2023年1月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教/元旦礼拝
●聖書 創世記16:13
●説教 「顧みられる神」

 
   ローズンゲンの年の聖句
 
 明けましておめでとうございます。今年の元旦はちょうど日曜日となりましたので、主日礼拝が元旦礼拝ということになりました。それで、聖書箇所をどうしようかと思いましたが、やはり一年の始まりである元旦ですので、今年も『日々の聖句』(ローズンゲン)の「年の聖句」から恵みを分かち合いたいと思います。
 ちなみに、ローズンゲンは今年の版が第293版ということで、293年も毎年出版されているというのはすごいことですね。そして今年の年の聖句は、先ほど読みました旧約聖書の創世記16章13節の中の言葉です。もう一度読みます。
(創世記16:13)"ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。” この中の「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」が今年の聖句です。
 ローズンゲンの今年の版の序文の中に、次のように書かれています。
 「私たちが、そのことばの中に自分自身の人生を再発見する時−時には驚くほど的確に−それは神との生きた出会いとなります。全てのことばが、即座に、自分の疑問や期待に答えてくれるとは限りません。謎めいたことばや、不愉快なことばにも出会います。多くの場合役に立つのは、本文(テキスト)をていねいに読むことです。いつでも聖書に戻り、その文脈を読むことをおすすめします。」
 私たちが、聖書の言葉の中に自分自身の人生を再発見する。分かりやすくいうと、それまではなにか小説や古典文学を読んでいるように思えたものが、突如として、聖書が私という個人に向かって書かれた手紙のように読めてくる。あるいは、テレビドラマを見ていたのが、いつの間にか自分がそのドラマの中に登場人物になっているということでしょう。ドラマの中には予想外の展開もあります。あるいは、期待を裏切るような話になっていくこともあります。しかしそこにも自分自身の姿が重なってくるようなところがある。そのためには、聖書の言葉を丁寧に読むことであるということでしょう。
 
   神の約束
 
 本日の年の聖句は、あるできごとの中でハガルという女性が語った言葉です。ですから、そのできごとについて、背景を含めて少しお話ししなくてはなりません。
 これは創世記のアブラハムの物語の中のできごとです。アブラハムがまだ「アブラム」という名前であった時のことです。ちなみに「アブラム」というのがもともとの名前、「アブラハム」は後に神さまからいただいた名前です。そして聖書の人類救済の物語の本編が、このアブラムから始まっています。すなわち、アブラムが主なる神さまの声を聞いて、住み慣れた土地を離れ、主の導くままに新しい土地へと移る、そこから始まっています。
 アブラムにはサライという名前の妻がいました。サライは後にサラという名前になります。このアブラムとサライの夫婦には子どもが生まれませんでした。しかしアブラムが75歳の時に、アブラムは主の声を聞きます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と。そして主は続けておっしゃいました。「わたしはあなたを大いなる国民にする」と。すなわちこれは、子どもが生まれなかったアブラムに、子どもが生まれるということでもありす。さらに続けて主は、「地上の氏族は、すべてあなたによって祝福に入る」と言われました。これは、世界の民が、アブラムの子孫によって救われるということです。アブラムの子孫とは、のちにお生まれになるイエスさまのことを預言しています。
 いずれにしても、子孫が増えるということですから、子どもが生まれなかったアブラム夫妻に子どもが生まれるということになります。そして、アブラムはその主の言葉を信じて、住み慣れた土地を離れて、主が示される土地へと移っていった。75歳で住み慣れた土地を離れて、どことも分からない、他の民族の土地に移るというのは、たいへんな冒険でした。しかしアブラムは、主の約束を信じて旅立ったのです。
 
   不信仰
 
 しかし、待てど暮らせど、なかなか子どもが生まれない。アブラムも信仰がゆらいであきらめかけた時がありました。そんなときに、主は再びアブラムに語りかけられました。そのことが創世記15章に書かれています。ある夜のこと、主はアブラムを天幕の外に連れ出して、夜空の星を見るようにおっしゃいます。そしてこう言われました。「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)
 夜空の星を数え切ることができますか?‥‥できません。その無数の星を見て、アブラムは再び主の約束を信じました。
 しかしそれからまた何年か経っても、やはり子どもが生まれない。そうした時のことが今日の聖句のある16章となります。かつて主の約束を信じて、この未知のカナンの地に移住してから、はや10年。またもや主の約束に対する信仰がゆらいだのです。最初にしびれを切らしたのは妻のサライでした。サライは、夫アブラムに対して、サライの女奴隷ハガルによって子を産ませようと提案します。自分の奴隷から生まれた子どもは、主人であるハガルの子ということになるからです。それでアブラムも妻の提案に従いました。そうして妻の奴隷であるハガルが身ごもった。
 これはどうしたことでしょう。主の約束を信じられなくなったのです。妻のサライだけではない。アブラムも信仰がゆらいだ。だから妻の提案を受け入れた。あの最初に主の約束を与えられたときの信仰はどこに行ってしまったのか? 75歳にして、主の約束を信じて、全てを主にゆだねて、住み慣れた土地を離れて旅立った、あの信仰はどこに行ってしまったのか? 神さまの約束を捨てて、人間の知恵に頼ろうとするのでしょうか? 神さまのなさろうとすることを無視して、人間が主導権を神さまから奪って、なにか良いことが起きるのでしょうか?‥‥
 しかし私たちは、アブラムとサライ夫婦を軽蔑することはできません。なぜなら、私たちも同じような不信仰があるからです。私たちにも、かつて、主の恵みに目が開かれ、感激と感謝のうちに主を信じて従って行ったときがあったのではなかったでしょうか? この方を信じて従って行こうと決心したときがあったのではないでしょうか?‥‥しかしそれが今はどうでしょうか? それは私たちそれぞれが振り返ってみることです。もしかしたら、そのような熱い心は冷えてしまっているのではないか。そして、「しょせん、信仰とはこんなものだ」と考えてしまっていることがあるのではないでしょうか。もしそうだとしたら、このときのアブラムとサライは他人事ではなくなります。
 
   不信仰の被害者
 
 主人の夫であるアブラムの子どもを身ごもったハガルは、主人であるサライを軽んじるようになりました。その結果、サライは腹を立て、アブラムに言いました。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」と。自分が自分の奴隷を夫に与えておいて、今度は夫を非難する。しかし夫であるアブラムは、「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」(5節)と言った。要するに逃げたのですね。これはアブラムも無責任ですね。
 しかしこのように聖書という書物は、きれいごとを書いていないことが分かります。人間の生の姿です。信仰の父と呼ばれるアブラムでさえ、このような不信仰になったときがあったと、事実を書いているのです。だから、「アブラハムは信仰の父だから、わたしなんてとてもそんなふうになれない」などと思わないでください。
 サライはハガルにつらく当たりました。それでハガルは主人であるサライのもとから逃げていきました。哀れなハガルであります。主なる神への不信仰。それが原因となって、全てのことがギクシャクしていきます。主の言葉を信じ続けなかったばかりに、歯車が狂ってきたのです。
 
   顧みられる神
 
 逃げたハガルは、シュル街道というエジプトへつながる道の泉のほとりにやってきました。そこで主の御使いが現れました。そしてハガルに語りかけました。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(8節)
 「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」‥‥ハガルはエジプト人でした。しかし奴隷として売られたということは、自分の家が非常に貧しかったか、あるいは親もすでにいなかったかというようなことで奴隷として売られていったのでしょう。エジプトに向かう道を歩いてきたとはいっても、帰るべき家もあるわけではない。と言って、他に行くべきところもない。考えてみれば絶望的な状況です。主の御使いが語った「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」という言葉は、一見、答に困るような悲しい問いです。
 しかし、この言葉は、かつての私のことを思い出させるのです。せっかく就職した会社を、体を壊したため、やめなければならなかった。故郷に戻ったものの挫折感で打ちのめされ、この先人生どうしたら良いのかと、うつろな思いでいっぱいだった。それはまさに、「自分はどこから来てどこに行こうとしているのか」という問いそのものでした。そしてその問いは、そのような中でキリストとの出会いがあり、やがて答が分かった。それは「自分は神のもとから出ていって、また神のもとへ帰って来たのだ」と。
 ハガルは自分の境遇を考えると、涙が流れるばかりだったでしょう。奴隷として売られ、主人であるサライの命じるままにアブラムの子を身ごもった。すると今度はサライからいじめられるという理不尽。主の御使いの問いは、行く宛もない自分の心に突き刺さるような思いがしたでしょう。しかも御使いは、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と続けて語りました。自分をひどく扱った主人のもとに帰れというのか?
 しかし御使いの問いは、ハガルを突き放す言葉ではありませんでした。ハガルを救う言葉だったのです。なぜなら、続けて御使いは主の約束の言葉を告げたからです。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」(10節)。そして「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を生む。その子をイシュマエルと名付けなさい主があなたの悩みをお聞きになられたから」と語ったのです。
 主人であるサライのもとに帰っても大丈夫であるということです。主が守ってくださるということです。あなたは無事、そのお腹の中の子を産むことができると。しかもそれが男の子であり、イシュマエルという名前まで主が用意してくださっているという。「主があなたの悩みをお聞きになられたから」(11節)と御使いは告げます。奴隷であり、そんな女奴隷のひとりが死のうが生きようが、誰も気にとめないような小さな存在であったハガル。主はそのハガルの悩み、苦しみを「お聞きになられた」と言われます。
 そこでハガルは主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイです」と言った。それが今日の聖書の言葉であり、今年の聖句です。「エル・ロイ」、それは「私を顧みられる神」という意味です。見ていてくださったのです。しかも罰するためではなく、近づいてくださって、そして助けて下さるために見ていてくださったのです。見ていてくださる主、もうだめだと思われるときにもっとも近くにいて下さる主、そして導きを与えてくださる主。それが「エル・ロイ」の神さまです。顧みて下さる主です。そしてイエスさまがまさにそのようなお方です。
 
   主のみことばを聞きつつ歩む
 
 ハガルは理不尽な目に遭いました。絶望的な状況に追い込まれました。しかしそれゆえにこそ、顧みられる神を知ることができました。
 「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」との主の御使いの言葉。それは、「あなたは神によって命を与えられ、神のもとから出て生きている。その主なる神のもとに帰りなさい」という言葉でもあります。
 先日、たまたまテレビを見ておりましたら、ある有名な料理人のことを取り上げていました。その方は、今までさまざまな困難を乗り越えてきた。その方は、お父さんが漁師だったそうです。それで船のことをたとえとして語られました。船というものは波に向かってまっすぐ進めば転覆することはない。しかし波を避けようとして横を見せると、大きく揺れて転覆する恐れがある。だから、困難なこともまっすぐ向かって行けば乗り越えられると、そう言っておられました。なるほどなあと思いました。
 困難なことがあると、避けたくなります。まっすぐ向かって行きたくない。あるいは、アブラムとサライのように、神さまを忘れて人間的な知恵に頼り、失敗するということがあります。それは私たちが弱いからです。しかし私たちはひとりではありません。エル・ロイの神さま、主が見ていてくださる。弱い私たちを顧みて下さる。そして御言葉を通して力と導きを与えてくださいます。それで困難な波に向き合うことができる。乗り越えていける。
 そのとき、生きておられる主をまた一つ知ることができる。そういう信仰の期待と共に歩んでいきたいと思います。
 


[説教の見出しページに戻る]