2022年11月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教/召天者記念礼拝
●聖書 創世記3章22〜24
    マタイによる福音書26章26〜29
●説教 「ゆるされた罪人」使徒信条講解(20)

 
   召天者記念礼拝
 
 本日は召天者記念礼拝です。今年の「召天者名簿」をごらんいただきますと、昨年の召天者記念礼拝のとき以来、新たに9名の方を名簿に加えることになりました。たいへん多くの兄弟姉妹が神のみもとに召されて逝かれました。また、コロナ禍が始まったのが2020年ですから、それ以来本当に多くの方々が召されて行ったということを、あらためて思います。これらの方々は新型コロナウイルス感染症で亡くなられたわけではありませんけれども、コロナ禍は、別れのあり方も変えてしまいました。危篤の連絡をいただいても、病院に駆けつけてお祈りをすることができなくなりました。またしばらくの間は、ご家族さえも病院に面会に行くことができませんでした。それはたいへん心苦しいことでありました。また、ご本人はどういう気持ちであっただろうかと思います。
 しかし、それゆえにこそ、どんなことがあっても本人と共にいて下さるお方、イエスさまのことを思います。なによりも、イエスさまがそばにいて、励ましと力を与えてくださったものと信じております。
 本日は、召天者の方々を心に留めつつ、いつもの使徒信条の説教をいたしたいと思います。本日は、使徒信条の聖霊の項の中の、「罪のゆるし」ということについて恵みを分かち合いたいと思います。
 
   マタイによる福音書26章26〜29
 
 罪のゆるしということを考えるにあたって、本日取り上げた新約聖書は、マタイによる福音書26章26〜29節です。ここは有名な「最後の晩餐」と呼ばれる食事の席でのことで、イエス・キリストがおっしゃった言葉が書かれています。
 最後の晩餐は、翌日イエスさまが十字架にかけられる、そのためにこのあとイエスさまが捕らえられるという緊迫した状況で、イエスさまが弟子たちと共にとられた食事です。ただ、弟子たちは、そういう危機が迫っているということを知りません。しかしイエスさまご自身は知っておられるのです。そしてこの最後の晩餐は、イエスさまがなんのために十字架にかかられるのかということを表しているものでもあります。そしてこの最後の晩餐を、教会では「主の晩餐」と呼んで、聖餐式としてずっとおこなっているものでもあります。
 そのように、きょうの聖書箇所は、最後の晩餐を通して、イエスさまがなんのために十字架へ向かわれるのかを教えています。この最後の晩餐とは、単なる夕食ではなく、「過越の食事」と呼ばれる食卓でした。過越の食事というのは、ユダヤ人にとって特別な行事で、ユダヤ人は全員これを先祖代々行わなければならないというきまりでもありました。それは、その昔、先祖がエジプトで奴隷にされていたのを、神の奇跡によって解放されたことを記念する食事でした。そのとき、小羊の血を取って、それを家の玄関の扉のまわりに塗った家は神の罰が過ぎ越した、ということを忘れないために定められたのでした。イエスさまが弟子たちと共に取った最後の晩餐は、その過越の食事でした。
 今申し上げたように、むかし小羊がほふられて、その血によって神の罰が過ぎ越し、奴隷の国エジプトから解放された。そのように、イエスさまが十字架にかかられて血を流して命を捨てられる。その血によって、私たちの罪がゆるされ、罪の奴隷から解放され、神の国に向かっていけるようになる。そういうことを表しています。
 その食卓で、今日の聖書に書かれていますように、イエスさまはパンを手に取られて、神への賛美の祈りを唱えられ、そのパンを裂いて弟子たちに与えておっしゃいました。「取って食べなさい。これはわたしの体である」‥‥イエスさまは、パンをご自分の体になぞらえて、「取って食べなさい」とおっしゃったのです。ヨハネによる福音書6:48に次のようなイエスさまの言葉があります。「わたしは命のパンである」。イエスさまが命のパンであるというのです。すなわち、これはイエスさまを信じることによって、永遠の命を回復できるのだということです。
 続けてぶどう酒の入った杯を手にお取りになっておっしゃいました。28節「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」‥‥翌日イエスさまが十字架にかかって流される血。その予告です。聖書では、血は命のことを表します。そのイエスさまが十字架で流される血は、「罪が赦されるように、多くの人のために流される」血であると言われます。すなわち、私たちの罪が赦されるために、十字架にかかって命を捨てられるということです!
 本当に驚かされます。私たちひとりひとりの罪が赦されるためには、神の御子であるイエスさまが、十字架という死刑台にかかって、命を投げ打たなければならなかった。そのためにイエスさまは十字架にかかられると言われる。逆に言えば、私たちの罪ということが、神の御子が命を投げ打たなければならないほど大きな問題なのだということです。私たちは、自分の罪というものが、そんなにも大きな問題なのだということを、このことをもって、驚きと共に知らされるのです。
 
   罪の自覚
 
 私たちは、罪というものがそんなにも大きな問題だということが分かりません。罪というと、多くの人は、最初何を言っているのか分からないでしょう。だいたい、ほとんどの人は、罪というと法律を破るということだ、ぐらいにしか思わないでしょう。だから聖書で「罪」と書かれていても、なんだかよく分からないのです。
 かくいう私もそうでした。私は子どもの頃から教会に通っていました。だから聖書の話はいろいろ聞いていたし、「罪」という言葉も知っていました。けれどもそれが良く分かっているかというと、全然分かっていませんでしたし、あまり気にとめることもありませんでした。せいぜい、神の掟にそむくことだと思っていた程度でした。
 これはやがておとなになって、教会に戻ってきて、そして洗礼は幼児の時に受けていましたから、信仰告白式をしたときにも同じでした。だから罪ということが、頭では分かっていても実感として分からない。もちろん、自分もいろいろ悪いことをしてきたなあ、ということぐらいは分かるのですけれども、それが新約聖書で言われるほど大きな問題なのだということは全く理解できませんでした。
 それであるとき、神さまにお祈りしたんですね。「神さま、罪ということが分かりません。どうぞわたしが分かるように教えてください」と。そうして、何日かたった頃でした。突然、今までの人生で自分が犯してきた罪と過ちが、走馬灯のように次々と示されたんです。「ああ、あのことも罪だったのか。あの時のことも罪だったのか‥‥」そういう思いでした。全く愛がなかった自分が示されました。そして非常に苦しくなりました。自分が罪人であることが分かったからです。本当に心が苦しくなりました。
 しかし、同時に分かったことは、それらのことをイエスさまがゆるして下さったと信じるよう、聖書は薦めているということでした。そうすると、キリストの十字架というものが、はじめて本当にありがたいものだということが分かってきました。罪を知らされて、十字架のありがたさが分かったのです。
 「罪」というと、犯罪か法律違反のことかと思われるので、「悪」と言い換えても良いかもしれません。悪が自分の中にあるんです。罪は悪です。また、罪は愛のないことを言います。神に対する愛、そして隣人に対する愛です。
 その罪は、神の子イエス・キリストが十字架にかからなければならなかったほどものであるのです。そんなにも大きな問題なのです。小さなことではないんです。私たちにとって、決定的なことなんです。イエスさまが十字架で血を流し、命を投げ打たなければならなかったのです。そしてなぜイエスさまが私たちのために十字架で死なれたかというと、それは絶望で終わらせるためではありません。その罪人である私たちを救うためであったのです。そのことが復活によって明らかにされたのです。絶望は、大いなる希望へと変えられたのです。
 
   死は罪のゆえ
 
 死というものは、罪の結果だと聖書は教えています。今日読んだ旧約聖書は、創世記3章の最後の所です。そこでは、人間の罪と死について述べられています。そしてそれは、劇画調の物語によって述べられています。そういう物語の形をとって教えているのです。
 人間は神に似せて、極めて良い者として作られました。そしてエデンの園と呼ばれる所に置かれました。しかし、蛇にそそのかされて、神さまが食べてはいけないとおっしゃった「善悪の知識の木」から取って食べてしまいました。すなわち神を信じないで、そむいてしまったのです。その結果、人間はエデンの園を追放されました。それは、人間に死が入り込んだことをあらわしています。そのことが今日読んだ聖書箇所に書かれています。
 主なる神はおっしゃいました。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(22節)。そうしてエデンの園から追い出されました。そして、人間の力では再びエデンの園に戻ることができないようにされました。そのように、劇画調に書いて教えています。人間は自ら神さまを信じなくなった。その結果、命を失ったのだと。神さまが永遠の命そのものですから、その神から断絶してしまったので、命を失ったのです。そして人は、死ぬこととなった。
 こうして聖書は、死というものを通して、罪というものがどれほど悲惨なことかを知らせているのです。
 
   永遠の命の回復
 
 新約聖書の学者で、東京神学大学の教授であった竹森満佐一先生は、このようなことを本に書いておられます。‥‥「人間の生命は、死に終る、ということは、あたりまえのことのように言われます。これこそ絶対に間違いのない事実であります。だから、生命あるものは、必ず死ぬ、というようなことが語られ、だれもが、それを認めるのであります。 しかし、生命は、ほんとうは、いつまでも生きてこそ、生命ではないでしょうか。死ぬ生命というのは、ほんとうは、おかしい言い方なのであります。ただ、罪のゆえに、われわれは、死なねばならなくなったのであります。そうとすれば、罪の赦しによって、人間の生命は、はじめて、永遠の生命に連なるように、せられるのであります。」
 「罪の赦しが、身体のよみがえりと永遠の生命を与えたとし、その生命は、死ぬ時に与えられるのではなくて、罪が赦された時、救いを受けた時に、与えられるのでありましょう。」(『正しい信仰−使徒信条−』東京神学大学パンフレット)
 死というものの本当の原因が罪にあるならば、イエスさまを信じて罪がゆるされた時、それはすでに永遠の命が与えられているのだと。たしかにその通りです。
 
   聖霊の働き
 
 さて、そうすると、罪の赦しはキリストによることになります。イエス・キリストが十字架にかかって下さったおかげです。そうすると、使徒信条では、なぜ罪の赦しはキリストの項目におかれているのではなく、聖霊の項目に置かれているのでしょうか?
 それは、私の小さな経験を先ほど申し上げましたように、私たちが罪人であるということの自覚が、聖霊によって起きるというところにあるからでしょう。そしてキリストを信じて、聖霊が自分の内に来てくださることによって、罪の赦しが現実のものとなるからです。そして、なによりも罪の赦しを信じさせてくださるのは聖霊であります。
 先ほど、私は自分が罪人であることが分かったのが、信仰告白式を済ませてからのことだったと申し上げました。だから、罪がよく分からないから洗礼を受ける資格がないのではありません。イエスさまを信じていきたいという気持ちがあればいいのです。だんだん分かっていくのです。信仰生活を送っていきますと、自分が罪人であることが、さらに自覚されていきます。けれどもそれと反比例して、その罪人である自分がキリストによって赦されたことが、さらにありがたいものとして分かってきます。そこに喜びがあります。揺るぎない喜びです。
 そして神の国へと歩み続ける。それは喜ばしい歩みであるということができます。


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