるのは行いによるのではないとしたら、不公平に感じます。この世の中では、大きな罪を犯した人は厳しい罰を受けるのが当たり前です。そして罪を償わなくてはなりません。たとえば、殺人を犯した人と、器物破損の罪を犯した人が同じ扱いということはありません。
 ですから、神さまもそれと同じように扱われると思うのが普通の感情です。大きな罪人、小さな罪人という具合にです。
 
   誇る
 
 むかし、あるところで、元ヤクザの人たちが回心してクリスチャンになって作った伝道団体である「ミッション・バラバ」を招いて、超教派の集会をしたことがありました。しかし、それに反発した方もいました。その方は「ヤクザがどんなにひどいことをしているか、よく知らないのではないか」というのでした。たしかに、ヤクザだったときにはひどいことをずんぶんしたに違いありません。もちろん、バラバの方々も法律上の罪は償い、悔い改めてキリストを信じて、神さまからも罪赦されたわけですが、それでもやはり、そういう人たちと自分は違うと思いたい。そういう気持ちは分からないでもありません。
 大悪人とは違うと思いたいんです。それは言葉を変えて言えば、どこかに自分の力を頼みたいところがあるのです。自分はそういう人たちとは違う、と。それが、今日の9節の言葉で言えば、「誇る」ということにつながります。
 竹森満佐一先生は、このように書いています。「人間の抜きがたい罪は、自分を誇ることであります。人間は、自分が、自分の罪から救われなければならないことについてさえ、その自分を誇ろうとするのであります。」
 先日、アメリカで中国の気球を戦闘機がミサイルで撃ち落としたというニュースがありました。あの気球は、ヘリウムガスの気球だそうです。ヘリウムは大気より軽いので、高いところに浮かんでいることができます。その気球に穴があいたとしたらどうでしょうか? 小さな穴があくのと、大きな穴があくのと、違いがあるでしょうか?‥‥ゆっくり落ちてくるか、一気に落ちてくるかの違いはあるでしょう。しかし、小さな穴があいても、大きな穴があいても、どっちにしろヘリウムガスが抜けて地上に落ちてくるに違いないでしょう。あの気球は機械がぶら下がっているだけのようでしたが、あれにゴンドラがぶら下がっていて人が乗っていたとしたらどうでしょう。穴があいて気球が落ちていく。乗っている人は、少しでも軽くしようとして、荷物を外に放り投げるでしょう。しかしその努力は全くムダだと思います。結局落ちてしまう。
 前回、罪についてパウロは「過ちと罪」という言葉を使っていました。そして、「過ち」という言葉はギリシャ語では「道を踏み外すこと」だと申し上げました。そして「罪」と訳されている言葉は、「的を外す」という意味だと申し上げました。道が、均台のような道だとしたら、少し踏み外しても下に落ちてしまうでしょう。弓矢も、少しだけそれたとしても、的の中心を外してしまうでしょう。
 そのように、罪の大小は関係ない。神さまから見たら、どちらにしろ罪であるということになります。しかし、神さまは、だからみな滅んでしまえというような神さまではありません。そこに救いがあります。
 
   罪人の救い
 
 「罪」という言葉は、的を外すという意味ですが、なんべん矢を射っても的を外してしまう。それはなぜなのか? それは聖書から考えると、矢が曲がっているからです。たまたまはずれたのではない。矢が曲がっているから、当然はずれる。矢が曲がっていては外れるに決まっています。それが聖書で言う、人間が罪人であるということです。
 すなわち、罪を犯すから罪人になったのではありません。罪人だから罪を犯すのです。だから、良い行いをしようとしても、すなわち的を狙って矢を射っても、外れてしまうのです。だから救うという時、罪人であるこの私を丸ごと救っていただくほかはありません。
 
   パウロ自身の過ちと罪
 
 前回も申し上げましたが、この手紙を書いているパウロは、キリストによって回心させられる前は、ユダヤ教のファリサイ派の一員でした。神を信じ、神のおきてを守ることに熱心になっていました。その結果、神の敵であると見なしたキリスト教会を激しく迫害しました。自分は神のために行動していると思っていた。つまり、善い行いをしていると思っていた。その結果、神の子イエスさまの教会を迫害する結果となってしまったのです。
 パウロは9節で、「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」と書いているわけですが、神のために熱心になっていたと思っていたが、結局は自分を誇るためであったのではないか。だから、自分の過去を振り返る思いでこう書いているのだと思います。みんなからほめられたい、尊敬されたい、「パウロはすごい」と言われたい、認められたい‥‥そのために熱心に神のおきてを守り、キリスト教会を迫害していたのではなかったか。
 結局は自分のためだったんです。罪というのは、聖書では愛のないことを言います。神に対する愛、隣人に対する愛。それが欠けていることを罪といいます。善い行いをしようとして、的を外してしまう。パウロ自身がそうだったんです。
 
   信仰による救い
 
 そしてきょうの聖書は、そんな私たちを救ってくださった神について述べています。具体的にはイエス・キリストが十字架にかかって、この私たちの罪を償って下さった。しかしそれは、私たちの行いによるのではなく、「神の賜物です」と述べています。
 この「賜物」という言葉ですが、英語の聖書は「gift」と訳しています。つまり贈り物ですね。プレゼントです。私たちが罪を赦されて救われたのは、神さまのプレゼントであるという。プレゼントだから、無償です。サンタクロースのプレゼントは、良い子にしていなければもらえないかもしれません。しかしこのキリストによる救いは、どんな罪人でも与えられます。
 8節に「恵みにより信仰によって」と書かれています。また「恵み」という言葉が出てきました。「恵み」というのは、資格がなくても与えられるのが恵みです。救われる資格がない。けれども救われる。それが恵みです。それは神のプレゼントとして、すべての人に差し出されています。そしてそれは「信仰によって」受け取ることができます。キリストであるイエスさまを信じるのです。
 信仰によって、というのは何も難しいことではありません。誰かからプレゼントを差し出されたとき、私たちはどうするでしょうか?‥‥それをもらうのには、ただ手を差し出して受け取ればよい。信仰も同じです。神がイエスさまを差し出してくださった。それをすなおに受け取ればよい。それが信じるということです。「あなたの罪は私がすべて引き受けた」と言われたイエスさまを信じるのであります。何か善いことをしなければならないのではないのです。
 
   善い業を行って歩む
 
 10節に「わたしたちは神に造られたもの」と書かれています。これは、口語訳聖書と新改訳聖書では「わたしたちは神の作品」と日本語に訳しています。私たちは神の作品である。何か神さまが、私たちを大切なものとして造られたという感じがします。
 罪を犯し、悪霊に従い、弓矢の矢が曲がってしまい、その結果、矢を射っても射っても的を外すことになってしまった私たち。すなわち罪人となってしまった私たち。しかし神は、ご自分の作品である私たちを捨ててしまうことなく、曲がった矢である私たちを修理してくださる。そうして神の御心にかなう「善い業」を行うことができるようにしてくださる。最後の箇所の「善い業を行って歩む」というのはそういうことです。
 私たちは善い行いによって救われるのではない。しかしその罪人であるわたしたちをキリストによって救ってくださった神は、私たちを善い業、良い働きをするように用いてくださるということです。神が、そうしてくださるということです。その神さまに信頼し、ゆだねる。そこに証しが生まれます。
 
 このたび、角川書店からすごい本が出版されました。『証し・日本のキリスト者』という本です。これは、ノンフィクションライターの最相葉月(さいしょうはづき)さんが、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国の教会を訪ね歩いて、出会ったクリスチャンにインタビューしたものです。そしてこの本には、百数十人のクリスチャンの証しが載っています。すごい取材力です。
 まだ読み始めたばかりなのですが、その中に、ある年輩の女性の証しが載っていました。それによると、その方は、瀬戸内海のある島で育ちました。10歳の時、ある日、生後3か月の弟をおんぶし、両手には6歳と3歳の弟と手をつないで海辺に遊びに行きました。10歳の子が弟3人の子守をする。むかしは当たり前のようなことでした。海辺に行くと両親が働いている様子が見える。しばらくして帰ろうと思ったら、6歳の弟が、両親を見ていたいのでもう少しここにいるという。6歳だから一人で帰れるだろうと思って、そこに置いて家に帰ったそうです。それが事件につながったそうです。たまたま通りかかった人がいて、弟が死んだらしいと聞こえてきた。どうも海ですべって頭を打って、倒れた様子。彼女はこわくなって、下の弟をおんぶしたまま山に逃げて行ったそうです。どうしよう‥‥と。そのうち山にいるのが見つかって、家に連れ戻された。母は、「お前のせいじゃない。神さまが命を取ったんだから気にするな」と言ったそうです。その神さまとはキリスト教の神さまではなかったのですが。家は三つの宗教を拝んでいたそうです。
 さて、彼女がキリスト教と出会ったのは、ラジオの「ルーテル・アワー」というキリスト教の番組を通してだったそうです。内容は難しくてよく分からなかったけれども、ある日「罪」という言葉が出てきたそうです。それで飛びついた。弟のことが、ずーっと引っかかっていたからだそうです。ああ、これが私の罪なんだと思った。「すべて労する者、重荷を負う者、我に来たれ、われ汝を休ません」(マタイ11:28)という言葉も聞いた。3回ぐらい聴いたそうです。そうしてキリスト教に夢中になった。この人は、のちに大阪に出て、救世軍の教会に行き、伝道者となりました。
 10代の少女が罪に苦しみ、ラジオを通してキリストに出会って救われる。たしかに、弟が死んだことは10歳の少女にとって、何の罪もないと言えるかも知れない。しかし彼女自身には、それが重くのしかかっていたのです。人の罪というのは、その本人でなければ分からないものがあるのではないでしょうか。だれもそれを解決することができない。しかしイエスさまは、それを負って下さった。負って下さることのできる、唯一のお方です。
 そうして、私たちを連れて、神さまのお役に立てるようにして下さっていく。ここに至って、キリストの救いが本当であることが分かってきます。


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