2022年11月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教/準備
●聖書 詩編133編
    コロサイの信徒への手紙4章2〜4
●説教 「私とあなたとキリストと」使徒信条講解(19)

 
   聖徒の交わりとは?
 
 本日は、使徒信条の「聖徒の交わり」というくだりについて恵みを分かち合いたいと思います。
 「交わり」という言葉は、教会では親睦ということと同じように使われることが多いのではないかと思います。たとえば「交わりの時」というと、一緒にお茶を飲んで歓談することだと考えられたり、あるいは一緒に遊びに出かけたりすることだと思う方もおられるのではないでしょうか。しかし、実はそれはちょっと違います。
 また、一般の方に「交わり」という言葉を使うと、変に誤解されたりいたします。つまり世間ではあまり「交わり」という言葉を使いません。
 では、教会で言う「交わり」とは、本当はなんなのか。そこで参考として、英語の使徒信条ではどうなっているかを見てみます。英語の使徒信条(apostles' creed)では、「聖徒の交わり」は the communion of saints となっています。この、communion という言葉の意味は、英語の辞書では「霊的・精神的な交流、(キリスト教)聖餐、聖体拝領」となっています。これは的確に「交わり」について表していると思います。つまり、聖餐式を中心とした霊的な交流が、交わりであるということです。
 
   聖餐
 
 本日は、このあと聖餐式があります。その聖餐式で私が読み上げる聖餐の制定の言葉を見てみたいと思います。
(1コリント11:23〜26)"わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。"
 これは、イエスさまが最後の晩餐のときに弟子たちにおっしゃった言葉を取り上げて、使徒パウロが教えているものです。そこでは、イエスさまがパンを手に取ってそれを裂いて「これは、あなたがたのためのわたしの体である」とおっしゃり、ぶどう酒の入った杯を手に取って「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とおっしゃったことが言われています。そしてそれは十字架の救いを予告されている言葉です。杯がキリストの血を表していて、それを飲みなさいとおっしゃっているのは、なんだか生々しい感じがいたしますが、聖書では「血」は「命」を表します。ですから、その血の象徴であるぶどう酒(ぶどうジュース)を飲むということは、キリストの命をいただくということになります。
 それで私は、聖餐式のとき感動します。すなわち、イエスさまがこうおっしゃっているかのように聞こえるからです。「私はあなたのために十字架にかかった。あなたに命を与えるために。さあ、私の命を受け取りなさい!」と。こうして、わたしたちキリスト者は、キリストの体と命をいただいて、キリストの体の一部としていただいている恵みを再確認いたします。そして最後の晩餐では、イエスさまは一つのパンを裂いて弟子たちに渡されました。それはキリストがひとりであるように、教会が一つ、そして教会に属する信徒が一つであることを表しています。
 ここで、先週も挙げましたイエスさまの言葉が思い起こされます。
(ヨハネ 15:5)「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
 私たちキリスト者は、イエスさまという1本のぶどうの木に、それぞれがつなげられている枝である。それが教会であるということ。そのことは聖餐式においてはっきりと表されています。すなわち、聖餐式においてキリストの体なる教会というものが表されているわけです。
 そのように、「交わり」と言った場合、人間同士の交わりよりも先に、キリストとの交わりがまずあるということです。
 
   聖徒
 
 そして、「聖徒の交わり」のうちの「聖徒」という言葉です。聖徒という字を見ると、それは聖なるともがらということですから、なんだか自分のような俗物のことではないと思えます。先ほど紹介しました英語の使徒信条では、「聖徒」という言葉は saint(セイント)となっています。saint という言葉は、英語では「聖人」とも訳されますので、いよいよこの私は関係ないと思えます。聖徒というだけでも、天使のように清い愛の人というように思えるわけですから、聖人などというとそれはマザー・テレサ級の人であって、自分などまったく無関係だということになります。そうすると、「聖徒の交わり」ということ自体が、自分とは無関係のことのように思えます。
 しかし、聖徒というのは、自分を主語にして考えてはなりません。キリストを主語にしないと分からないものです。つまり、自分が聖なる者となるというのではなく、キリストが私を聖なる者として下さるということです。自分はたしかに聖なる者ではない。しかしキリスト・イエスさまが、この罪人である私を聖なる者として下さった。キリストが十字架にかかってくださって、私の罪をあがなってくださった。それで本来、聖なる者ではないこの私を聖なる者としてくださった。それでこの私たちのような者が、「聖徒」とされているということです。それは神の恵みなのです。
 
   交わり
 
 そのように、「聖徒の交わり」と言った場合、まずキリストとの交わりがあるということです。そして次に、横のつながり、すなわち聖徒同士の交わりがある。
 十字架の形がそれを表しています。十字架は、縦の棒と横の棒から成り立っています。まず縦の棒があって、次に横の棒がある。横の棒が先にあるのでは、それは下に落ちてしまいます。キリストとの交わり、つながりが先にあって、次に聖徒、すなわちキリスト者の交わりがあるのです。
 教会では、信徒同士のことを互いに兄弟姉妹と呼んでいます。これは、逗子教会の中だけのことではなく、同じ信仰告白に立つキリスト信徒同士は、どこでも兄弟姉妹です。それはキリストを主とする者は、一つの教会を越えて、世界の目に見えない一つのキリストの体なる教会、すなわち先週学んだところの「公同の教会」に属している神の家族であることを表しています。それもまた聖徒の交わりです。
 前任地の教会に、蚊の研究者である大学の先生がいました。彼は、ご家族一緒に洗礼を受けた人です。彼は、蚊の研究のためなら世界どこでも出かけるという人ですが、ちょうど中米の国グアテマラに行く直前に洗礼を受けました。そうして、同僚の研究者と共にグアテマラに行った。グアテマラはカトリックのキリスト教国です。そして、現地で受け入れてくれる人たちが聞いたそうです。「あなたの宗教は何か?」と。彼はもちろん「クリスチャンだ」と答えた。すると、「おお、兄弟!」と言って喜んで、ごちそうをふるまわれるなど歓待してくれたそうです。いっぽう、一緒に行った同僚は「無宗教だ」と答えた。すると彼らは驚いて、その人は信用されず冷遇されたのだそうです。彼はそのときの話をして、「あのとき洗礼を受けておいて良かった」と言いました。もちろん、そのために洗礼を受けたのではないでしょうけれども。付け加えておきますと、「宗教は?」と聞かれたとき、別に「仏教」と答えても、まだ良いそうです。それは宗教を信じているということですから。しかし「無宗教」というと、何も神を信じていないということになり、それは信用されないのだそうで、まだ世界には、神を信じないということが恐ろしいことであるとみなされる地域があることを、日本人は知っておく必要があるでしょう。
 しかしもう少しいうと、そのグアテマラのその方々は、無宗教だと答えたその人をこそ受け入れて、神を信じるべきことを教えるのが正しいと言えるでしょう。なぜなら、今日の聖書箇所であるコロサイの信徒への手紙でそのことが明らかにされているからです。
 
   とりなしの祈り
 
 コロサイの信徒への手紙4章2〜4節を先ほど読みましたが、その中の2節にこう書かれていました。「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と。
 「目を覚ましていなさい」というのは、もちろん、寝ないで目を開けていろという意味ではなく、心の目、信仰の目を覚ましていなさいということです。言い換えれば、主イエス・キリストの方を向いていなさい、ということです。キリストとの交わりを保っていなければ、それは聖徒の交わりを失ってしまうんです。
 そして「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」という。祈りというと、一般には、神さまにお願いすることだと思われていますが、キリスト教ではそれだけではありません。感謝の祈りがまず大切です。また、神さまの導きを求める祈り、あるいは神さまの御心を問う祈りというものがあります。この個所では、とりなしの祈りというものです。とりなしの祈りというのは、自分のことを祈るのではなく、教会の信徒のことを祈る祈りであり、また隣人の救いのために祈る祈りであり、さらには世界のために祈る祈りです。
 ですから、聖徒の交わりと言ったとき、そこで大切になるのが、兄弟姉妹のために祈る、とりなしの祈りということになります。3節に「同時にわたしたちのためにも祈ってください」と書かれていますね。コロサイの信徒への手紙というのは、使徒パウロが小アジアにあるコロサイの町の教会に宛てて書いた手紙ですが、言ってみれば、先生であるパウロが、信徒の方々に「私たちのために祈ってください」と、とりなしの祈りをお願いしているわけです。
 学校で、生徒が先生に「祈ってください」というのなら分かりますが、先生が生徒に「祈ってください」というのは逆じゃないか?と思う方もおられるでしょう。パウロ先生は、恥も外聞もかなぐり捨てて「祈ってください」とお願いしているのでしょうか? しかし、恥も外聞も、そんなものは関係ないのです。使徒であろうが、牧師であろうが、信徒であろうが、みな同じ罪人なんです。みな同じように、神さまの助けがなければまともに歩んでいくこともできない、弱い人間なんです。だから祈り合うことが必要なのです。
 そしてここでは、パウロが福音を宣べ伝えることができるように祈ってくださいと、お願いしているのです。3節に「キリストの秘められた計画」という言葉がありますね。これは、なにか謎めいた、怪しげな計画ということではありません。それまで世界の人々が知らなかった神の計画、すなわち、イエス・キリストによって私たちひとりひとりを救うという神さまの計画のことです。それを語ることができるように祈ってくれという。つまりキリストの福音を伝道することができるように祈ってくれということです。
 ちなみに、このコロサイの信徒への手紙を書いているとき、パウロは捕らえられて獄につながれているのです。牢獄に捕らえられていて、どうやって伝道できるのか? その不可能と思えることを、神さまが可能にして下さるように祈ってくれと言っているんです。そのように、教会が伝道という使命を果たしていくことができるように、祈り合う。支え合う。それが聖徒の交わりの大切な点のひとつです。
 私がむかし、いろいろな問題に行き詰まって、なかなか祈ることができなくなったときがありました。そのとき、友人の牧師と電話していて、その牧師が、「小宮山さんが祈れなくても、俺が祈っているから!」と言ったんですね。ものすごく励まされました。「ああ、祈れなくてもいいんだ」と思いました。そのように、ひとりが祈れなくても、兄弟姉妹が祈っていてくれる。このようにして主は、お互いにおぎなうように教会を与えていてくださる。聖徒の交わりを与えていてくださる。そのように思います。
 そのようにして私たちは、共に神の国に向かって歩んでいきます。そして、世の人々をも、その歩みに加えられるよう、仕えていくのです。


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