2023年2月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編8編2
    エフェソの信徒への手紙1章20〜23
●説教 「教会の真実」

 
   キリストが満ちている所
 
 本日は最後の23節から見てみたいと思います。そこには謎めいたことが書かれています。
 23節「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
 ここにはまず、教会がキリストの体であると書かれています。たいへん神秘的に聞こえる言葉です。
 そして次のところです。その教会が「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」であると述べています。この「すべてにおいてすべてを満たしている方」というのが、神さまのことでありキリストのことであることは、その前の22節を読むと分かります。しかし「すべてにおいてすべてを満たす」というのはどういう意味なのか?‥‥みなさん、この言葉をイメージできるでしょうか? 「すべてにおいてすべてを満たす」‥‥私にはさっぱり分かりません。もっともこれは翻訳の仕方が悪いというのではなくて、他の聖書と比べてみても、どの聖書も訳し方にたいへん苦労していることが分かります。例えば新改訳聖書ではどう訳しているかと申しますと、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす」となっています。‥‥やはりイメージできません。
 それであれこれ調べていましたら、牧師であり新約聖書学者であった、織田昭先生の書いておられるものに突き当たりました。この先生はすでに亡くなられた方ですが、ギリシャに行ってギリシャ語を学び、さらに『新約聖書ギリシャ語辞典』まで出版された方ですから、たしかに違いないと思います。次のように訳しておられました。23節全体を呼んでみます。
 「だから教会はこの頭につながる体であるし、万物に中身をつめて充実させ給う神の充填物に当たる。」‥‥ここで私は、はじめて納得したという次第です。
 「中身を詰める」。たとえば、それぞれのご家庭にある醤油差し。この小さなガラスの容器は、醤油が入ってこそ醤油差しとなります。醤油が入っていなければ、それはただのガラスの小さな容器に過ぎないのであって、役に立ちません。ですから、醤油差しがからっぽになったら、醤油瓶から醤油を補充いたします。あるいはまた、マヨネーズの容器にマヨネーズが入っていなければ、それはむなしいわけです。そのマヨネーズの容器にマヨネーズを詰める。その詰めた物が教会である。そういうことになります。
 この世界は、そのままでは空虚である。それはまさに空っぽの器のようなものである。しかし教会は、実にこの空っぽの器に、神が中身を詰めてくださるその中身である。なぜ世界は空っぽになってしまったのか?世界の中にあるべき中身がなくなってしまったのか?
 それは人間の罪によってそうなってしまいました。創世記によれば、神が世界をお造りになったとき、神に似せて人間をお造りになり、神と共に人間が世界を治めるようになさったはずでした。しかしご承知のように、その人間が神を信じなくなってしまいました。罪人となったのです。人間が罪人となったことによって、この世界は空っぽになった。言い換えれば空虚なものとなってしまった。中身がなくなったんです。別の言葉で言えば、意味を失ってしまったのです。
 しかし神は、教会をキリストによって中身を詰められた。言い換えれば、満たされた。それと同じように、この世界も教会によって中身を満たそうとされている。醤油差しの容器は、醤油が中に入っていてこそ意味があり、目的を達成します。それと同じように、この世の中は、神とキリストが入っていることによって意味を持つことができ、目的が達成されるということです。教会がそうであるようにです。教会にはキリストが詰まっている。すなわち満ちている。ですから、その教会によって空っぽになってしまった世界の中身を満たし、再び意味を与える。神は、そういうご計画を持っておられる。言い換えれば、世界が教会になるということです。
 教会というものが、そんなにも大きな存在であるということに、驚かされます。
 
   教会はキリストの体
 
 教会とは、もともと教会堂という建物のことではなく、イエス・キリストを信じる者の群れであり、集まりであるということは何度も申し上げてきました。しかしその集まりは、この世のサークルとか企業のような集まりとは全く違っていることが、よく分かります。教会というものは、神さまにとっては、そんなにも大きな尊い存在であるということです。
 しかも教会という群れは、一人では寂しいから集まったというようなものではありません。教会の設立者はキリストであります。次のイエスさまの言葉がそれを示しています。
(マタイによる福音書16:17〜19)"すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」"
 この言葉の解説は省略いたしますが、教会はイエス・キリストによって建てられたものです。そしてそこに私たちがキリストによって招かれ、導かれたのです。
 そしてきょうの23節をもう一度見ますと、「教会はキリストの体」と書かれています。すなわち、神によって引き上げられ、今や天におられるキリストは、この世においては教会によってご自身を表されるということになります。これも考えてみれば、驚くべきことに違いありません。
 
   過ちを犯す教会
 
 さて、では実際のこの世の中に存在している現実の教会はどうでしょうか。それはキリストを表しているのでしょうか?
 私が牧師になってから、キリスト教についていろいろな質問を受けるようになりましたが、その中でももっとも深刻な質問の一つが、「キリスト教会は歴史的に多くの過ちを犯してきたではないか」というものでした。そのような質問を多く受けてきました。たとえば、世界史で学ぶことですが、中世の十字軍。異教徒によって占領されている聖地エルサレムを奪還しようと、当時の西側のキリスト教のトップであるローマ教皇が呼びかけて始まったものでした。それは多くの破壊と殺りくをもたらしました。それが誤りであり、キリストの御心から完全に離れていることは明らかです。そのように、教会は歴史的に過ちを犯してまいりました。キリストの体であるはずの教会が、大きな誤りを犯してきたのです。この十字軍については、20世紀になってローマ教皇が公式に謝罪をいたしましたが。しかし歴史上の大きな汚点であることは事実です。
 キリストの体と呼ばれる教会が、完全ではないどころか、いろいろと問題を抱えている。私自身、子供の頃から教会に通っていましたので、教会でいろいろな問題が起きることを見てきました。そして大学進学と共に新しく行き始めた教会で、その教会の信徒につまずいて、教会を離れました。「こんな人がいる教会なんか、二度と行かない」と心に決めて、教会に行かなくなりました。私は長い間、その人につまずいたと思っていました。しかし後になって、再び教会に戻り、そして献身した後、ある先輩牧師にそのことを話したところ、その先輩はこう言いました。「イエスさまにつまずいたんだね。その人を受け入れているイエスさまにつまずいたんだ」と。私は、目が開かれました。「そうだったんだ。俺は、その信徒の人につまずいたと思っていた。しかし事実はキリストにつまずいたんだ」ということが分かったのです。
 考えてみれば、私自身が罪人です。至らないところだらけです。中には、「あんな人が牧師をしているなんて、教会なんか行かない」と思う人がいるかも知れません。しかし同時に、私の主イエスさまは、こんな私のような者でも憐れんで救ってくださったというのは、動かしがたい事実です。そしてこんな私のような者を、伝道者としてお召しになったというのもまた事実です。こんな私のような者を心に留め、救って、受け入れてくださったキリスト。感謝しかありません。
 そして、そのキリストが教会に満ちていてくださる。私たち罪人を招き、ご自分の体なる教会に加えてくださる。このことが、教会がキリストの体であることを証ししているのだと思います。
 そしてさらにキリストは、そのような私たちを神の子らしくなるように聖霊によって変えていってくださる。成長させてくださる。お見捨てにならないんです。そこに希望があります。
 
   キリストの偉大さ
 
 そして20節21節に戻ります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」
 「この力」というのは前回の個所に書かれていることで、「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」です。
 「すべての支配、権威、勢力、主権」というのは、当時考えられるあらゆる権威と権力をならべていると思われます。現代流に言えば、「大統領、国家主席、総理大臣、国王」というようになるでしょうか。十字架で私たちの罪をになって死んでくださったキリスト・イエスさまを、神はよみがえらせ、天に引き上げてご自分の右の座に着かせられた。そしてこの世のあらゆる支配者、権力ある者の上に置かれた。つまり、この世のトップはイエスさまであるということです。
 実に、そのように見えません。この世界はキリストを無視して動いています。人間が我が物顔で勝手気ままなことを行い、この世の支配者、権力者たちの暴走を、キリストは止めることをなさっていない。そのように見える。戦争を直ちにやめさせない。人間の暴走を傍観しておられるように見える。しかしもし、キリストが罪人を滅ぼす力があるかと言えば、あるわけです。すぐに滅ぼすことがおできになる。しかしその場合は、この私たちも罪人ですから、私たちも滅びることになります。「悪い人たちをやっつけて下さい」と願ったとき、もちろん神はその悪い人たちを直ちに滅ぼすことがおできになりますが、その悪い人の中には私たちも含まれることを忘れてはなりません。
 そうではなくて、キリストは一人も滅びないように、そして神を信じキリストを信じるようになるように、忍耐強く導いて下さっている。私たちを救うために十字架にかかられたキリストは、救うために忍耐強く導いておられる。そして、その救いのわざのためにキリストの体である教会が用いられる。
 
   キリストが教会の頭
 
 そして22節に行きます。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」
 教会がキリストの体であるというとき、キリストが頭(かしら・あたま)である。古代においては、頭は命の源泉であると考えられていたそうです。ですから、キリストが教会の命、そして私たちの命の源泉ということになります。また同時に、頭は、全身を動かす器官です。体は頭がなくては動きません。また頭は、体がないと、つまり手足がないと何もできません。すなわち、体が頭を必要とするように、頭も体を必要といたします。そのように、神はこの世に神の御旨をなさしめるために教会を必要としているということです。すなわち、神さまにとって、教会はあってもなくてもよいものではなく、なくてはならないものであるのです。
 そうして、最初取り上げました、最後の23節につながります。空虚で空っぽになってしまったこの世の中に、神とキリストを詰めるために、すなわち満たすために、神とキリストで満たされている教会を用いる。その教会はキリストの体であるから、教会によってこの世界を満たそうとされている。こうして、神がこの世界をお造りになった最初の極めて良い世界を取り戻される。主は教会を通してそれをなさるというのです。
 私自身、神を離れ、神を信じなくなったとき、中身がなかったなと思い返します。とりあえずおもしろおかしく生きていくということしか考えていませんでした。もちろん、人それぞれ目標というものがあると思います。良い学校に入る、良い会社に入る、良い家庭を築く、老後のために蓄える、健康な老後であるように努力する‥‥。しかしそれらは過ぎ去っていくものです。究極の目標は何でしょうか?
 聖書によれば、神に向かっていくということです。神の国です。キリストが満ち満ちた、キリストの体なる教会の一部として。空の容器は中身が充填されることによって意味を持つように、私たちはキリストによって意味を与えいていただくことができます。
 
   聖餐式
 
 本日はこのあと聖餐式があります。イエスさまは最後の晩餐の時に、パンを手に取って「取って食べなさい、これは私の体である」とおっしゃいました。そしてまた杯を手に取って「皆この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」とおっしゃいました。そのように、キリストの体と血(いのち)をいただく。それもまた、この私の中身をキリストによって満たしていただくことに違いありません。


[説教の見出しページに戻る]