2022年12月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント第4主日
●聖書 イザヤ書43章10〜12
    エフェソの信徒への手紙1章3〜7
●説教 「神の定め」

 
 例年ですと、プロテスタント教会はアドベント第4主日にクリスマス礼拝を持つところが多いのですが、今年はちょうど25日のクリスマスの日が日曜日ですので、来週の主日がクリスマス礼拝ということになります。ということで、アドベント・ローソクの火は4本目にともりましたが、きょうではなく来週がクリスマス礼拝ということになります。それで、引き続きエフェソの信徒への手紙から恵みを分かち合いたいと思います。
 
   霊的な祝福で満たす神
 
 さて、前回エフェソの信徒への手紙の冒頭で、短い言葉の中にも神が主語になっているということを申し上げました。これは言葉を変えて言えば、神の主権ということです。今日の聖書箇所の3節では、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と述べています。神をほめたたえています。そしてその理由は、私たちをキリストにおいて「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と続けて書いています。
 「天のあらゆる霊的な祝福」です。この世の祝福とは書かれていません。つまり、この世の金銭的な祝福、物質的な祝福とは書かれていないのです。もちろん、この世のものによる祝福を否定しているのではありません。しかしここでパウロが神さまをほめたたえているのは、「天のあらゆる霊的な祝福」で満たして下さったからだと言っています。
 「霊的な祝福」とは何のことでしょうか?‥‥これは聖霊の与える祝福ということです。聖霊は私たちの内側で働かれます。ですからこれはおもに、私たちの内側の祝福のことであるといえるでしょう。同じパウロの書いたフィリピの信徒への手紙3章8節に次のように書かれています。
(フィリピ 3:8)"そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。"
 キリストを信じ、キリストに従った結果、「わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と書いています。すべてを失ったというのは、この世のもののことです。地位とか名誉とか、富とか、そういうものです。しかしそのようなものを自分は、塵あくたと見なしている。今や、どうでもよいものだと見なしているというのです。それはなぜかというと、主イエス・キリストを知ることが、あまりにもすばらしいからだというのです。
 私は昔これを読んだ時、「自分はここまで思うことはできない」と思いました。この世のもの、つまり富とか名誉とか、全然たいしたものを持っているわけでもないのにもかかわらず、「自分はここまで思うことはできない」と思いました。つまり言い換えれば、キリストを知るということが、それらを犠牲にしても余りあるほどすばらしいものだとは思えなかったのです。
 キリスト信徒となり、キリストの伝道者となることによってパウロが失ったものは何だったでしょうか?‥‥具体的に書いていないのでよく分かりませんけれども、聖書から分かることは、ユダヤ人の中での地位を失ったことはたしかです。パウロは、キリストに出会うまではファリサイ派に属していました。そしてキリスト教徒を迫害していました。パウロの師匠はガマリエルという有名で尊敬されている人物で、パウロはその弟子でした。ですから、そういうユダヤ人の中でのポジションを失ったことはたしかです。また、パウロはユダヤ人でしたけれども、ローマの市民権を持っていました。ローマの市民であったということは、家が裕福であったか、あるいはローマ帝国に貢献していたかだと思われます。ですから生活は安定していたものと思われます。そういったことが推測されます。しかしそれらをすべて失ったのです。
 さらにパウロがキリストによって召し出されて、伝道者となって、経験したものはそんなレベルのものではありませんでした。コリントの信徒への第2の手紙でパウロが次のように書いている箇所があります。それはパウロが出会った災難についてです。
(Uコリント 11:24〜27)"ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。"
 聞いただけでも恐ろしい災難であり試練ですね。ですからパウロはキリストの伝道者となったために、安定した生活を失ったばかりではなく、なんどもなんども命の危機に見舞われたのです。しかしパウロにとっては、安定した生活を失ったが、そのようなことはどうでもよい。イエス・キリストを知るということが、それをはるかに上回るすばらしさであるからだというのです。ですから私は、かつてはそのことがよく分からなかったのです。
 しかしキリストを知るということは命を知るということでもあると聖書は述べています。次の言葉はイエスさまの言葉です。
(ヨハネ 17:3)"永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。"
 ここで言われている「知る」というのは、知識として知るということではありません。お付き合いして知る、交わるという意味です。つまり、イエス・キリストと共に歩み、交わる。そこに命がある。そこに喜びがある。すべてを失っても余りあるほどのすばらしさがあるということになります。
 
   天のあらゆる祝福
 
 全くパウロとは比べものにならないかも知れませんが、では自分にとっての「天のあらゆる霊的な祝福」とは何であろうかと考えてみました。するといろいるあるということを、あらためて思わされました。なによりも主に感謝しているのは、第一に自分が罪人であることを悟らされたということです。自分が罪人であることを知ったことが感謝だというのは、なんだかお分かりにならない方もいるかも知れませんが、実際そうなのです。
 私は、かつてはたいへんプライドの高い者でした。何のプライドかと言われれば中身が全然ないわけですが、要するに高慢な者でした。またどちらかというと目立ちたがり屋でした。そして、自分が評価されないと気に入らない。また、やられたら必ずやり返す人でした。やり返すといっても腕力はありませんから、口ですね。あるいは他の人を巻きこんでやり返す。そういう人でした。
 しかしキリストに出会って、聖書を読み、祈り、信仰生活をしていくうちに、自分が罪人であることを知らされた。自分という人間が、本当にどうしようもない罪人であることを気づかされたんです。もう自分に絶望しました。しかし同時に、そんな私を愛し、救い、受け入れ、導いて下さるイエスさまが浮かび上がってきたのです。「ああ、聖書が言っているのは、こういうことだったのか」ということがだんだん分かってきた。それはたいへんな喜びでした。かけがえのないものであることが、だんだん分かってきた。今も現在進行形です。それは天の霊的な祝福であると言えると思います。
 
   五十嵐健治
 
 五十嵐健治という人がいました。この人は、クリーニングの有名な白洋舍の創業者です。この五十嵐健治さんは、自叙伝にこう書いているそうです。「私にもしこの信仰がなかったならば、きつと社会に害毒を与えるところの毒虫のような人間になったと思う。そんな私のような者の心を裏返しにして、人格を一変させて下さったのは、主、キリストさまの力によるものであるということを、信じて感謝せずにはいられない」。‥‥キリストの信仰が無かったならば、自分は社会に害悪を与える毒虫のような人間になったと思うというのは、ずいぶん大げさのように聞こえるかも知れませんが、私も同感です。
 五十嵐健治さんは、明治10年に生まれました。幼くして両親は離婚。各地を転々とし、北海道ではタコ部屋に入れられ、非人道的環境に置かれたそうです。そこで開拓工事に従事させられたものの、脱出に成功し、小樽にたどり着きます。一銭もなかったのですが、不思議に宿に泊めてくれた。そして翌朝、行く宛もないと告げると、その宿の女主人が奉公人になることを許してくれたそうです。その宿の、胸を患って寝たきりのご主人の枕元に漢訳の聖書があり、興味を示すとご主人が貸してくれました。しかし聖書を開いてもいったい何を言っているかさっぱりわからない。全部漢字で書いてあり理解できないと女主人に伝えると、耶蘇(キリスト教)のことなら宿泊中の行商人・中島佐一郎氏が詳しいと紹介され、聖書について学び始めます。そして、1895(明治28)年8月下旬に中島氏に井戸で洗礼を授けてもらいます。
 やがて東京に出て、岡野洗濯店というところで働きます。当時は洗濯屋は「洗濯屋近所の垢(あか)で飯を食い」といわれて軽蔑されていたそうです。ですから、一生の仕事として選ぶのは恥ずかしいという思いもあったそうですが、ある夜祈って気がついた。イエス・キリストは神の独り子であられるのに、人の垢どころではなく、人間の汚れに満ちた罪を洗い清めてくださった。しかも十字架にかけられて、その真っ赤な血潮で、罪を洗い清めてくださった。とすればこの罪人の五十嵐健治が、人々の垢を落とす仕事をさせていただくのは、光栄の至りではないかと。このことによって自分の気位の高さが打ち砕かれたそうです。そして白洋舍を創業したということです。(日本キリスト教団出版局、『信徒の友』2020年9月号)
 このことを読んで、これも天の霊的な祝福で満たされた人だなあ、と思いました
 
   神の予定
 
 さて、今日の聖書箇所のもう一つの焦点は、神の定めということです。4節5節です。
“天地創造の前に、神はわたしたち愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。”
 天地、宇宙を神がお造りになる前に、神は私たちを愛して、お選びになったと言われます。宇宙ができたのは、宇宙物理学者によれば、今から約138億年前だと言われています。それよりも前ということになります。神は宇宙をお造りになる前から、私たちを地球に生まれさせ、そのように愛し、お選びになっていたとは、気が遠くなるようなことです。
 毎月の誕生者の祝福の祈りの時に、私は「天地の造られる前から、これらの兄弟姉妹を選び分かたれ‥‥」と祈っています。お気づきでしょうか。それは、この聖書箇所を念頭に置いています。少なくとも、我々が生まれる前から、主なる神は我々をこの世に生まれさせることを計画なさっていた。
 これらのことは、あまりにも偉大すぎて、私たち人間の理解を超えているところがあります。そしていろいろな疑問点が浮かんでくることと思いますが、きょうはこのことについて神学的に踏み込むことはいたしません。この選びというものが、私たちにどういう恵みをもたらすかということを共有したいのです。
 するとはっきり分かることは、私たちは偶然この世に生まれたのではない、ということです。私たちは、偶然この世に生まれたのではない。間違って生まれてきたのでもないんです。天地の造り主である神が、宇宙をお造りになるよりも前に、この私たちひとりひとりを地上に生まれさせることを定めておられたというのです。神がこのようになさるのは、私たちを愛しておられるからに違いないのではありませんか?
 今日はイザヤ書43章の中からも読んでいただきました。その10節11節をもう一度読んでみます。神の言葉です。
“わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。”
 天地宇宙の造り主なる神は、かつてはイスラエルを選び、そしてこの私たちを選んだと言われます。それは生ける神の証人として選ばれたのだと。そして神を知るために選ばれたのだと。そしてその中心には、イエス・キリストがおられます。今日のエフェソ書の5節6節です。
“イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。”
 そのイエスさまが、神によってこの世に遣わされた。来週は、そのイエスさまが人の子としてこの世にお生まれになったことを記念する日です。そして私たちがクリスマスを祝うのは、その神の愛が、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった御子の姿に現れているからです。その恵みを共にいただきたいと思います。


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