2023年1月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エフェソの信徒への手紙1:8〜12
    イザヤ書46:8〜10
●説教 万物の行き先

 
 エフェソの信徒への手紙の連続講解説教を12月11日から始めたわけですが、クリスマス礼拝、元旦礼拝、そして先週は吉住先生の説教でしたので、3週間あいだが開きました。今日から再びエフェソの信徒への手紙を通して神さまの恵みをいただきたいと思います。
 
   相続者
 
 今日の聖書の1章11節にこう書かれています。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
 ここで「相続者」というのは、キリストを信じる私たちのことを指しています。なにを相続するかというと、神さまの約束です。相続というのは、この世の遺産相続を考えてみると分かりますが、親が死んで財産を相続いたします。お金とか土地とかですね。それはもともと親のものだったわけです。自分が努力して得たものではない。しかし、その親のものが、相続することによって私のものとなる。これが相続です。ですから、ここでは、もともと神さまのものであったのを、私たちにくださるということになります。神さまのものである良いものを、私たちにくださる。その相続者とされたということです。それは言葉を変えて言えば、神の子としていただいたということです。子供が親のものを相続するからです。
 ただこれは、私たちが自動的に神さまの相続者とされたのではありません。「キリストにおいて」と書かれていますように、イエス・キリストによって相続者としていただいたのです。しかもそのことは、「御心のままにすべてのことを行われる方」すなわち、神さまのご計画によって前もって定められていたと言われています。ここに、エフェソ書のキーワードの一つである「神の選び」というものがあります。
 
   神の選び(おさらい)
 
 神の選びについては、4節5節を学んだときにも申し上げましたが、そのときは駆け足になりましたので、今回はもう少していねいに考えてみます。それでもう一度4節5節を読んでみたいと思います。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」
 イエス・キリストによって神の子とする、というのは救うということです。そうして神は、私たちを救うことを天地創造の前にすでに決めておられ、定めておられたと述べられています。神は、私たちを救うことを天地創造の前から計画されていて、私たちを選んでおられた。つまり、私たちのことが、宇宙をお作りになるよりも先にあったということになります。これはものすごいことです。神さまは、まず宇宙を造って、世界を造って、それからなんとなく寂しいから私たち人間を作られた、というのではないのです。少なくとも、私たちをお造りになり、しかもその私たちをイエスさまによって救うことまで先に考えておられて、そして天地を造られたという。これを驚かないでいられるでしょうか。なにか圧倒される思いがします。
 しかしここで大きな疑問が同時に浮かんできます。その一つは、わたしたちがイエスさまによって救われることがあらかじめ予定されていたのであるならば、救われない人がいることも予定されていたのか?‥‥という疑問です。もっとはっきり言えば、神は、救われる人と救われない人を、永遠の昔から決めておられたのか?という疑問です。
 もう一つの疑問は、私たちを救うことを天地創造の前から決めておられたのなら、イエスさまの十字架は必要なくなってしまうのではないか?‥‥という疑問です。私たちを救うことが前から決まっているなら、わざわざイエスさまが十字架にかかる必要はないように思えるからです。
 さらにこのことは、この世の中のことは、すべて神さまのご計画通り、寸分たがわず動いているのかという疑問です。天地創造の前から、神さまが描いた設計図通り、こまかなスケジュール通りすべてが進んでいるのでしょうか?‥‥まるで、コンピューターで組んだプログラム通りロボットが動くように、あるいは遊園地のアトラクションの乗り物が制御されたとおり動くように、それと同じように世界も人間も歴史も動いているのか?‥‥そういう疑問です。もしそうだとしたら、神の愛であるとか、罪の赦しであるとか、そういうことは全く茶番になってしまうように思われます。
 
   自由意志
 
 そこで私たちは、もう一度、私たち人間がどのようにして造られたかということを思い出さなければなりません。創世記第1章26節27節です。
"神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを治めさせよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。"
 人間は神に似せて造られた、神にかたどって造られたと書かれています。父なる神とイエスさまがそのように語り合っておられる。この場合の、神に似せて造られたというのは、姿形を似せてということよりも、神が自由な意思をお持ちのように、人間にも自由な意思をお与えになったと言えます。そしてもう一つは、神が愛であるように、人間にも愛することのできる力をお与えになったと言えます。その人間の愛は、エデンの園で罪を犯したときに大半を失ってしまったのですが、愛というのも自由な意思から出て来るものです。たとえば、ロボットが人に親切にして我が身を犠牲にしても人を救ったとしても、それはロボットの回路がそのようにプログラムされているというだけの話しであって、それを愛とは言わないわけです。
 しかし、人間は自由意志を与えられた。それは、もしかしたら人間が神を信じなくなるかも知れないという危険をもはらんでいることになります。しかし自由な意思を持った人間が、その自らの意思によって神を愛するというとき、それは本当に神を愛していることになっているわけです。そのように、ロボットがプログラムされているのとは違って、自由な意思を持つ人間が、自らの意思によって愛する。そこに神さまの喜びがあります。
 例えばおさなごは、自分を愛してくれる人を信頼し、我が身をゆだねます。初めて会った人に対しては警戒します。人見知りをします。無理に抱っこでもしようものなら、大声で泣きます。しかしその人が、いつもいつも愛と笑顔で接し、優しくしてくれ、遊んでくれることが分かると、本当に楽しそうに、うれしそうに接してくれるようになります。そして喜んで抱っこされるようになります。
 神から自由意志を与えられた人間が、恩知らずにも神のもとを出て行ってしまった。神に背いて、神を信じなくなってしまった。その人間が、キリストを通して神の愛を知る。本当に愛してくださっていることを知る。そして神のもとに戻ってくる。そして感謝と賛美をささげる。そういうことです。
 救われる人と救われない人が、永遠の昔から、あらかじめ決まっている‥‥天国へ行く人と地獄へ行く人があらかじめ決まっている‥‥。私はそのようなことを信じません。では、あらかじめ私たちがキリストによって選ばれているというのはどういうことなのか? それは、わたしが救われたのは、わたしの力によるのではないということを言うためです。私が他の人より立派だったから、あるいは少しはマシだったから救われたというのではない。わたしが救われたのは、ただ神の憐れみである。ひとえに神の恵みである。そのことを突き詰めていくと、神が前もってこの私のような者でさえも、救うためにご計画を持っておられたと、感動をもって言わざるをえなくなる。そのように、神さまを賛美し、感謝する告白の言葉が、神の選びということです。
 加藤常昭先生は、このことについて「神が先手を打って下さっていた」と書いておられます。良い言葉だと思います。自由意志のゆえに罪を犯す。そのような私たちを救うために、神が先手を打って下さっていた。それが神の選びです。
 先月クリスマス前に私の父が天に召されたわけですが、ご承知のように葬式において、佐藤千郎先生が、若き日の青年会時代の思い出を語って下さいました。そこで語られたことは、私も知らないことでした。父について知らないことは、もちろん他にももっともっと多くあったに違いありません。いや、この私自身についても私のおさなご時代とか、たくさん知らないことがあるに違いありません。もうその当時のことを知っている人はみな世を去ってしまいました。じゃあ誰も知らないかというと、神はご存じであるわけです。それどころか、永遠の昔から私たちのことをご存じである。そして今日の11節の言葉を借りれば、「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
 竹森満佐一先生は、その著書の中で、この神の予定ということについて、「全知全能の神が私たちを救うために全力を尽くされた」と書いておられます。全宇宙の造り主である全知全能の神が、この小さな罪人の私たちを救うために全力を尽くされた。それが神の選びということに現れている。そして、なによりも、その私たちを救うためにイエス・キリストが十字架にかかられた、その十字架に現れています。
 
   まとめられる
 
 10節に戻りますが、この10節には不思議なことが書かれています。もう一度読んでみます。
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
 この「まとめられる」とはどういうことでしょうか? 実はこの「まとめられる」と日本語に訳されているギリシャ語は、新約聖書で2回しか使われていない言葉になっています。新改訳聖書はこれを「集められる」と訳しています。口語訳聖書は「帰せしめる」と訳しています。どの聖書も翻訳に苦労しているようです。『ギリシャ語・新約聖書釈義事典』というものがあるのですが、そこでは「キリストは万物のあらゆる系列が収斂(しゅうれん)する中心点」と説明しています。
 私たちが存在しているこの宇宙。宇宙物理学者は、この大宇宙は今から約138億年前に突然一点から始まり、猛烈な勢いで膨張し続けて現在の姿になっていると言います。今も宇宙は膨張し続けている。ほとんど私たちの理解を超えたような話です。そして宇宙が未来にどうなるのかについては、いくつか考えられているそうです。このまま無限に膨張し続けて、宇宙は冷え切って何もなくなるという説。逆に、やがていつかは膨張から収縮に転じ、今度は猛烈な勢いで縮まって、もとの一点に戻ってしまうという説もあるそうです。いずれにしても途方もない感じがしますし、しかしそういう宇宙の中に私たちは生きている。そして死んでいく。
 しかしエフェソ書が、「あらゆるものがかしらであるキリストのもとに一つにまとめられる」と語るとき、いずれにしても私たちがキリストに向かっているのだということだけは、はっきりしている事になります。「天にあるものも地にあるものも」というのは、天使などの天界の存在も、地であるこの世に生きている者も、という意味にもとれます。あるいは先ほど述べたように、この宇宙に存在するすべての者もという意味にも受け取れる。
 いずれにしても、私たちも、すべてのものは、キリストへ向かっているということです。キリストに収斂する。キリストに帰する。そしてそのキリストは、私たちを救うために十字架にお架かりになって命を投げ打ってくださった方であることを忘れてはなりません。それは私たちを救うために、すなわち私たちを愛して命を投げ打たれたのです。
 ですから、万物がキリストに向かっているということは、それはキリストに表された神の愛に向かっているということになります。私たちは虚無の世界に向かっているのではありません。私たちは、キリストへと向かっているのです。私たちを愛して止まない、キリストへと向かっているというのです。
 
   神の栄光をたたえるため
 
 12節にまいりましょう。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」
 こうして私たちが神の栄光をたたえる。私たちがキリストを信じて本当に良かったなあ、と思うのは、天の国に行ったときだと思います。本当にその通りだったと。本当にキリストは愛そのものだったと。神の栄光に照らされて、キリストと顔と顔を合わせて、神を礼拝する。その未来が指し示されています。


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