2022年11月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント第1主日
●聖書 エゼキエル書37章1〜6
    ヨハネによる福音書6章34〜40
●説教 「恵まれる世界へ」使徒信条講解(21)

 
"我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえり、とこしえの命を信ず。"
 
   永遠の生命を信ず
 
 本日は、使徒信条の「身体のよみがえり、とこしえの命を信ず」の所から、恵みを分かち合いたいと思います。
 「永遠の命を信ず」この言葉は、当教会の墓に刻まれている言葉です。墓前礼拝をするたびに、あるいは故人を偲んで教会墓にお参りするたびに、私たちはこの言葉を目にします。「永遠の命を信ず」、それは永遠の命は信じるものであることを教えています。
 永遠ということは、私たちの想像のつかないことです。永遠とは、始まりも終わりもないということです。始まりがないということは、もとからあったということですし、終わりがないということは、どこまでもということです。例えば、宇宙は永遠だと昔は思われていましたが、20世紀になって、初めがあったらしいということが分かりました。それはだいたい今から138億年前のことであるといいます。では宇宙ができる前は何も無かったのかといえば、どうもそうではないらしいといいます。じゃあ宇宙はどうやってできたのかということについては、科学者にいろいろな議論があるようです。
 私たちはもちろん、「それは聖書に書いてあるとおり、神さまが造ったんだよ」と言いたいわけですが、「では、その神さまはいつから存在しておられるの?」という問いが生まれることになります。そしてその問いに対しては、「神様は最初から存在しておられる」という答になります。
 聖書で主なる神さまが、ご自分の名前を明らかになさったのは、出エジプト記3章14節で、モーセに対して明らかになさいました。それは、「わたしはある」というお名前でした。「わたしはある」、それは存在という意味です。私たちの神は、存在だということです。そうすると、「私だって存在している」と言いたくなりますが、私という人間は、100年前には存在していませんでした。そして100年後にも存在していないでしょう。そうすると私たちは、ほんの一瞬だけ存在しているに過ぎないということになります。
 しかし、それに対して主なる神さまは、永遠の昔から存在し、永遠の未来にも存在しておられる方です。絶対に存在している存在です。そう考えますと、永遠というのは、ひとえに神さまについてだけ言えるものだということになります。永遠はまことの存在者であり創造者について言えることであり、聖書はその方を真の神、イエス・キリストの父なる神と呼んでいるのです。
 
   からだのよみがえり
 
 さて、その「永遠(とこしえ)の命」の前に、「身体のよみがえり」という言葉があります。体がよみがえるというのは、キリスト教の特徴と言えるでしょう。というのは、他の多くの宗教では、体のよみがえりということを言わないからです。一方で、霊魂の不滅を説く宗教が多いと思います。
 たしかに、体は死んでも霊魂は生きると言ったほうが、現実的に思います。身体があるから生きなければならなくなり、生きるために食べる、食べるために富を得ようとする、その結果多くの罪を犯すということになるように思います。そうすると、たしかに身体があるから悪いことをするのであり、身体がなくなって霊魂だけになったほうが罪を犯さず、悪もなくなると思えます。
 しかし、肉体がないというのはどういう状態でしょうか? 肉体がないのですから、食べないでよい代わりに食べる楽しみもなくなります。身体がありませんから、触れることもたしかめることもできません。これはなにか以前の身体があった状態よりもそうとうなものが失われた状態になるように思います。
 そもそも、創世記の2章を見ると、神さまは土の塵で人を形づくり、鼻から息を吹き入れられ、人は生きる者となったと書かれています。それは神さまが愛を込めて私たちを形づくり、心を込めて命を与えられたということを表しています。形づくられたんです。それが死によって失われてしまった。そして死は、聖書によれば、罪の結果です。そうすると、人間は罪の結果死を招き、身体を失い、失われたままということになってしまいます。それでは、イエス・キリストがなんのために十字架にかかられたのか、よく分からなくなってしまいます。
 イエス・キリストによって救われるという場合、それは人間が罪を犯す前の状態を回復することでなくてはならないはずです。だから聖書は、よみがえりのことを「復活」と呼んでいるのです。その復活とは、単に死ぬ前の身体に戻るということではありません。罪がゆるされ、神さまが最初に人間を造られた時の極めて良い状態に戻される。だから「復活」というのだと思います。それでこそ、キリストによる私たちの救いということが言えます。
 
   枯れた骨
 
 今日の旧約聖書は、エゼキエル書の37章の中の言葉を読んでいただきました。預言者エゼキエルが、主の霊によって幻を見せられた時のことですある谷に枯れた骨がいっぱい満ちていた。主はエゼキエルに、「これらの骨は生き返ることができるか」とお聞きになりました。それに対してエゼキエルは、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えました。これは、「主の御心であれば、生き返る」ということです。すると主はエゼキエルにお語りになりました。‥‥「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 そしてエゼキエルが主のおっしゃられたとおりにすると、骨がカタカタと音を立てて近づき、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚が覆ったと続きの所に書かれています。リアルです。そしてさらに主がエゼキエルに対して、霊に向かってこれらの者に吹きつけるように預言するようお命じになりました。エゼキエルがそうすると、彼らは生き返って自分の足で立ったと書かれています。
 これはエゼキエルの見た幻ですが、天地を造り、すべての生けるものをお造りになった全能の神さまですから、そのことが可能であるに違いありません。
 そしてなによりも、よみがえりということは、イエスさまによって最初に起きたことです。十字架で死なれて、イエスさまの霊は陰府に降られ、そこで福音を宣べ伝えられましたが、3日目によみがえられた。これは身体を伴ったよみがえりでした。この出来事が、さきがけとして起きたと聖書は証言しています。そのよみがえりの身体は、前と全く同じであったのではなく、朽ちることのない霊の体とされたのです。
 このことが、使徒信条が私たちに対して「身体のよみがえり」と力強く述べていることに直接つながっています。
 
   罪の赦しに続いて
 
 先ほど述べましたように、使徒信条では、「罪のゆるし」に続いて「身体のよみがえり、とこしえの命」と述べています。それは、キリストによる私たちの罪の赦しの結果がなんなのかということを明らかにしているわけです。キリストが十字架にかかってくださって、私たちの罪がゆるされ、救いが成し遂げられたという。その救いとはなんなのか。それは、究極的に言えば、死からの救いということに当然なるでしょう。
 コリントの信徒への第一の手紙15章56節「死のとげは罪である」と書かれています。罪が問題なんです。このことについて、東神大の新約聖書学の先生であった竹森満佐一先生は、死が恐ろしいのは、神に対して自分の生涯について責任を問われることだから、と書いておられます。同じコリントの信徒への第一の手紙15章32節には、「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」‥‥と書かれています。
 もし、人間死んだら終わりなのだ、死後の命などないのだ、神さまなんかいないのだと思っているなら、その人にとっての人生は、とにかくやりたいことをやって、好きなことを好き勝手にして生きる、そして死ぬ、ということにしかなりません。そのような時には、倫理も道徳もありません。他人が死のうが生きようが関係ありません。自分のやりたい放題のことをして死ぬだけだ、ということになります。愛など無意味だということになるでしょう。そのような人ばかりになったら、世の中メチャクチャです。人生もおかしくなってしまいます。
 それに対して聖書は、神に背いて罪を犯してきた人間を、御子イエス・キリストが十字架にかかって救ってくださり、身体のよみがえりと永遠の命を与えてくださると語っています。竹森先生は書いています。「真の希望を持つことは人間の生き方を決定する。」まさに、キリストによる真の希望を示された。そのことによって、私たちは生きる意味を見いだしたのであります。
 
   キリストは命のパン
 
 ヨハネによる福音書6章34〜40節を読んでいただきました。そこでイエスさまは、「私が命のパンである」とおっしゃっています。この「パン」というのは食物のことです。食べなければ人間は死んでしまいます。ですから人間が生きるためには、食物が必ず必要です。
 そしてイエスさまの言われる「命のパン」は、永遠の命のことです。食物であるパンが肉体が生きるために必要であるように、イエスさまがお与えになる命のパンは、私たちの身体のよみがえりと永遠の命のために必要なものであるということになります。
 そして、ではその命のパンは、どうやって食べることができるのかということですが、そのことは35節に「わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われています。「信じる」のであります。そして37節には、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」と言われています。イエスさまのもとに来る人を、イエスさまは必ず受け入れてくださると言われるのです。
 この私のような者でも、イエスさまの所に行くならば、受け入れてくださる。イエスさまのもとに行く。それがイエスさまを信じるということです。
 
   聖霊の項
 
 そして使徒信条の「身体のよみがえり、とこしえの命を信ず」というくだりも、使徒信条の聖霊の項の中に入っています。イエスさまを信じて聖霊が与えられる。自分の内に聖霊なる神が宿ってくださる。神は永遠の命そのものですから、聖霊が宿ってくださることによって、私たちはその永遠の命とつながっていることになります。永遠の命である神の中で生きるということになります。
 
   不信仰の私をゆだねて
 
 しかしたしかに私たちは不信仰です。そこまで言われても、「本当に永遠の命が与えられているのか?」と思ってしまいます。
 そこで、戦後活躍したクリスチャンの小説家、椎名麟三のエピソードを思い出します。椎名麟三がキリストを信じて洗礼を受けた時、カトリックの作家の遠藤周作にこう言ったそうです。「これでじたばたして、虚空を掴んで、死にたくない、死にたくないと叫んで死ねるようになった」と。
 イエス・キリストを信じて洗礼を受けたのに、「死にたくない、死にたくないと叫んで死ねるようになった」というのは、本当にキリストを信じているのかいないのか、分からないような変な話に聞こえます。しかしこれは、私たちの本当のところを正直に表していると思います。信じたい。しかし信じ切れない自分がいるのです。しかし、洗礼を受けて神の子とされて、「死にたくない」と叫ぶ相手ができた、ということです。その相手がイエスさまであるということです。不信仰な自分の叫びを受け入れてくださるイエスさまに、不信仰な自分を丸ごとゆだねる言葉です。こんな私でも受け入れてくださるイエスさま、という安心感がにじみ出ています。
 


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