2022年10月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書30章21〜22
    エフェソの信徒への手紙1章20〜23
●説教 「キリストの体なる教会」使徒信条による連続講解説教(18)

 
 本日は使徒信条の聖霊なる神の項の第2回、「聖なる公同の教会」について恵みを分かち合いたいと思います。
 
   私と教会
 
 教会は、私にとってふるさとのような存在でした。私は子どもの頃から教会に通っていました。教会に通うというのは習慣であって、とくに何か理由があるわけでもありませんでした。大学生になって親元を離れ、やがて教会に行かなくなり、信仰も失いました。神もキリストも信じなくなりました。その後社会人となり、持病のぜんそくが悪化して死線をさまよいました。そこから救われて、郷里に戻り、再び教会に通うようになりました。その過程で、さまざまなふしぎな出来事があり、キリストが生きておられることを知りました。
 教会に戻った時、みんな優しく迎えてくれました。一度は神を捨てた私を、あたたかく迎えてくれたのです。その教会は、私にとって、ルカによる福音書15章の「放蕩息子」のたとえ話に登場する父親のような存在でした。つまり、帰ってくる資格のない息子を無条件に受け入れてくれたあの父親のような存在です。それで教会は、一度都会に出て戻ってきた人を迎えてくれるふるさとのように思えたのです。
 しかしそれでは、子どもの頃教会に通っていなかった人は関係ないではないかと思われるかも知れません。しかし、やはり教会はすべての人にとってふるさとのような存在ではないかと思うのです。つまり、すべての人は神さまによって造られ命を与えられた。しかしその神を信じないまま生きていった。そういう人間が、神を信じるようになった時、それはまったく新しく神を信じるというのではなくて、命を与えた神さまのところに帰って来たと言えます。そのように、すべての人には帰る所がある。それが神さまの所であり、神の教会という場所であると思います。つまり本当のふるさとです。
 
   教会とは何か
 
 教会とは何か?‥‥教会とは建物のことではなく、主を信じて礼拝する人の集まりのことであるということは、洗礼準備会の時に説明することです。私が放浪を終えて教会に戻ったのは、教会の建物に戻ったのではありませんでした。また教会の人がなつかしくて戻ったわけでもありませんでした。それは神の招きであったのです。
 「教会」という言葉は、新約聖書の原典であるギリシャ語では「ホ・エクレシア」という言葉になります。「ホ」というのはギリシャ語の定冠詞で、英語では「the」にあたります。「エクレシア」という言葉は集会という意味です。東京神学大学に入りますと、一番頭を悩ませられた授業がギリシャ語でした。覚えるのが難しいんですね。変化形が多くて。それである時苦労して、ある聖書の箇所を自力で日本語に訳したんです。私訳というやつです。そこで「ホ・エクレシア」という言葉を「集会」と訳しました。それを当時の新約聖書神学の教授である平野保先生が見て、「『エクレシア』だけなら『集会』と訳すのだが、『ホ』という定冠詞が付いている場合は、『教会』と訳すんだ」とおっしゃったんです。私はそのことが忘れられません。そうか、と思ったんです。教会は確かに集会であるには違いないのだが、それはただの集会なのではなくて特別な集会なんだな、と。そのことが、そのとき分かりました。言ってみれば、集会の中の集会、集まり、それが教会であるということです。言ってみれば、究極の集会です。
 世の中にはいろいろな集会がありますが、それらはなんのために集まるんでしょうか? たとえば私は教会を離れていた学生時代、よく政治的な集会に出かけました。それらの集会は、空港建設反対とか、基地反対とか、そういう問題への意思表示をするために集まるわけです。あるいは学校では入学式とか卒業式といったような集まりがあります。それらは入学する生徒を歓迎するためとか、卒業する生徒に卒業証書を渡して激励するためとか、そういった目的があります。あるいは講演会という集まりも世の中にはよくあります。それらはためになる話を聞くために集まるわけです。あるいは会社や団体の会議。会議も集まりですね。これも、ある物事について協議をするために会議をするわけです。
 それに対して、教会という集まりは、何かものごとを決めるとか、意思表示をするとか、あるいは何かためになるからという目的があって礼拝という集まりをするのではありません。もちろんためになるには違いありませんが、しかしそれが目的というわけではない。礼拝という集まり、つまり集まって礼拝をするということ自体がすでに目的であるということです。礼拝は何か他の目的を達成するための手段ではない。礼拝に集まっているということがすでに目的なのです。
 これは、私が長く離れていた教会へ戻ったのもそうでした。私が教会に戻った時に、何か目的があったのではありませんでした。友だちを得ようとか、なつかしい人たちに会うためとか、そういう目的がほかにあったのではありませんでした。教会という言葉が、もともと礼拝のために集まっていることを指す。その礼拝に再び加わったということでした。そして教会は神のほうを見ていました。共に集まって神さまの方を向く空間。それが教会でした。そしてそこにキリストがおられる。それが教会です。そのことはイエスさまご自身が弟子たちに語っておられます。
(マタイ18:19〜20)「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 二人でも三人でも、どんなに少なくても、イエスさまのお名前によって集まる。それは礼拝であり教会です。そしてそこにイエスさまがいて下さると約束なさっています。すなわちイエスさまと共にいる集まり、それが教会であるということです。
 
   聖霊の働き
 
 使徒信条の中で、三位一体の三番目である聖霊の項目の中で「教会」が出てきています。前回は「我は聖霊を信ず」であったわけですが、続いてすぐに「教会」が出てきます。つまり教会は聖霊によって存在するということになります。教会は、人間が作った団体ではないということです。一人でキリストを礼拝するよりも、他の多くの人と共に礼拝するほうが楽しいし励まされるから教会を作ったというのではない。そういう人間の都合で教会ができたのではないということです。神の働きであるということです。
 使徒言行録2章の、ペンテコステの日の出来事がそのことを表しています。イエスさまのおっしゃったことを守ってエルサレムにて集まっていた弟子たちのところに聖霊が降りました。物音を聞いて集まってきた群衆に向かって、ペトロが説教をいたしました。イエスさまのことを説教しました。聞いた人々はそれを聞いて大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」と使徒たちに尋ねました。するとペトロは彼らに言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
 こうしてその日、3千人の人々が洗礼を受けて仲間に加わり、教会が誕生しました。そのように、聖書は、聖霊なる神の働きによって教会が誕生したことを証言しています。
 
   イエスが建てた教会
 
 さらにさかのぼると、教会はイエス・キリストが建てたということができます。マタイによる福音書16章15〜17節には次のようなやりとりがあります。
 "イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」"
 ペトロが、イエスさまのことを「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白した。その信仰の告白の上に、イエスさまが教会を建てるとおっしゃったのです。すなわち、教会は、イエスさまが建てられたものであるということです。そのイエスさまは、十字架にかかって命を投げ出された。そうして私たちを救ってくださった。したがって、イエス・キリストは、命をかけて教会をつくられたということになります。
 そうすると、教会は、あってもなくてもどちらでもよいものではなく、なくてはならないものだということになります。
 
   キリストの体なる教会
 
 本日読んだエフェソの信徒への手紙の中で、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)と書かれています。教会はキリストの体であると言われているんです。
 このことで思い出すのは、イエスさまの言葉です。(ヨハネ福音書15:5)「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
 イエスさまはご自分をぶどうの木にたとえられました。そして私たちがそのぶどうの枝であると言われます。ぶどうの木に限らないことですが、木というものは幹があって、そこから枝が伸びています。幹だけの木というものはありません。それは枯れてしまいます。なぜなら枝から葉っぱが伸びて、光合成を行い、成長していくからです。また逆に、枝だけのぶどうの木というものもありません。枝だけでは幹につながっていないから、枯れてしまいます。
 そのように、イエスさまは、私たちとご自分とを一体のものとして見なしてくださっている。そしてそれが教会であるということになります。私たちのような罪人であり、あまり頼りにならないような弱い者を、教会というご自分の体の一部としてくださっている。まことに尊いことであると思います。
 
   公同の教会
 
 もう一つ使徒信条で触れておかなくてはならないのは、「公同の教会」と言われていることです。この「公同」というのは聞き慣れない言葉です。
 これはどういう意味かということですが、たとえばキリスト教会といっても、一つではありません。教派に分かれています。大きくいえば、キリスト教は、正教会とカトリック教会とプロテスタント教会に分かれています。そしてプロテスタント教会の中にもさまざまな教派があります。メソジスト教会があり、長老派教会があり、バプテスト教会があり、ペンテコステ教会があり、といった具合です。そういうことを見ると、まるでキリストの体なる教会がバラバラになってしまったかのようです。
 しかし、そのようにいろいろな教派に分かれているけれども、それがイエス・キリストの一つの教会であるということ。それが「公同の教会」ということです。見た目には大きな違いがあるように見えます。たとえば教会の建物からして違うし、牧師と神父の違いもあります。またカトリックにはシスターがいて、教会にはマリア様の像が建っているし、ロザリオがあるし、ミサもプロテスタント教会の礼拝とは違っています。そのようにさまざまな違いがあるけれども、イエス・キリストの教会として一つであるということです。
 なぜ一つの教会であると言えるかというと、それは同じ信仰に立っているからです。同じ信仰というのは、この使徒信条などの基本信条が同じであるということです。そういう意味でも使徒信条を学ぶことは、とても大切なことであると言えます。こうして私たちは、目には見えないけれども、イエス・キリストをかしらとする、大きな教会に加えられている。キリストの体の大切な一部とされているということです。
 こうしてあらためて教会というものを考えてみると、教会というのが単に人の集まりなのではなく、キリストの体とされているという、なにかとても尊いものであることが分かってきます。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)という。
 私たちはキリスト者としていただきましたが、罪人のひとりです。欠点もある者の集まりです。ですから問題も起きてきます。しかし、にもかかわらずイエスさまは、それをご自分の体としてくださる。私たちをご自分の体の一部と見なしてくださる。わたしたちはイエスさまから見て、なくてはならぬ存在なのです。
 そして、教会に神とキリストは満ちてくださっているという。今、逗子教会の教会報「ぶどうの木」の巻頭説教で、「私の見た主の奇跡」という連載を書かせていただいています。振り返ってみると、私が見た主の奇跡は、すべて教会を舞台としたもの、あるいは教会につながることで起きたものばかりでした。まさに主イエス・キリストは、すべての人をこのキリストの体なる教会にまねていられることが分かります。
 そうしてかしらなるキリストは、この私たちを手足として用いて、世の人々の救いのために教会を祝福してくださるのであります。


[説教の見出しページに戻る]