2022年11月20日(日)逗子教会 主日礼拝説教/幼児祝福礼拝
●聖書 サムエル記上3章4〜9
    ルカによる福音書2章49
●説教 「他力の自立」

 
   自立
 
 本日は幼児祝福礼拝で、ふだんの使徒信条の講解説教はいったん中断し、子どもたちの祝福について、聖書から恵みを分かち合いたいと思います。
 私たちはみな子どもであった時代があったわけで、人それぞれさまざまな環境で育ち、またさまざまな出会いがあり、そして今日生きています。自分自身を振り返りますと、幼子たちのこれからの長い人生の道のりに、神様のご加護をと願わずにおれません。
 子育ての時に、もっとも念頭に置くこととして「自立」ということがあります。やがておとなになった時、ちゃんと自立した人となる。そのことが目標であり、それが達成できれば、子育ての役割はほぼ終えたと言えるでしょう。
 ところで「自立」という言葉を辞書(三省堂国語辞典)で引きますと、「@自分だけの力で行動し生活すること。Aほかからの助けを受けないで やっていくこと。」と書かれていました。たしかに辞書的な意味ではその通りでしょう。しかし一方で、本当に人間は、何にも頼らずに生きるということができるのだろうか?‥‥とも思います。たしかに「自分は誰にも頼らない。神仏にも頼らない」という方もいます。しかし、実はなにかに依存しているという場合が多いように思います。例えば、人に頼らなくても、お金に頼っているとか、あるいは酒やギャンブルに依存しているという場合もあります。あるいは誰にも頼らずにきた結果、ひとりよがりで高慢で鼻持ちならない人間になってしまうというようなこともあります。
 本日の説教題は、「他力の自立」とつけました。「他力」というと、何か仏教の浄土真宗の言葉のようですが、聖書ではイエスさまに頼ることを言います。真の神を信じてイエスさまに頼る。イエスさまに頼るのでは、それは自立とは言えないではないかと思われますが、実は、それが本当の自立であるということです。
 
   サムエルの場合
 
 まず最初に、サムエルという人の場合を見てみましょう。サムエルという人は、イスラエルの有名な預言者でした。預言者というのは、神さまのことばを聞いて、人々に伝える人です。旧約聖書の時代には聖書というものがありませんでしたから、神さまの言葉は、預言者を通して語られました。サムエルは非常に力ある預言者であったばかりか、人々の尊敬と信頼を集め、国のリーダーとなった人です。ですから申し分なく自立した人だったと言えるでしょう。
 サムエルは、ハンナという名前の母親から生まれました。実はハンナには、長い間子どもが生まれませんでした。それであるとき、ハンナは神さまを礼拝する場所である神殿2礼拝に行った時に、激しく泣きながら神さまにお祈りいたしました。自分に子どもを授けてくださいという祈りでした。そして子どもを授けてくださったら、その子を神さまにおささげします、と祈ったのです。
 そうして、祈りが聞かれて、ハンナには男の子が生まれ、サムエルと名前をつけました。そしてハンナはサムエルを乳離れするまで育て、乳離れすると、神さまに約束したとおり、神さま、すなわち主にサムエルを献げました。神さまにささげるというのは、具体的には、神殿の祭司であったエリという人に預けたのです。そんな小さな子を預けてと思いますが、神さまに祈って約束して生まれたのがサムエルですから、約束通りにしたのでした。そしてもちろんハンナは母親としてサムエルのことを常に心にかけ、毎年神殿に出かける時に、上着を縫ってはサムエルに届けました。
 さて、そうして祭司であるエリに預けられ、エリの下でサムエルは育っていきます。そうしてサムエルが成長し、少年となったときのことが、先ほど読んだ聖書箇所です。サムエルは主の神殿の部屋で寝ていました。すると主が、サムエルを呼ばれたのです。サムエルは、それが主なる神さまの呼びかけであるとはまったく分かりませんで、父親代わりの祭司エリが自分を呼んだのかと思い、エリの部屋へと行きました。しかしエリは呼んでいないという。それで戻って寝る。‥‥そんなことが3度繰り返されます。
 3度目に、エリは、これは主がサムエルを呼んだのだと分かり、今度呼ばれたら「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と答えなさいと、サムエルに言いました。そしてこのあと、また寝ているところに主がサムエルを呼ばれたので、サムエルは「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と答えました。
 (画像)ちなみに、この絵はこの時のことを描いた、18世紀のイギリスの画家、ジョシュア・レノルズの絵です。有名な絵で、皆さんのご家庭にもこの絵を持っておられるという方がいるかと思います。
 さて、サムエルが声のぬしに応答すると、主が預言をお語りになったのです。その主の預言とは、父親代わりである祭司エリの家を罰するという預言でした。翌朝、主がお前に何をお語りになったのかと問われて、サムエルは話すのをためらいましたが、エリが隠さずに話すように言ったので、正直に話しました。エリの家を罰するという主の言葉をです。
 自分が世話になっているエリに対して、主の言われた言葉通り語る。ここにサムエルが自立した瞬間が描かれています。こうして主はサムエルと共におられ、サムエルは主なる神と共に歩み、人々の尊敬を集めていきます。そして人々を導くに至る。神の言葉を聞きながら、ひとりではなく主と共に歩む。ここに他力の自立の人があります。
 
   イエスさまの場合
 
 次に読んだ新約聖書ルカによる福音書の2章の中の出来事です。これは、イエスさまが12歳の時に、家族らと一緒にエルサレムの神殿にお参りに行った時のことです。
 実は、聖書は、イエスさまがお生まれになった時のことは書かれています。それがクリスマスの物語です。そして、イエスさまがおよそ30歳になって、世の中に出て神の国のことを宣べ伝え始めてからのことが書かれています。しかし、その間の約30年近くの間のことは、先ほど読んだできごとの1箇所だけしか書かれていません。そのイエスさまが12歳の時のエピソード一つだけが書かれているのです。
 そして、これはなんの時のことを書いているかというと、イスラエル人が守ることになっている過越祭のために、イエスさまが家族と親戚や村の人と一緒にエルサレムに行ったときのことです。そして祭りが終わって、みなガリラヤのナザレの町に帰って行く。そして帰路について一日経って、イエスさまの両親、つまりマリアとヨセフは、イエスさまがいないことに気がつきました。一日も経って気がついたなんて、それでも親かと思うかも知れませんが、親戚や村の人と一緒に楽しみながら旅をしましたので、親戚のいとこや誰かと一緒だと思ったのでしょう。そういう時代だったのです。しかしイエスさまがいないことに気がついて、エルサレムまで捜しながら戻っていきました。そしてエルサレム市内の神殿の境内で、学者たちと話しあっているイエスさまを見つけたのでした。両親はイエスさまを叱りましたが、それに対して12歳のイエスさまが答えた言葉が、先ほど読んでいただいた聖書箇所です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
 なぜわたしを捜したのかとおっしゃる。心配しなくていいということです。言葉を変えて言えば、自立したということでもあります。そしてここでイエスさまが「私が自分の父の家にいるのは当たり前」とおっしゃっている。この「父」とは、ヨセフのことではなくて、天の父、すなわち神さまのことを言っておられるのです。真の神を父と呼び、認識することによって自立を迎えたと言えます。そして同時に、ここから、やがておかかりになる十字架への歩みが始まったということができます。
 
   他力の自立
 
 こうして聖書は、人間は何も頼らないで生きるのではなく、真の神である主、そしてイエスさまに頼り、よりすがって歩む。言葉を変えて言えば、主と共に歩むことによって、自立することができると教えています。
 これは子どもの成長の話だけではありません。私たちも同じです。この私をも受け入れてくださる方がいる。近づいて手を差し伸べてくださる方がいる。それがイエスさまです。つまずきやすい、うろたえやすい、すぐに不安でいっぱいになってしまう私たちですが、そのような私たちを受け入れ、支え、共に歩んでくださる方がいる。そのイエスさまは、揺らぐことがない、力あるお方です。その方に支えられて歩む時、小さなことで一喜一憂する必要のない、そして明日を楽しみにして生きる道があると教えています。


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