2023年1月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書36章26〜27
    エフェソの信徒への手紙1章13〜14
●説教 「神の保証書」

 
   聖霊の証印
 
 前回は、神が私たちをイエス・キリストによって救うことを、天地の造られる前より決めておられたということが書かれていました。造り主である神さまのもとを迷い出てしまった私たちを、何としても取り戻すという強い神のご意思が感じられます。同時に、この塵に等しい私たちを、御子イエスさまの命に代えても救おうという神の愛があることを知らされます。
 きょうのところはその続きですけれども、この個所で目を引くのは、13節の「聖霊で証印を押された」という文言であり、また14節の聖霊が「保証である」と書かれていることではないかと思います。
 「保証」ということはどういうことかといいますと、身近なところでいえば、例えば電気製品を買ったときなどに「保証書」というものがついてきます。それは、ふつうは1年間の保証と書かれていて、ふつうにこの電気製品を使っていて1年以内に故障した場合は無料で修理することを保証する、というようなものです。つまり確かに約束して責任を持つ場合に「保証」という言葉が使われます。他には、「あの人がちゃんとした人物であることは、私が保証する」というような場合に使います。これも、その人が本当にちゃんとした人物であることを責任持って言う時に使います。
 きょうの聖書では、この保証の内容は14節に書かれているように、「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」です。「受け継ぐ」というのは、前回の「相続」ということでありまして、つまりは神の国を私たちが相続する、神の国が私たちのものとなる、その保証として聖霊が与えられているということになります。
 
   聖霊の付与
 
 聖霊が与えられている。このことについては分かりきっているかもしれませんが、もう一度、いつ聖霊が与えられたかということを振り返ってみましょう。もちろん、それはイエスさまを信じた時ですけれども、使徒言行録第2章のペンテコステの時の出来事の中に、次のように書かれています。
(使徒 2:37〜38)"人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。"
 すなわち、悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受ける。そうして聖霊を受けると言われています。言い換えれば、イエスさまを信じて洗礼を受けて、聖霊を受けるということです。
 
   福音という言葉を聞く
 
 そのことを思い出しつつ、きょうのエフェソ書の13節をもう一度見ますと、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」となっています。なにを言いたいかと申しますと、信じるということの前に、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き」と書かれているということです。福音の言葉を聞くということが、まず先にあった。そうして信じたという順序です。
 そう言われてみると、先ほどの使徒言行録に書かれているペンテコステの出来事のあとの箇所、人々がペトロと他の使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」と尋ねる前には、ペトロが人々に向かって語った演説、演説というよりは説教があったわけです。それを聞いて人々は大いに心を打たれた。大いに心が打たれたのにも、聖霊の働きがあったからですけれども、人々はペトロを通して語られる真理の言葉、福音を聞いたわけです。その言葉を聞いて、心が動かされたのです。
 つまり、なんでも良いから拝め、というのではない。みことばを聞いて拝みなさいということになります。ここが例えば神社の神さまとは違っていることになります。神社の神さまの場合は、神の言葉が語られるということはありません。つまり、その神さまがなにを言っているのかを聞くということがありません。その神さまには言葉がないからです。とにかく、拝むという、こちらの姿勢に価値を置いている。
 それに対して聖書では、神さまの御心がなにかを聞く、ということが最初にあるということです。聖書を見ても、例えばノアはなぜ巨大な箱舟を作り始めたかというと、それは主なる神さまが造れとおっしゃった、その言葉を聞いたからです。また、アブラハムがなぜ75歳にして住み慣れたところから家族を連れて旅立っていったかと言えば、それは主がアブラムに語られた言葉を聞いたからです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。‥‥」(創世記12:1)そういう主の言葉を聞いた。そしてそれに従って行ったのでした。ダビデ王がウリヤの妻と姦淫の罪を犯した時、なぜ悔い改めたかといえば、それは預言者ナタンを通して語られた言葉を主の言葉として聞いたからでした。そして悔い改めた。
 そのように、聖書を見ると、主なる神の言葉を聞くという所に力点があることが分かります。
 私たちのプロテスタント教会が誕生したのも、神の御言葉(みことば)を聞くということを取り戻すためにありました。16世紀、カトリック教会ではラテン語ミサで礼拝がなされ、人々は司祭がなにを言っているのか分からなかった。また御言葉の説教よりも、ミサとか告解とかそういう秘跡と呼ばれるものが重んじられ、多くの人々はそれにあずかっていれば良いのだと思っていた。その上に、いわゆる免罪符と呼ばれるものを買うことによって煉獄というところに行った人の罪が軽減されるということにまでなった。御言葉が軽んじられていったと言うことができます。
 それに対して、マルチン・ルターらの宗教改革者は、聖書の言葉、御言葉を信仰の中に取り戻すために立ち上がり、プロテスタント教会が誕生したということができます。御言葉を聞くことをたいせつにしたのです。取り戻したのです。
 プロテスタント教会の教会堂の内部は、カトリック教会のものに比べてまことにシンプルです。それは、御言葉が中心であることを示すためです。そして、カトリック教会の説教に比べて、プロテスタント教会の説教の時間の方が長く、内容も聖書に密着しているのも、聖書という御言葉の書物を重んじているからです。そして牧師が説教の準備を一週間かけてしているのも、神の御言葉を間違いなく礼拝で届けるためという理由からです。
 
   肉の心
 
 さて、そのように御言葉が大切であるということですけれども、教会の礼拝で、あるいはそれぞれの方が自宅で聖書を読むという時にも、神の言葉を聞こうとする心がなければ耳に入ってまいりません。いくら尊い神の言葉であっても、それを求める心がないと、聞くこともいたしません。たとえば、どなたかが私に、おいしいスイーツの話をいくら熱心に話してくれたとしても、右の耳から左の耳に抜けていきます。それは申し訳ないけれども、スイーツが苦手だからです。本当に申し訳ないのですが。
 きょうは旧約聖書はエゼキエル書36章26〜27節を読んでいただきました。そこで預言者エゼキエルが、主の言葉を取り次いで語っています。主は言われました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」
 この「新しい心を与える」というのは、私たち人間の心を取り替えるということではありません。わたしの心を取り替えたら、それはまったく別人になってしまいます。そうではなくて、ここで「新しい心を与える」というのは、「新しい霊を置く」ということです。ではその新しい霊とは何か?‥‥それは、次の27節で主が語られているように、「わたしの霊」です。つまり神の霊、言い換えれば聖霊です。そのように、聖霊を私たちの中、心に置かれると言われます。
 そして「肉の心」というのは、ここでは悪い意味で使われているのではなくて、「石の心」に対する「肉の心」、つまり柔らかい心を与えると約束なさっている。それはどうやって私たちの心を、かたくなな心から柔らかい心に変えてくださるかというと、それは聖霊によって変えてくださるということになります。そしてそのことが、イエスさまのおかげで、新約聖書になって実現したのです。イエスさまを信じて洗礼を受けることによって、聖霊を与えられるようになったことです。
 そこで私たちは、気がつくわけです。‥‥「かつては神など信じなかった自分が、なぜ今や神さまを信じるようになり、そして御言葉に耳を傾けるようになったのか、分かった!それは聖霊のおかげなのだ」と。「かつては教会など無縁だった自分が、なぜ今教会に来て礼拝をしているのか、そして神の言葉を聞こうとしているのか分かった。それは聖霊の働きなのだ」と。そのように言わざるをえないのです。
 
   聖霊の保証
 
 そして再び最初に戻りますが、聖霊は私たちが救われて神の国を受け継ぐことの保証であると言われているわけです。
 ちなみに13節の「約束された聖霊で証印を押された」「証印を押された」という言葉は、ギリシャ語では「封印された」と訳すこともできます。「証印」と言った場合は、神さまが証印を押したわけですから、この人はたしかにキリストによって神の子となった、神の国を受け継ぐものとなった証拠ということになります。そして「封印された」と訳した場合は、封印というものは、封印した本人か指定された人以外ははがすことができませんので、この場合は、守られているということになります。中身を書き換えることができない。「この人はたしかに神の子となった。神の国を受け継ぐものとなった」ということが、変わらないで聖霊によって守られているということになります。悪魔でさえもそれを変えることはできない。そういう神のお守りの意味となります。
 いずれにしても、キリストを信じて罪を赦された者が、たしかに神の子であり、神の国を受け継ぐ者であることを聖霊が保証し、守ってくださるということです。
 
   神の栄光をたたえる
 
 そしてきょうの聖書箇所の最後ですが、14節の最後にこう書かれています。「こうして、わたしたちは贖(あがな)われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」すなわち、私たちが神の栄光をたたえることになる、それが目的であると述べられています。
 皆さんの中には「エフェソ書は、何度も『神をたたえる』という言葉が出て来るなあ」と、お気づきの方もおられると思います。たしかに先週学んだ12節にも「神の栄光をたたえるためです」と同じ言葉が出てきました。さらにさかのぼると、6節にも「輝かしい恵みをわたしたちがたたえるためです」とありました。さらにその前の3節には「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」とありました。
 神をほめたたえる。この短い間に何度もこの言葉が出てきます。神をほめたたえるということは、神を賛美するということです。神を賛美するということは、聖書では神に感謝するということでもあります。そうしますと、テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節にある「どんなことにも感謝しなさい」という言葉を今までも何度も取り上げてきたわけですが、それと同じことになります。
 どんなことにも感謝する、いつも神を賛美する。どうしたらそれができるかということを、これまでも何度か例を挙げてまいりました。私たちは普通、うれしいことがあれば神さまに感謝し、賛美できるけれども、試練やつらいこと、困ったことが起きた時、あるいは腹が立った時など、とても感謝なんかできないと思うわけです。そこできょうは、また一つ、そういう場合にどうしたら神さまに感謝し、賛美できるかということを申し上げたいと思います。
 それは、こういうことです。試練に出会った時、あるいは困ったことが起きたような時は、「主よ、この問題は私には解決ができませんけれども、あなたには解決する力があることを感謝します。御名をほめたたえます」と言うことができるのではないでしょうか。「私には力がありません。私には無理です。しかし主よ、あなたは全能者です。感謝します。」と言ってほめたたえることができるのではないでしょうか。また腹が立った時には、「主よ、こんなことで腹を立てる私でも愛してくださっていることを感謝いたします」と言うことができるのではないでしょうか?
 それらの感謝に、ウソはありませんね。ウソを言ってはなりませんが、ウソではありません。本当のことです。聖霊が私たちに証印を押してくださっているからです。つまり神さまが「あなたは私のものだ」と言ってくださるからです。こうして私たちは、神の栄光を常にほめたたえることができるのです。


[説教の見出しページに戻る]