2023年1月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記42章1〜6
    エフェソの信徒への手紙1章15〜19
●説教 「悟り」

 
   礼拝の招詞
 
 一般にプロテスタント教会の礼拝は、「招詞」によって始まります。週報に印刷された礼拝のプログラムでは「前奏」が一番最初にありますが、これは文字通り礼拝の前の奏楽ですから、礼拝自体は「招詞」によって始まります。この招詞では聖書の言葉が読まれるわけですが、神が私たちを礼拝に招いておられることを表しています。つまり、礼拝というものは、なにか私たちが適当に集まってするというのではなく、神が私たちを礼拝に招いておられるのだということです。
 きょうのエフェソ書の1章18節に、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」と書かれていますが、シュラッターという新約聖書学者は次のように述べています。‥‥「神の招きが私たちに差し出されているゆえに、私たちには希望がある。」‥‥ああ、本当にそうだなあと思いました。天地の造り主である神さまが招いておられる。誰をって、私もあなたも、ということです。「ええっ?!」て思いませんか? この、世の中から見たら本当に取るに足りない小さな、全く神に受け入れられる資格のない、この私も招かれている‥‥。おどろきです。
 礼拝は、神がキリストにおいてここにおられるという場です。イエスさまご自身が次のように述べておられます。(マタイ 18:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 ここにキリストがおられる。そのキリストのもとに招かれている。それは良いことのために違いありません。それゆえ、ここに私たちの希望があります。
 
   パウロの感謝
 
 神がなぜ私たちをキリストのもとに招いておられるのか。15節に「こういうわけで」と書かれています。「こういうわけで」というのは、前回まで学んだことです。すなわち、私たちが神さまによって造られ、命を与えられたこと、そしてイエス・キリストによって救われたこと、そして神の国の相続者とされたこと、そしてその目的は、神の栄光をほめたたえるようになることでした。
 そしてパウロは、祈りのたびに、エフェソの教会の信徒たちのために絶えず神に感謝を献げているといいます。エフェソの教会の信徒たちが、まさにそのキリストの救いにあずかっているからです。そして15節にはこう書かれています。「あたなたがたが、主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること」を聞いて、祈りの時に絶えず神に感謝を献げていると。
 パウロは伝道者です。伝道者としてのパウロの喜びはそこにあります。神を知らなかったものが神を知り、神を信じなかったものが神を信じるようになる。自分のことしか考えなかった人が、神を信じるようになり、愛するということを求めるようになる。それは神のわざでありますから、パウロは神に感謝を献げているのです。
 
   パウロのとりなしの祈り
 
 しかし、そこが信仰のゴールということではありません。なぜならそれが救いの完成ということではないからです。むしろそれは、始まりであるからです。たしかに、この手紙の最初のところ、1節では「エフェソにいる聖なる者たち」と書かれています。また、ただ今の15節にも「すべての聖なる者たち」と書かれています。
 しかしこの「聖なる者たち」というのは、このエフェソ書の説教の最初のところでも申し上げましたように、本来は聖なる者ではなかったのです。しかし、キリストによって聖なる者と呼ばれることになった。聖なる者だと見なしていただいた。それを今度は、名実共に聖なる者、神の子と呼ばれるのにふさわしいものとなるように、神が成長させてくださる。ゴールはそちらのほうにあるわけです。そのためにパウロは、続いてとりなしの祈りをささげています。
 パウロはエフェソの教会の信徒たちのために、なにを祈っているでしょうか?
 17節に「神を深く知ることができるようにし」という言葉があります。これは「さらに神を知っていく」と言ってもいいでしょう。「知る」というのは、ここでは勉強して知るということではありません。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし」と書かれているように、「知恵と啓示との霊」によって神を知るということです。「知恵と啓示との霊」って、聖霊の他にそのような霊があるの?と思われるかも知れませんが、これは言い方であって、聖霊が知恵と啓示を与えるということです。
 また、18節と19節に「悟らせてくださるように」とあります。その聖霊があなたがたに悟らせてくださるように、と。「悟る」という言葉が使われています。これは「知る」と訳しても良いのですが、この新共同訳聖書が使っている「悟る」という言葉はとても良いと思います。
 「悟る」というと、「悟りをひらく」という言葉が仏教で使われますので、キリスト教らしくないように感じられるかも知れませんが、私は「悟る」という言葉が非常にピンとくるんです。「知る」というと、何かしらないことを単に知ったというような印象になります。しかし「悟る」と言いますと、それは何か自分を超えた力が働いて本当のことに気がつくというような感じになります。そして事実はその通りです。
 私は何度もそのような経験をしてきました。他の言葉で言えば「腑に落ちる」ということになるかも知れません。「ああ、聖書はこういうことを言っていたんだなあ」というような発見です。そして平安に満たされる。
 18節では、そのために主が「心の目を開いてくださるように」と祈っています。目を開かなければ見えません。では心の目はどうやって開くのでしょうか?
 まず私たちの肉体の目は、どうやってものが見えるかを考えてみましょう。わたしたちの目がものを見ることができるのは、光があるからです。光がものを照らすことによって見えます。逆に光がなくて暗闇であれば、何も見えません。光が照らして見えます。では心の目はどうして見えるのか?‥‥神の光、聖霊の光が照らして見えるようになる。そういうことです。つまりは聖霊の働きによって、心の目が開いて、神の真理が見えるようになるということです。
 
   悟るべきこと
 
 そうして見えるようになって、悟ることができるようにとパウロは3つのことを祈っています。そのことが18節と19節に書かれています。
 第一に、神に招かれて与えられている望みがどんなものであるかということです。神が私たちを招いてくださったのですから、神が用意されている恵みがあるはずです。それに対する望みです。
 第二に、聖なる者、すなわちキリスト信徒が受け継ぐもの、神からいただくものが、どれほど豊かな栄光に輝いているかということです。
 第三に、神が私たち信仰者に対していかに強力に働いてくださっているか、ということ。
 これらのことを悟ることができるように、パウロはとりなしの祈りをしています。つまり私たちの心の目が開かれて、これらのことを悟ることができるようにということでもあります。
 
   ヨブと神
 
 本日の旧約聖書は、ヨブ記の最後の章である42章の中から読んでいただきました。ヨブ記、それは旧約聖書の中でも異彩を放っている書です。ヨブという人がいた。この人は富豪でしたけれども、神を畏れる正しい人で、悪を避けて生きていました。また弱い者、貧しい人を助けているという信仰者でした。まさに申し分のない人でありました。
 ところがこの人に、突然、これでもかというほどの災難が襲いかかるのです。その原因は、天上の世界にありました。ある日、天の国で神の前に御使いたちが集まっていたとき、サタンもやってくるというドラマティックな展開で話は始まります。サタンは、ヨブが神さま、あなたを信じているのは、あなたがヨブを守っているからですよ、ヨブの持っているものを全部奪ってみなさい、ヨブはあなたを呪うでしょうと神に持ちかけるのです。すると神は、サタンがヨブの持ち物のすべてを奪うのを許すんですね。ドキドキいたします。そうしてサタンは出ていって、略奪者に襲撃させたり、天から火を降らせたり、大風を吹かせたりして、ヨブの家畜やら全財産を失わせる。そしてヨブの子どもたちもすべて死んでしまう。‥‥悲劇です。これ以上はないという災難が襲ったのです。しかしそれでもヨブは神を呪うことをしなかった。信じることをやめなかった。
 サタンは再び神の前にやってきて、今度はヨブの健康を奪うことを提案します。すると神はそれも許可なさる。そしてサタンはまた出ていって、ヨブを撃ち、全身にひどいできものを生じさせるのです。それでヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで全身をかきむしる。かゆくてたまらなかったのです。それを見てヨブの妻さえも言いました。「神を呪って死ぬほうがマシでしょう」と。
 しかしヨブの本当の苦しみは、神を信じ、神に忠実に歩んできた自分に、なぜこのような災難が臨むのか、という問いにありました。天の上で、サタンと神さまのやりとりがあったなどということは、全く知らないわけです。ですからヨブの苦しみは、理由なき災難による苦しみでした。理由が分からない。
 ヨブが受けた災難を聞いて、3人の友人がヨブを見舞いにやってきます。友人たちは言葉を失う。やがて友人たちとヨブとの会話が始まります。友人たちは、ヨブが何か罪を犯したので、このような災難が臨んだのだということを言う。それに対して、ヨブは違うという。自分は神に背いていないと。そういうやりとりの応酬が続きます。苦難の理由が何であるのか、生きるとは何か、神を信じるとはどういうことか‥‥そういう隠れた問いが浮かんでは消えていきます。
 神は永遠に沈黙しておられるかのように思われる。しかしその果てに、ついに神ご自身がヨブに語りかけるという展開です。神は、なぜヨブに苦難が臨んだかということはひと言も明らかになさらない。代わりに、神がお語りになったことは、神が造られた自然界の不思議についてお語りになった。そして神が造られた動物の不思議さ。そしてヨブよ、お前はその不思議の一つも知らないし、どうすることもできないではないかと語られる。
 その神さまの長い語りかけが終わった後、ヨブが神さまに語ったのが、きょう読んだ聖書の箇所です。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」とヨブは答えています。悟ったと言っています。神さまは、なぜヨブに非常な災難が臨んだのかを明らかになさらなかった。しかしヨブは、神さまが直接ヨブに語りかけられた。言葉を通して神さまに出会ったわけです。そして神さまの全能と、神さまのご計画というものを悟った。
 言葉を変えて言えば、心の目が神によって開かれ、神をまた一つ深く知ることによって、ヨブはそこに隠された神の愛を信じることができ、平安を得たのだと言えます。そしてラストは、神がヨブの失われた持ち物をお返しになる。主はヨブをもとの境遇に戻し、さらに財産を二倍にされました。ヨブは大きな苦難を経て、主を知りました。もちろん、それは今まで全然知らなかったということではありません。さらに深く主を知ったのです。そして主は、ヨブの終わりを始めよりも多く恵まれたのです。
 
   神を知る
 
 私自身、人生は神を知る歩みであったということができます。最初は、ご利益を求めて教会の礼拝に通っていました。ご利益がないと分かると教会を離れました。再び教会に帰ってきたときには、神さまは本当にいるのではないかと思い始めたときでした。そして信仰告白をした時は、主は本当に生きておられるということを知ったからでした。
 そうして今も、新しく主を知るという歩みの中にいます。主を知るということは、人間を知るということと少し違います。人間は知れば知るほど、がっかりするかもしれません。「こんな人だとは思わなかった」というところがあるからです。しかし主を知るということは全く違っています。主を知るという場合は、「イエスさまがこんなにすばらしい方だとは知らなかった」という知り方になるからです。そして、「こんな人だとは思わなかった」というこの私さえも愛してくださっていることを知ることができるからです。


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