2022年10月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨエル書3章1〜5
    テトスへの手紙3書4〜7
●説教 「聖霊を信ず」 使徒信条による連続講解説教(17)

 
   聖霊を求める
 
 本日は使徒信条の第3の項目に入ります。「我は聖霊を信ず」です。
 この「聖霊」について説教するにあたって、あらためていくつかの本を読みました。その中で、エミール・ブルンナーの使徒信条の講解説教集である『我は生ける神を信ず』が目に止まりました。ブルンナー先生は、カール・バルトと同じくスイス出身の神学者であり、大きな影響を神学に与えた人です。そして日本を愛し、戦後日本に来て国際キリスト教大学で教鞭をとられたりしました。
 そのブルンナー先生が、使徒信条の「我は聖霊を信ず」について、「いかにして聖霊を受けるか」という説教をなさっています。この説教は、1939年(昭和14年)になされました。1939年は、ヨーロッパではすでにヒトラー率いるドイツが侵略を始め、第二次世界大戦が勃発した年でした。スイスは中立国でしたが、地理的に枢軸国であるドイツとイタリアに挟まれていて、ドイツの出方によっては、いつ戦争に巻きこまれるか予断を許さず、非常に緊迫した状況でした。
 そのような緊張状態に国民が置かれている中で、ブルンナー先生は、「わが国が戦火を免れることができるように多くの人は祈っているが、そう祈ることによって決して救われはしない」と説教を語っているのです。そして、「戦争よりも悪いことがある。それは国民の精神的頽廃である」と言うんです。「苦難がない状態においては、私たちは直ちに神を見失い、軽薄になり、なまぬるくなり、だらしないものになる。わたしたちは自分たちが悪くなったことには絶望しないけれども、事情が自分たちにとって悪く行くとなるとすぐさま絶望してしまう」と語ります。つまり、戦争が起こるというような危機になると絶望するけれども、私たち自身が神を見失って悪くなってしまうことには絶望しない、それが問題だというのです。創世記1章に書かれているように、私たちは神さまによって神にかたどって造られた。それが罪によって失われたわけですが、その私たちが失った神に似た姿を取り戻すための願いが第一でなくてはならないということを語っています。そして続けて、「そのためにはもし必要とあらば、不幸、苦悩、病、損害、苦痛をうけることもいとわないということでなければなりません」と語ります。そしてそのために、聖霊を求めることが必要であると語っています。「聖霊における平和と喜び、これこそが今日私たちが持たねばならないところのものです」と。
 繰り返しますが、これは平和な時の説教ではありません。ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害し、隣国への侵略を開始し、ヨーロッパ中を恐怖の中に陥れつつある中での説教なのです。だからのんきなことを言っているのではないのです。私はハッとさせられました。戦争よりも悪いことがある、それは私たち自身が神を見失って悪くなることだと。神を見失ってしまうことは、それほど悪いことなのだということを、思い起こさせていただきました。そしてその説教の中で、すでに聖霊の働きの意味について語られています。
 
   三位一体と聖霊
 
 使徒信条には、三位一体という言葉は出てきませんけれども、使徒信条の本文が、父なる神の項、子なる神イエス・キリストの項、聖霊なる神の項と3つに分かれていて、三位一体を証ししているということは、すでに述べたとおりです。
 皆さんが今座っている、この逗子教会礼拝堂の長椅子ですが、それを横から見ると三つの丸い突起物が付いていることがお分かりかと思いますが、これは三位一体を表しているのだそうです。そしてその三つの丸は、上に二つ、下に一つになっています。その下の一つが聖霊を表しています。そして上の二つが、父なる神とイエス・キリストを表しています。なぜ逆三角形のように、上に二つの丸があるかというと、聖霊が父なる神とイエス・キリストから送られているということを示しています。
 そしてあらためて使徒信条の三位一体の並び順を見てみますと、大事なことが見えてきます。
 まず父なる神です。使徒信条では「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とありますように、私たちの造り主であり私たちに命を与えた方です。そして創世記1章に書かれているとおり、神はご自分にかたどり、神に似せて人間をお造りになりました。しかしその私たち人間は、神を信じないで背いて罪人となり、死が入り込みました。神の性質を失いました。
 そして使徒信条は次に「我はそのひとり子、我らの主イエス・キリストを信ず」と告白してます。子なる神、イエス・キリストです。そのイエスさまは、罪人となった私たちを神のもとに取り戻すために人の子となってこの世に来られました。そして十字架にかかられて、私たちを罪から救ってくださいました。そしてそのイエスさまを信じることによって、私たちは罪人であるにもかかわらず、神の子となるようにしてくださいました。
 そして三番目の聖霊なる神です。この聖霊は、イエスさまによって名目上神の子としてくださったけれども、中身は相変わらず罪人である私たちを、中身も本当に神の子らしくするよう助けるために来てくださったということができます。こうして、再び神に似せて造られた本来の姿を取り戻すようにして下さる。神に似た者というのは、神が愛ですから、その愛と命を取り戻すためということにもなるでしょう。
 こうして使徒信条を見ると、私たちを根本から救うために、三位一体なる神様が存在しておられることがよく分かります。
 
   聖霊の働き
 
 聖霊について、今日の1回だけで語ることはできませんし、このあとも聖霊の項目は続きますので、今日は入り口のところということになります。
 聖霊とは何かを語る時に、それを辞書のように説明しても分からないし、あまり意味がないでしょう。たとえば、「霊」という言葉はヘブライ語ではルーアッハ、ギリシャ語ではプニューマという言葉で、いずれも「霊」という意味と「風」という意味があります。そうすると、「風」という言葉を辞書で引くと、最初に「空気の流れ。気流。特に、肌で感じるもの。」と出てきます。なるほど、たしかにそうに違いありませんが、それを幼い子供に説明しても、よく分からないでしょう。それよりも、「草が揺れているね。それは『風』が吹いているからだよ」と言ったほうがよく分かるでしょう。そのように目に見えないものである風は、その働いた結果を見れば分かります。
 聖霊もそれと同じです。聖霊を国語辞典で引いてもどうせたいしたことは書いてないだろうと思って広辞苑で引いたところ、「(Holy Spirit)キリスト教で三位一体(父・子・聖霊)の第3の位格。信仰の恵みを与え、教会の誕生、キリストの働きの継続、カリスマ的な活動、人類の一致の鼓吹力となるもの。助け主。慰め主。」と書いてあって、そのあまりにも的確な記述に驚いてしまい、言葉を失いました。
 それはともかく、聖書では聖霊はすべて人の中で働きます。たとえば旧約聖書では、士師記に出て来る怪力サムソン。士師記14章を見ると、聖霊がサムソンに激しく下り、サムソンは獅子(ライオン)を手で裂いたと書かれています。そのように超人的な力を与えています。また、イスラエルの初代の王であるサウル。サムエル記上10章では、サウルに聖霊が激しく降って、預言者のように予言したと書かれています。また預言者であるエリヤやエリシャは、聖霊の力によって預言をしたりさまざまな奇跡を行っています。
 また新約聖書では、マリア様が聖霊によってイエスさまを身ごもっています。そしてイエスさまは、人の子としてお生まれになりましたが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に聖霊が降っています。ですから、人の子であるイエスさまが多くの奇跡をなさったのは、聖霊によるものであるということができます。
 
   すべての人に
 
 聖霊は旧約聖書では、特別な人だけに降りました。つまり与えられました。しかし今日最初に読んだ聖書、ヨエル書の3章1節にはこう書かれていました。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」
 旧約聖書の時代には特別な人にだけ与えられた聖霊が、すべての人に注ぐと神の預言がされています。それがいつからすべての人に注がれることになったかと言えば、ペンテコステのことです。使徒言行録2章ですね。イエスさまのおっしゃったとおり、一つになって集まっていた弟子たちのところに聖霊が降りました。すると弟子たちは、自分たちの知らなかった外国の言葉で神の偉大な働きを語り始めました。これは異言と呼ばれるものです。そして弟子たちは、大胆にキリストのことを伝え始めました。これも聖霊の奇跡です。
 そのように、風が吹けば木の葉が揺れるように、聖霊が与えられて人に変化が起こるのです。コリントの信徒への第1の手紙12章に、聖霊が人に与える賜物について書かれていますが、その中に「信仰」があります。私たちの信仰すらも、聖霊が与えてくださるものであることが分かります。その12章3節にこう書かれています。「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」それゆえ、私たちが「イエスは主である」と告白するならば、それは聖霊の働きによるものなんです。したがって、私たちが使徒信条を告白する時、それは聖霊の働きによるものであると言えるのです。
 聖書を読むと、そのように聖霊なる神は私たちの中に与えられ、内側から私たちに働きかける方であることが分かります。
 なぜペンテコステの時に聖霊降臨があったのか。それは順序が大切です。ペンテコステの聖霊降臨の前に何があったかを忘れてはなりません。それはイエスさまの十字架です。そして復活、昇天。それを経て聖霊がだれにでも与えられるようになったのです。つまりイエスさまのおかげです。ペンテコステの日、聖霊を受けたペトロが多くの群衆を前にイエス・キリストのことを語った時、人々は強く心を打たれ、弟子たちに尋ねました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」と。するとペトロが答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
 すなわち、悔い改めてイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただく。そうすれば聖霊を受けると。
 本日読みました新約聖書、テトスへの手紙3章5〜6節にこう書かれていました。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」
 私たちは、聖霊を与えられることによって新しく生まれたのです。そして私たちが、神の御心にかなう者となるように、造りかえられていく。成長させられていく。そういう歩みが始まったのです。それは、神が最初に私たち人間を作られた時の姿、すなわち神のかたちに造られた時の状態を取り戻していくための、神の導きです。
 
   聖霊の結果
 
 神さまが持っておられる性質というと、それはキリストが持っておられる性質と言うことになります。それはどういうものかということが、ガラテヤの信徒への手紙5章22〜23節に書かれています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
 それは私たちが頑張って、そのような実を結ぶことができるというのではありません。それは聖霊が私たちの内側を変えていって、そのような実を結ぶようにして下さるというのです。これはすばらしいことではないでしょうか。不平不満や文句ばかり言っていた者が、喜びに満たされる。憎み、人の悪口ばかり言っていた自分が、赦すことができるようになり、寛容な者へと変えられる。平安です。これは福音ではありませんか?
 最後に、皆さんもよくご存じで、愛唱聖句にしている方も多い御言葉を思い出してみましょう。テサロニケの信徒への第1の手紙5章16〜18節です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」‥‥ここまでは暗唱している方も多いでしょう。しかしその次の言葉を覚えていますか? こういう言葉です。「゛霊゛の火を消してはいけません。」‥‥聖霊の火を消してはならないと教えています。
 ともし火は、油が切れれば火が消えてしまいます。聖霊の火も消えてしまうというのです。火が消えないようにするにはどうすれば良いのでしょうか?
 それは最初に聖霊を受けた時に戻ることです。すなわち、ペンテコステの日にペトロが群衆に答えた言葉にヒントがあります。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
 そのように、日々悔い改めて、すなわち主の方を向いて信仰を告白する。そして聖霊を求める祈りは、聞かれる祈りであることを思い出したいものです。(ルカ11:10〜13)「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
 今週も主と共に歩む一週間でありますように!


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