2022年12月25日(日)逗子教会 クリスマス礼拝説教
●聖書 イザヤ書11章1〜2
    マタイによる福音書1章18〜25
●説教 「クリスマスの奇跡」

 
 クリスマスおめでとうございます。コロナ禍3年目のクリスマスを迎えました。今また「第8派」のまっただ中にあります。これはいったいいつ収束するのかという不安も起こって参ります。しかし歴史をひもとくならば、このような感染症の流行は、繰り返し起こってきたことが分かります。決して異常な事態ではなかったのです。それに加えて、戦争、内乱、災害、飢饉、貧困といった危機は常に人類と共にありました。しかしそのような中で、教会はキリストの福音を語り続け、神への信仰を説き続けてきたのです。
 すなわちそれは、困難な状況の中にも神を見いだすことができ、神の恵みをいただくことができるということをあらわしているのです。
 
   ヨセフへの告知
 
 本日読んでいただきました新約聖書は、マリアのいいなずけであったヨセフが、マリアの受胎を知るというできごとから始まっています。これもまた、ひとりの人間にとっては災害級の出来事であるといえるでしょう。結婚の約束したいいなずけであるマリアが、自分のあずかり知らないところで妊娠をした。こんなショッキングなことはありません。ヨセフはどれほど驚き、また悩んで苦しんだことでしょうか。
 今日読んだ聖書の中に「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と書かれていますが、ヨセフ自身はマリアの受胎が聖霊によるものであることを初めは知らなかったのです。ですからその「聖霊によって身ごもっていることが」というのは、この記事を書いたマタイの註釈であって、ヨセフにしてみればマリアは誰か他の人の子を身ごもったということでしかありません。それで夫ヨセフは「正しい人であったので」と書かれています。この「正しい」というのは、法律的に正しいという意味ではありません。神さまから見て正しいということです。法律的に言えば、マリアは婚約者以外の人の子どもを身ごもったのですから、このような場合はユダヤの律法によればマリアは死刑となるのでした。
 しかしヨセフは「正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれています。マリアが婚約者である自分以外の人の子を宿したということになると、ユダヤの法律では死刑です。しかしヨセフは正しい人であった。神さまから見て正しい人であった。それは言い換えれば、愛の人であったということです。だから、マリアを訴えて死刑にすることは望まず、ひそかに離縁することにした。この「ひそかに」というのは、マリアがヨセフ以外の人の子を宿したということを秘密にしておくということです。そして離縁する。そうすると今度は、他の人から見れば、ヨセフは婚約者であるマリアを妊娠させながら離縁したということになる。ヨセフはひどいやつだということになります。しかしそれでいいというのです。自分が非難され、責められればいいのだと。そのようにヨセフという人は、愛の人であった。
 そのように愛あるゆえに、苦しむのです。さっさとマリアを裏切り者と断罪し、裁判に訴えれば自分が責めを負うこともない。しかしヨセフは正しい人、愛の人であった。だから悩み苦しむこととなった。愛の人であるゆえに、他の人が悩まないことでも悩むことになる。それでは全く損していることになります。しかしそこに神が天使を通して語りかけられたのです。人間的に見れば損しているように見えるが、神さまから見たらそうではないということです。
 夢の中に現れた天使は、マリアがもみごもったのは聖霊によるものだと告げます。神がそうなさったのだというのです。しかしそれにしても、なぜ神はヨセフの夢の中でメッセージを伝えるのでしょうか? せめて起きているとこに、はっきりと天使であると分かるような使いを遣わしてメッセージを語られたら、簡単に信じることができるのにと思う。夢の中に現れたんでは、それが本当なのか嘘なのか、全然はっきりしないではないかと思います。
 しかしここで聖書が私たちに教えていることがあると思います。それは、私たちが神を信じるという時も、もしかしたら夢の中の話のように思われるかもしれないのです。しかしヨセフは、それを神からのメッセージであると信じて受け入れた。そしてクリスマスの物語が真実の物語として動き始めたのです。すなわち、神の御子イエス・キリストがこの世にお生まれになるというできごとです。
 
   インマヌエル
 
 この福音書を書いたマタイは、このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであったと書いています。その預言者とは、旧約聖書の預言者イザヤです。そのイザヤ書7章14節の言葉を引用して語ります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 このイザヤの預言が成就するために、これらのことが起こったのだとマタイは書きます。「インマヌエル」とはヘブライ語で、「神は我々と共におられる」という意味であると。それは神の御子イエスがマリアを通して生まれることで実現するのだと言われます。それが神のご計画であったということです。
 
   神が共にいる
 
 神が共におられる、神がこの罪人であるはずの私たちと共にいて下さる。天地宇宙の造り主である神が共におられる。しかも私たち罪人を罰するために共におられるのではなく、救うために共におられる。こんな力強いことはありません。これ以上のことは世の中にないと言って良いでしょう。
 しかしそれにしては、イエスさまの降誕物語は、波乱に満ちているのではないでしょうか? 危機の連続ではないでしょうか?
 マリアがイエスさまを身ごもったとき、ちょうど運悪く、ローマ皇帝による住民登録の命令が出されました。その住民登録ときたら、今住んでいる町で登録するのではなく、本籍地に戻って登録しなければならないというしろものでした。それでマリアは、臨月を迎えた身重の体で北部のガリラヤ地方から南部のベツレヘムまで旅をしなければなりませんでした。ようやくベツレヘムに着いたと思ったら、住民登録で戻ってきた人たちがおおぜいいたのでしょうか。宿がありませんでした。するとちょうど陣痛が始まることとなりました。それで人の泊まる部屋ではなく、馬小屋で出産ということになりました。そして生まれた赤ちゃんイエスさまを、ご存じのようにベビーベッド代わりの飼い葉おけに寝かせることとなりました。
 これらのことは、インマヌエル、すなわち「神が我々と共におられる」という約束とは、正反対のことが起きているように私たちには思えます。
 さらに、イエスさまがお生まれになった後、ヘロデ王はベツレヘムに生まれたというメシアを抹殺するために、ベツレヘムとその付近の2歳以下の男の子を皆殺しにするという暴挙に出ました。マリアとヨセフは、天使のメッセージによってあやうくその危機から免れ、エジプトへと逃げて行きました。これらのことは、本当にインマヌエルなのか?神が共におられるのか?と疑いたくなるようなことの連続です。
 しかし振り返ってみれば、なるほど危機や困難はありましたが、すべてそれらを乗り越えることができたのも事実です。マリアとヨセフは困難にもかかわらずベツレヘムに到着することができ、宿は泊まるところがなかったけれども、馬小屋という隔離された場所が用意され、飼い葉おけというベビーベッドも用意されていた。そしてヨセフとマリアが、必要な物がなくて困ったということもありませんでした。怒り狂ったヘロデ王からは、神が遣わした天使の手引きによって逃れることができました。これらはいずれも神が乗り越えさせてくださった奇跡であるということはできないでしょうか? そうすると、困難や危機に遭遇したからこそ、そこから救ってくださる神を感じることができたと言えるのではないでしょうか。
 
   どちらが神を体験?
 
 ルカによる福音書8章などには、イエスさまが弟子たちと共に舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていったときのことが書かれています。
 イエスさまが弟子たちに対して「湖の向こう岸へ渡ろう」とおっしゃいました。そしてイエスさまと弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖にこぎ出しました。ところが途中で突風が吹いてきて、海は荒れ、舟は転覆しそうになるほど揺れました。見るとイエスさまは、舟の中で眠っている。それで弟子たちはイエスさまを起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」。するとイエスさまが起き上がって、風と荒波を叱りつけられました。すると海は静まりました。弟子たちは驚いて、互いに言いました。「いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」。弟子たちは、イエスさまという方がただ者ではないということを知ったのです。そして弟子たちはイエスさまと共に舟に乗ったのですが、嵐に遭いました。けれども同時に、イエスさまが静めてくださるという体験をしたのです。
 このことを考えてみましょう。舟が嵐に遭わず、平穏な状態の海を渡っていくのと、嵐に遭遇して舟は転覆するかと思われるほど揺れたが、イエスさまが静めてくださったというのと、どちらが「神さまって本当にいるなあ」と思うでしょうか? 平穏な海を何事もなく渡って行った場合と、嵐に遭遇したがイエスさまがそれを静めてくださった場合では、どちらが心から神さまを賛美し感謝するでしょうか?‥‥明らかに、後者であるに違いありません。
 そのように、イエスさまによってもたらされるインマヌエル、「神は我々と共におられる」ということは、私たちが何も困難な目に遭わないということを約束するものではありません。しかし、インマヌエルは、私たちを救い、神のすばらしさを知るに至ることを約束するものであります。
 父なる神とイエスさまを信じていても、信じていない人と同じように、困難なできごとや、悲しいできごとに遭遇いたします。しかし、その困難や悲しいできごとのただ中で、主は神の働きや奇跡を現してくださいます。そしてまことに神は共におられる、生きておられる、そういう体験をさせて下さいます。そして神への賛美と感謝をさらに深めていって下さいます。
 クリスマス。それはインマヌエルなる神さまを、あらためて思うときです。


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