2023年2月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル記下22章17
    エフェソの信徒への手紙2章1〜7
●説教 「死んでいた私たち」

 
   トルコ大地震
 
 報道されています通り、先週、トルコのシリア国境に近い場所を震源とする大地震が起きました。すでに、東日本大震災による死者を上回る数の人が亡くなっています。私たちは、被害に遭われた方々のために心から助けと神の導きを祈っていきたいと思います。
 トルコは日本人の多くにとってはあまりなじみのない国かも知れません。しかし新約聖書では、きわめて関係の深い所です。今読んでいるエフェソの信徒への手紙のエフェソも、トルコにありました。ガラテヤもそうです。また初代教会の時代、多くのキリスト信徒が生まれ、大きなキリスト者の群れ、すなわち教会があったのがトルコのアンティオキアでした。そこはパウロたちの伝道の拠点でもありました。主の助けと慰めがあるように祈っていきましょう。
 
   罪によって死んでいた
 
 さて、前回の所で、教会がキリストの体であると述べたパウロは、本日の箇所では、その教会に加えられた私たちについて、主の恵みを語ります。
 1節に「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」と書かれています。この「以前は」の「以前」というのは、イエス・キリストを信じる前のことです。キリストを信じる以前は、自分の過ちと罪のために死んでいたといいます。この「死んでいた」というのは、もちろん肉体の死ではないことは、皆さまもお分かりだろうと思います。
 例えば「死んでいる」の反対は「生きている」ということになるわけですが、今この私たちは心臓が動いているので、生物として生きているのはまちがいありません。しかしこれが、「あなたは本当に生きていますか?」と聞かれたとすると、最初は何をバカなことを聞くのかと思うでしょうけれども、「あなたは本当に生きていますか?本当の意味で生きていると言えますか?」と繰り返し聞かれたとしたら、「はて、自分は本当に生きていると言えるのだろうか?」と疑問に思われてくるということに似ています。
 ですからこの1節の「死んでいた」というのは、本当の意味では生きていなかった、死んでいた、ということです。そして聖書では、本当というのは神さまに属することですから、ここでは神さまから見たら、死んでいたのだと言っていることになります。
 ではなぜ死んでいたかといえば、「自分の過ちと罪のために死んでいた」というのです。ここの「過ち」という言葉も「罪」という言葉も、聖書では両方とも罪を表す言葉として使われています。ここをもう少していねいに見てみたいと思います。まず「過ち」と訳されている言葉ですが、ギリシャ語では「パラプトーマ」という言葉です。そしてこれは、「道を踏み外す」とか「落ちる」という意味の言葉です。道を歩いていて、道を踏み外してしまう。そして落ちてしまう。
 また「罪」という言葉はギリシャ語で「ハマルティア」という言葉ですが、こちらは「的を外す」という意味です。弓矢が射られたけれども的を外してしまう、ということです。したがって、「過ちと罪」と二つ合わせると、罪とは、私たちが道を踏み外した結果、目的に達しないで終わるという意味になります。
 これはなんの道を踏み外したのか、何の的からはずれたのかということになりますが、神さまが私たちを造られたその目的から外れているということです。私たちが、神さまの願ったとおりに生きていない。その生きる目的からはずれていた、道を踏み外していた。それは本当の意味で生きているのではなかった。「死んでいた」のだと。神さまからしてみれば、「私はあなたをそのように造ったのではない」ということになります。
 
   空中に勢力をもつ者
 
 それは、私たちが聖書で聞き慣れた言葉で言えば「罪人」であるということになります。では私たちはどうして罪人となってしまったのか?‥‥このことについて、竹森満佐一先生は、「人間が罪人であることを罪過と罪だけから説明するのは困難」だと述べています。それで、次の2節がそれを説明することになります。
 そこには、どうして人間が過ちと罪を犯すのかを記しています。すなわち「不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」と述べています。不従順なものたちのうちに働く霊というのは、要するに悪霊のことです。悪魔、サタンの側です。「空中に勢力を持つ」と書かれていますが、空中は天よりも低いですね。ですからそのような霊は、天の神の下に存在しているということで、もちろん神さまのほうが上だということになります。
 そして「今も働く」というのは、それは昔話ではないと言っているのです。創世記の3章、そこにはその昔、エデンの園において、人間が善悪の知識の木の実を食べてしまった物語が書かれています。サタンはそこでは蛇の姿を借りて描かれています。神さまが決して取って食べてはならない、食べると死ぬからとおっしゃった善悪の知識の木。蛇は、エバに対して、「神さまは本当に取って食べてはならないといったのですか?」といい、さらに「食べても決して死ぬことはありませんよ。それを食べると、目が開けて神のように善悪を知るものとなる」と言って、人間にそれを食べることをそそのかしました。それが人間の中の高ぶり、高慢を呼び覚まして、食べてしまった。これを原罪と言いますが、そういうことが書かれています。
 そのサタン、悪霊の働きは今もあるのだとパウロは述べているのです。私たちが知らないあいだに、神さまが用意した道から踏み外すようにさせようとする存在がある。そういう力が働いているのだということです。
 ちなみに、この悪魔の働きについて、ユーモラスに描いている小説に、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』というものがあります。C.S.ルイスと言えば、「ナルニア国物語」の原作者です。『悪魔の手紙』では、スクルーテイプという名前の老練な悪魔が、甥っ子のワームウッドというかけ出しの悪魔に宛てて書いた手紙という設定です。甥っ子の悪魔が担当している人間を、どのようにしてキリスト信仰から引き離し、信仰を悪魔にとって無害なものにしたらよいかということを、手紙によって指導しています。たいへんユーモアに富んでいて面白いのですが、時に読んでいてドキッとさせられます。実に本質を突いているといいましょうか、そういう作品です。
 これは小説ですけれども、実際に悪の霊が働いているのは事実であるということ。それがパウロがここで述べていることです。
 2節の冒頭に「この世を支配する者」と書かれていますが、悪霊がこの世を支配しているわけではないので、ここの訳は新改訳聖書のように、「この世の流れに従い」と訳したほうが良いでしょう。つまり、この世の人々がしているようにということです。みんなそうしているから、みんなそのように生きているからと思って同じように生きているのがこの世である。たしかに私もそうでした。そしてそこに悪魔、悪霊は誘導していく。「キリストを信じるなんて人は少ないですよ」とか「本気で神を信じるなんて、そんなことはばかばはしいことですよ」というような具合です。この世の多くの人が生きているようにすればいいのですよと、導いていく。
 そのように、人間自身の中にある罪と、悪魔の働き、誘導があって、神さまの期待する道を踏み外し、的を外してしまう。そういうことです。
 
   わたしたちも
 
 3節で「わたしたちも」と書いています。つまり、パウロもということです。自分もそうだったとパウロは言っているのです。しかしパウロは、天から現れたキリストに出会うまでは、たしかにキリスト信徒ではありませんでした。しかし、神を熱心に信じるユダヤ教徒ではなかったでしょうか?旧約聖書の律法を熱心に守っていた人ではなかったでしょうか?
 しかしその結果、キリスト教会を激しく迫害していました。神に熱心になるあまり、キリスト教徒を神の敵であると断じ、激しく迫害した。神を熱烈に信じ、神の掟を熱心に守っていたパウロが、神の御子イエス・キリストを激しく迫害した。それはどこかが間違っていたのです。どこかで道を踏み外し、的を外してしまうことになったのです。
 「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と書いています。パウロは神を熱心に信じて従っているつもりだったが、実は肉の欲望の赴くままに生活し、行動していたのだと、自分で告白しています。
 この「肉の欲望」というのは、必ずしも性的なことを指すわけではありません。自分の勝手な考えに基づいて、好むままに、自分本位にしていることです。すなわちパウロは、神の律法に熱心で、神の熱烈な信仰者であると自分で思っていた。しかしなぜそのように神に熱心になっていたかという、心の中の動機はどうだったのか?
 来週あつかう箇所である9節では、「だれも誇ることがないためなのです」とパウロは書いていますが、パウロ自身の心の中に、かつてはそういう心があったのだろうと思います。つまり、ユダヤ教徒として神に熱心になることによって、皆から認められたい、というような心です。そして新しく出てきたキリスト教会を激しく迫害することによって、仲間からほめたたえられたい。パウロってすごい人だと言われたい‥‥そういう心があったのだろうと思います。そしてその心は、純粋に神を信じ、神を求めているというものではない。それもまた肉の思いだということになります。
 いずれにせよ、「わたしたちも」という言葉は、自分も不信仰で悪魔にコントロールされている世の中の人々と、わたしもなんら変わるところがなかったと告白しているのです。
 
   恵みによって救われた
 
 「しかし」という言葉で4節に続きます。「しかし」という。ここに、キリストを信じて救われる前と、信じて救われた後に明確な区別ができる。それは自分が変わったというような実感のことを言っているのではありません。神さまの側の真実を述べているのです。
 5節で「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」という。そして6節で「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」という。それは自分の力でそうなったのではなく、神さまが私たちをそうして下さったのだということです。先ほど悪霊の所で、「空中に勢力を持つ者」とありましたが、天は空中よりも高いのです。その天に私たちを引き上げてくださった。つまりサタンの活動は、キリストによってむだになったのです。
 「死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」というのは、洗礼を思い起こさせます。次のローマの信徒への手紙6章3節4節の言葉です。
(ローマ 6:3〜4)"それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。"
 キリスト・イエスさまが、神の怒りを受けるべきわたしたちに代わって神の怒りを受けて、本当に死んで下さり、そしてそのイエスさまが神によって復活させられた。復活は新しい命、永遠の命です。洗礼はそのキリストの恵みにあずかることなのだと述べています。それゆえ、洗礼によってキリストの体なる教会に加えられたことは、死んでいた私たちが命を取り戻したということになります。
 5節の後半に、線ではさまれた挿入された一文があります。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と。恵みというのは、わたしたちが何か立派だったからとか、良い人だったから救われたというのではないということです。そういうものが何もなかったのに、神が救ってくださったということです。
 そしてそれはなぜかと言えば、4節に戻りますが、憐れみ豊かな神が私たちをこの上なく愛してくださった、その愛によってだというのです。神が私たち一人一人を愛してくださった。なぜ愛してくださったのか?‥‥理由はありません。愛には理由がないからです。良い人だからとか、頭が良い人だからとか、自分に良くしてくれるからとか、だから愛するというのは本当の愛ではありません。愛には理由がないのです。
 この私には愛される理由が何もなかった。なのに神は私を愛してくださった。それが神の愛です。ですから、私たちがキリストのもとに導かれたのは、神の愛のゆえであったと言うことができます。実に驚くべきことです。そしてうれしいことであると思います。考えてみると、こんなにありがたいことはありません。


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