2022年12月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ネへミヤ記8章6
    コリントの信徒への手紙二13章13
●説教 「究極の言葉」使徒信条講解(22)

 
 今年の6月12日の主日礼拝から始めました使徒信条による連続講解説教。今日が最終回となります。そう申しますと、「あれ?前回の所で終わったのではないか?」と思われる方もいるかも知れません。たしかに前回は、「身体のよみがえり、とこしえの命を信ず」を扱いましたので、終わったようにも見えます。しかし最後にもう一つ言葉があることにお気づきかと思います。そうです。「アーメン」という言葉です。
 私の記憶でも、私が牧師になってから、「アーメン」という言葉についてまとめて説教した覚えがありません。そこで今日は、使徒信条を締めくくる、この「アーメン」という言葉について、恵みを分かち合いたいと思います。
 
   アーメン
 
 「アーメン」という言葉は、「ハレルヤ」という言葉と共に、一般の方にもっとも良く知られているヘブライ語ではないでしょうか。「ハレルヤ」は「主をほめたたえよ」という意味の言葉です。しかしそれが、感謝や喜びを表す言葉として、クリスチャンではない方にも広く使われています。スマップの歌にもありましたね。
 そして「アーメン」のほうは、クリスチャンが使う言葉であるということもよく知られていると思います。実際はキリスト信徒の言葉と言うよりも、先ほど申し上げましたようにヘブライ語ですから、もとはユダヤ人が使う言葉であるわけですが。
 私たちにとって「アーメン」は、お祈りの最後に一緒に唱える言葉です。お祈りの最後だけではなくて、途中に何度も「アーメン」と唱える教会もあります。また、日本で発行されている讃美歌の多くには最後に「アーメン」がくっついています。ちなみに、実は讃美歌の原曲にはいずれもこの「アーメン」はついていないのです。讃美歌に「アーメン」を付けるようになったのは、19世紀半ばのイギリスで始まったそうです。
 さて、「ハレルヤ」というヘブライ語は、先ほど申し上げましたように「主をほめたたえよ」という意味ですが、「アーメン」はどういう意味なのか? それはまず言葉自体の意味で言うと、「たしかに」とか「そのとおり」という意味です。つまり、確認、そして同意を意味しています。ですからお祈りの最後に「アーメン」と付け加えるのは、ひとりで祈る時には「この通りです」とか「たしかに祈ります」というような意味になります。また他の人の祈りに「アーメン」と言って唱和する時には、それに「私も同意します」という意味も加わることになります。
 さて、使徒信条の最後にそのアーメンがあるわけですが、実はそれは単に言葉の意味通りに「同意する」とか「そのとおり」ということを付け加えているのではありません。実は「アーメン」には、もっと豊かな意味が込められています。
 
   ネへミヤ記8章6
 
 今日は最初に旧約聖書のネヘミヤ記の言葉を読んでいただきました。このネヘミヤ記というのは、イスラエルの民の国であるユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの人が捕らえられていった「バビロン捕囚」が終わり、捕囚にされた人々もだんだん帰ってきて、破壊されていたエルサレムの都の城壁の再建をした。その工事について書かれています。そして困難を乗り越えて、城壁の再建工事が完成いたします。そして、人々が町の門の広場に集まりました。そこで、エズラという指導者が、モーセの律法の書を朗読するんですね。モーセの律法の書とは、旧約聖書の中の律法が書かれている部分です。エズラが、おおぜいの人々の前で、その律法の書を開くと、人々は皆立ち上がりました。そしてエズラが主なる神をほめたたえると、人々は皆両手を挙げて「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずいて顔を地に伏せ、主を礼拝した‥‥そう書かれています。
 このときの「アーメン」は、もちろん、同意するという意味もあるでしょうけれども、どちらかというと、両手を挙げていることから主を賛美しているということができるでしょう。すなわち、主を信頼し、賛美していることを「アーメン」という言葉で表していると言えます。
 
   聖書に見る「アーメン」
 
 そして、なによりも私たちが思うのは、「イエスさまは『アーメン』という言葉を使われたのだろうか?」ということでしょう。新約聖書の福音書を読むと、イエスさまが「アーメン」とおっしゃっているようには見えない。しかしそれは日本語の翻訳がそうなっているからであって、実はイエスさまはアーメンという言葉を何度も使っておられます。
 みなさんもイエスさまが「はっきり言っておく」ということをよくおっしゃっていると記憶しておられると思います。それが実は「アーメン」なんです。「はっきり言っておく」というのは、ギリシャ語を直訳すると「アーメン、私は言う」です。たとえば次のように使われています。
(マタイ18:3)「はっきり言っておく(アーメン、私は言う)。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
(マタイ18:19)また、はっきり言っておく(アーメン、私は言う)が、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
 これらはものごとを強調して言うために「アーメン」という言葉を使っておられます。また次の言葉、
(マタイ26:34)イエスは言われた。「はっきり言っておく(アーメン、私は言う)。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 これは、たしかな予告として「アーメン」という言葉を使っています。つまり「ペトロよ、たしかにあなたはこのあと私のことを知らないと言うことになるのだ」と、それがたしかに、確実に起きるということを言っています。そのようにたしかに私を裏切るあなたであることを承知の上で、そういうあなたがたを救うために十字架に向かうのだ、というメッセージが聞こえてきます。
 また、ヨハネによる福音書では、「アーメン」は繰り返して使われています。例えば、
(ヨハネ5:24)"はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私は言う)。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。"
 これも強調し、神さまを賛美する思いを込めて「アーメン、アーメン」という言葉を言われています。
 また、「アーメン」を、信仰による希望の意味で使っている箇所もあります。例えば、
(黙示録22:20)"以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。"
 これは、キリストの再臨の約束を心から期待し、祈り願う意味で使われています。
 さらに「アーメン」は、神を賛美する意味で使われています。例えば、
(ローマ11:36)すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
 このアーメンは、強調する意味もありますが、どちらかというとやはり賛美の意味で使っています。次のアーメンも同様です。
(1テモテ1:17)永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
(黙示録19:4)そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
 これは、ハレルヤとアーメンが同時に使われています。
 このように、「アーメン」という言葉は、「同意する」とか「たしかに」というもともとの意味を超えて、神さまのなさることを強調するために使われ、また確実に起きることを予告するために使われ、信仰による希望の意味で使われ、神を賛美する意味で使われています。そしてまとめて言えば、神さまの真実をあらわす言葉として使われていると言えると思います。
 
   真実
 
 神の真実。次の御言葉を見てみたいと思います。
(黙示録3:14)ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
 ここでイエスさまが「アーメンである方」と呼ばれています。この「アーメン」は「真実」であるという意味にとれば良いでしょう。神さま、イエスさまは「アーメンである方」、真実である方だということです。
 考えてみれば、アーメンと言える真実なものがこの世の中にほかにあるでしょうか? 真実とは、変わることのない、本当のことです。そういうものが、他にあるでしょうか?‥‥永遠の愛を誓ったはずのカップルが破局をする。「私は嘘をつきません」と言った人が、実は多くの嘘で塗り固められている。それらはみな人間の弱さ、そして罪によるものです。多くの人々が国の教えを信じ、正義であると信じて戦争に向かい、命を落としました。だからといって、誰も責任を取ってくれるわけではありません。多くの死者と破壊された町が残るのみです。
 あるいは主義主張を真理、真実であると信じてその運動に身を投じた人々がいました。これこそ正義であり真理であるとアジテーションをした人たちがいました。しかしその結果もまた、果てしない闘争であり、破壊であり、敵に対する憎しみであり争いでした。そしてこれこそが正義であると説いて、扇動した人もまた、今はもうこの世にはいません。
 この世のどこに真実があるのか? 真実などどこにもないのではないか?‥‥いや、聖書は「ある!」と断言しているのです。それが万物の創造主なる神であり、神の御子イエス・キリストであると。それが「アーメンである方」というこの言葉が意味するところです!
 こうして、真実な方、本当の存在というものが、主なる神だけであることが明らかにされます。すなわち、アーメンという言葉が特別な言葉であること、そして神に対してだけ当てはまる言葉であることが明らかになります。使徒信条は、そのアーメンという言葉をもって信仰告白を閉じ、神に栄光を帰し、神にすべてをゆだねているのです。
 
   「メサイア」のアーメン
 
 ヘンデル作曲の「メサイア」という合唱曲。当教会でも、コロナ禍前は、クリスマスイブ礼拝で、その中の有名な「ハレルヤ」コーラスの部分を聖歌隊が歌っていました。そしてこの「メサイア」の最後は、「アーメン」コーラスの曲で終わります。
 私の前任地の富山市では、毎年12月のはじめ頃、富山市民クリスマスというものを市内の会館を借りて行っていました。これは富山市内の超教派のキリスト教会と富山YMCAが協力して行っているものです。第一部が礼拝で、第二部が「メサイア」の抜粋の演奏でした。その聖歌隊に私も入っていました。歌など全く自信がないのですが、とにかく人手不足で無理矢理入ることになりました。高い声が出ないのでテノールでもないし、低い声も出ないのでバスでもないので、聖歌隊に入る資格もないのですが、「一番高い声は出なくてもそこは『口パク』でいいから」と言われて、最初は人数の少ないテノールのパートに入っていました。まあ、足を引っ張るだけの冷や汗者の聖歌隊メンバーでしたが、それでもこの「メサイア」の中の最後の曲である「アーメン」コーラスは、歌っていて感動しました。「アーメン・コーラス」は、歌詞がただ「アーメン」の繰り返しです。しかし、4声のパートがそれぞれのメロディーと間合いで「アーメン」を織りなすように合唱する。荘厳と申しましょうか、神の栄光と申しましょうか、その天国の賛美のただ中にいるような錯覚を覚えるのです。「メサイア」は、キリストの預言から誕生、そして十字架と復活を経て、この世の終わりのキリストの再臨と最後の審判までを歌い上げます。つまり、聖書の最大のテーマである、キリストの預言から最後の審判までを歌い上げる、そうそうたる音楽です。それを「アーメン」の言葉が繰り返される合唱となって、真実であり確かである神の栄光を賛美し、私たちは全存在をその神にゆだねる。
 それはまさに、天地の造り主である父なる神と、御子イエス・キリストの救いと、聖霊の交わりを簡潔に、しかも力強く告白している「使徒信条」の最後を締めくくるに、もっともふさわしい言葉であると言えます。それが「アーメン」です。
 今日読んだもう一箇所の聖書、コリントの信徒への第二の手紙13章13節は、礼拝の最後の祝祷の言葉です。私の場合は、この言葉の前に、民数記6章に記されている「アロンの祝祷」を加えておりますが。この祝祷の言葉は、三位一体の神の祝福を語っています。使徒信条も三位一体の神を告白していました。そしてそこに神の「愛」が表されていることを、私たちは学びました。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この言葉に、アーメンと唱和して、すべてを主にお任せし、その主の中を歩んでまいりたいと思います。


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